第7話

「どうしてもやるのか?」

「今更ですね。もしかして怖気づきましたか?」

 言ってくれるな……。

 隠し切れていない悪戯めいた口元から察するに、先ほどの憂さ晴らし的な意味合いがありそうだ。

 夕飯の出来が思い通りにいかなかったのは、俺のせいじゃないだろうに。

「……ちょっとシャワーを浴びるくらいなら大丈夫なんじゃないか?」

「加減を間違ったらどうするんですか?」

「でも、おかげでかなり楽になってきてるし」

 俺としてはそろそろ、ちゃんとシャワーを浴びてさっぱりしたい。

 初日の夜は当然として、昨日も具合が良くなかったからと、シャワーを浴びていない。

 一日のほとんどを横になって過ごしているとは言え、汗はかなり掻いた。

 髪のべたつきも気持ち悪いし、体臭だって気になる。

 だからシャワーを浴びたいと切り出したのだが……。

「私が近くにいるからです。買い出し行ったときだってギリギリでしたよね?」

 ぐうの音も出ない。

 実際、彼女が買い出しに行ったとき、ほんの三十分程度で激痛に襲われ始めた。

 俺が脂汗を掻き始めるのと、彼女が急いで帰宅したのはほぼ同時だった。

「今度はお風呂場で味わいたいんですか?」

「いや、でもシャワーなら十分とか十五分くらいだろうし」

 買い出しの時に比べたら、時間的余裕はあると思う。

 だが彼女はこれ見よがしにため息をつき、目を細める。

「だから言ってるじゃないですか。身体を洗ったりする際に加減を間違えるかもしれないって」

「なら、軽くシャワーを浴びるだけでも……」

「我慢してください。多分ですけど、今夜一晩大人しくしていれば、日常生活を送れる程度には回復すると思うので。そうすれば好きなだけシャワーでもなんでも浴びられますよ」

 そのあと一晩が我慢できそうにないのだが、彼女はわかってくれない。

「それともなんです? 裸でのたうち回るあなたを、私に手当てさせたいんですか?」

「……さすがにそれはちょっと」

 もしそうなったらと想像するだけで情けなくなる。

 彼女ならそうなっても平気で手当てしてくれそうだけど。

「あとは、そうですね。あなたが望むのであれば、私も一緒に浴室に入って補助をする、という選択肢もあるにはありますけど……」

 それがお望みですか、と真っ直ぐに見つめられる。

 嫌悪も軽蔑も一切ない、単純な問いかけのように。

 ここでその選択肢を選べるほど、欲望に忠実な生き方はしていない。

「……わかったよ。じゃあ、最初の案で」

 交渉は諦めて、彼女の提案を受け入れることにした。

 俺と彼女の、中間的な落としどころ。

「じゃあ、洗面器とタオル、準備してきますね」

 満足げに頷いた彼女は立ち上がり、浴室に向かう。

 そして必要なものを手に、すぐ戻って来た。

「さ、脱いでください」

「……上半身だけ、だよな?」

「……あなた次第ですけど?」

「いや、平気だ」

 頬を赤らめることなく、やや目を細める彼女にそう答え、背中を向ける。

 よく考えなくても、今のはセクハラまがいの発言だった。

 これ以上余計な発言をしてしまう前に、終わらせてしまおう。

 そう考え、大人しく上半身裸になる。

 あとは彼女に任せるだけだ。

「痛むようなら言ってくださいね。一応、力を与えながらするつもりですけど、初めてなので」

「あぁ、頼むよ」

 俺一人では痛むかもしれないが、彼女がその特別な力を使いながら拭くのなら、おそらくは大丈夫。

 それが彼女の案だった。

 身体を拭くのは俺自身でもよさそうだったが、彼女に却下されてしまった。

 効率が悪いからというのが彼女の言い分だけど、本当は償いの意味合いが強いんじゃないかと思う。

 とにかく、上半身だけでもさっぱりできるのならありがたい。

「では、失礼して」

 彼女の手が俺の肩に置かれる。

 続けて背中に水気を帯びたタオルの感触が触れた。

 洗面器で絞ったタオルが、二日分の汗を拭ってくれる。

 心地よさに思わず声を漏らしてしまいそうになるが、そこは堪えた。

 できることはなにもなく、なんとなく自分の身体を眺める。

 規則性もなく、薄っすらとした痣のようなものがまだ残っていた。

 それだけではなく、継ぎ接ぎでもしたかのような歪などす黒い線も。

 昨日に比べたら、これでもかなり薄くなった方だ。

 最初に見たときは思わず吐きそうになった。

 この僅かに残る傷痕を見るだけでも、自分が一度、どんな状態になったのかが想像できてしまう。

 俺は一度死んで、蘇生させられた。

 そんな悪い冗談でもありえない話を信じられたのは、この傷痕があったからでもある。

 まぁ、どんな勢いでぶつかったらこんな状態になるのか、そこは疑問ではあるけど。

 なんにせよ、俺は本当に一度とんでもない状態になって、それから……。

「うっ、んっ……」

「痛みますか?」

「いや、どうだろ……ちょっと思い出したせいかな」

 軽い吐き気と共に、幻のような痛みを覚えた。

 本当に身体が痛んだのかどうかは、正直わからない。

 俺が知らない痛みを、身体が覚えているようで……。

「……っと、お、おい」

「ジッとして。大丈夫ですから……」

 くすぐるような囁き声が、首筋を掠める。

 彼女は俺の身体に腕を回し、そっと背後から抱き締めてくれていた。

 触れ合う部分が多ければ多いほど、痛みを和らげることができるらしい。

 実際、そうしているだけで先ほどの痛みはどこかに霧散してしまった。

 代わりに、もどかしくなるような、落ち着かない気持ちが、触れ合った肌から内側へと広がっていく。

 息遣いさえ重なるほどの密着。

 そんな状況で俺は、汗臭いと思われてしまわないかなんて、場違いなことを考えてしまった。

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