第33話

 汚泥のような感情は、風呂に入ってみても拭えなかった。

 結局はなにも言えないまま、俺はベッドの中で暗闇を見つめている。

 もう一時間くらいは経過してしまったかもしれない。

 当の本人はすでに夢の中だろう。

 俺だって、眠れるものなら早く眠りたい。

 明日はまだ平日で、普通に仕事があるのだから。

 だが、どうしても一度刻まれたものが頭から離れてくれなかった。

 正義の味方という、彼女の立場と在り方について。

 ずっと半信半疑な部分は、正直あった。

 仮になにか特別な存在なのだとしても、フィクションに出てくるようなものではないだろうと、どこかで思っていたんだ。

 だけど今日のあの姿を見たら――あの傷を見たら、もう疑う余地なんてない。

 彼女が言う正義の味方というものが、俺の想像通りのものかはわからないけど。

 それでも間違いなく、彼女はなにかと戦っている。

 あんなボロボロになることが、当たり前のことだと言えてしまうようななにかと。

 一体、なにと戦っているのだろう?

 いや、そもそもどこで戦っているんだ?

「そんな話……」

 もちろん、聞いたことがない。

 世界を脅かすようななにかが存在しているなんて。

 ニュースにならないということは、一般人には認識されていないのだろう。

 その存在を隠されている、という線もあるかもしれない。

 でも彼女の口ぶりからすると、違う気がする。

 彼女だけが知っている、彼女じゃなければ戦えない敵。

 そんなニュアンスの言い方をしていた、と思う。

 確か、仲間もいたと言っていたけど……。

「……今はもう」

 自分一人だと、そう言っていたはずだ。

 それがどういう意味を持つのかは、今は考えないでおこう。

 今の俺にはとても抱えきれるものじゃない。

 だから今考えるべきは、そう。

 どうして彼女が、正義の味方なのかということだ。

 正義の味方であること。

 彼女はその生き方を、自ら望んだのだろうか?

 それとも強制的に――生まれたときから、そうなるように決まっていたのか。

 正義の味方を生業とする家系なんてものがあったりしたら……。

 いや、ダメだ。

 想像することさえ難しい。

 だって俺が知る世界はあまりにも普通で、正義とか悪とかいうものとは無縁すぎて。

 でも彼女にとっては、そうじゃない。

 俺には想像もできない力を持っていて、戦っている。

 そうだ、死んだ俺を生き返らせたくらいなんだから。

 そんな彼女に俺ができることは、こうして寝床を提供することくらい。

 他にできることなんて、果たしてなにがあるのか……。

 だいたい、そんなのは誰にだってできる。

 俺じゃなくても、彼女を助けたいと思う人はいくらでもいるだろうし。

 たまたまあの日、俺が彼女と出会ってしまっただけで。

「ホント、俺ってやつは……」

 情けないなんて考えていることこそが、なによりも情けないのだろう。

 できないことをできないと認めたくない、そんな自分がまだどこかにいる。

「……今までもずっと、あんな感じだったのかな」

 服までボロボロになっていた彼女の姿が焼き付いている。

 そこに重なるのは、俺がよく知るいつもの彼女だ。

 同じ花芳という居候の女の子のはずなのに、まるで違う。

 でもそれはあくまで俺の主観。

 彼女にとっては、どちらも同じ自分なのだろう。

 けど、考えてしまう。

 どちらの姿が、本当の彼女なのだろうかと。

 フルネームすら知らない彼女のことが、どうしてこんなにも気になるのか。

 そんなことはもうどうでもいい。

 とにかく知りたい。

 彼女について、もっときちんと。

 自分勝手な願望が、どうしようもなく膨れ上がっていくのがわかる。

 その根底にあるものがなんなのかは、ひとまず置いておく。

 とにかく、彼女のことだ。

 俺が知る限り、新調したスマホで誰かと連絡を取り合っている様子はない。

 かと言って、それを訊いていいのかもわからない。

 知りたいという感情だけが先走っている。

 そんなのは、彼女にとって迷惑でしかないとわかっているのに。

「距離感、か……」

 もし俺が踏み込んだとしたら、彼女はどうするのだろうか。

 そして俺自身、彼女のことを知ったとき、どうなるのか。

 先走る感情に歯止めをかけるのは、皮肉にも俺自身の弱さだった。

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