西山が帰ると、その辺を掃除してましたと言わんばかりに、雑巾ぞうきんを手にした虹子が顔を出した。



 ――そして、虹子が消えた。 食材の買い出しから戻ると、テーブルの上にチラシの裏に書いた置き手紙があった。



《この度は、大変お世話になりました。

 ありがとうございました。

 大輝君に宜しくお伝えください。

 紅虹様へ

  虹子より》



 客間を覗くと、綺麗に片付けられ、虹子の温もりすら拭われていた。――



 いつものように、ガラガラっ! と戸が開くと、


「ただいまっ!」


 大輝の元気な声がした。


「……おかえり」


 俺は原稿用紙に目を落としながら、そう呟いた。虹子を探しているのか、台所から順に浴室やトイレを確認している足音が聞こえていた。そして、客間を見終えるとやって来た。


「お父さん、ニジコさんは?」


「……帰った」


 大輝の顔を見ずに言った。


「えっ……」


 がっかりした顔が想像できた。そして、涙を堪えているような無言の大輝が、いつまでも背後に居た。



 久し振りに食事を作った。虹子の料理が当然のようになっていた昨今、大輝は俺の料理に何ら反応を示さなかった。


「どうだ、味のほうは」


「……まあまあ」


 野菜炒めに箸は付けていたが、あまり食べてなかった。そんな大輝に気兼ねして、俺は晩酌も控えた。


「……きおくがもどったから帰ったの?」


 小さな声で聞いた。


「……多分な」


「……もう、会えないの?」


 涙を溜めて、俺を見た。


「……さあな」


 俺は目を逸らした。


 大輝は、はなみずすすると、手の甲で涙を拭った。


「……会いたいのか?」


 俺の問いに頷いた。


「お父さんは?」


「……大輝と同じだ」


「じゃ、さがそー」


 眼を輝かせた。


「どうやって」


「……わかんないけど、お父さんならわかるでしょ? 小説家なんだから」


「うむ……考えとくよ」


「ホントだよ、約束だよ」


「……ああ」


「ヤッター」


 俄然、大輝の箸が進んだ。 



 虹子が、西山が言ってた記憶喪失の老人と関わりがあるなら、新聞記事にそのヒントがある筈だ。俺は溜まった新聞から、二週間ほど前のを探した。


 あった!


《×日、午後4時ごろ、大原の渓流の茂みに60~70歳くらいの男性が倒れていた。発見したのは、犬の散歩をしていた近所の住人で、男性は土手から転落したとみられ、頭部に出血はあったものの、命に別状はなく、軽症とのこと。ただ、記憶をなくしているらしく、自分の名前や住所がわからないとのことです。男性の持ち物に、身元を証す物はなく、事件と事故の両面から捜査をしている》


 ……これだけでは何も分からない。……どうしたらいい? 西山が言っていた、老人が入院しているという〈白井医院〉に行ってみるか。丹前から茶色のジャケットに着替えると、車を出した。



「ああ、記憶喪失の? 退院されましたよ、昨日」


 中年の看護婦が応対した。


「で、名前は?」


「それは言えませんが、知り合いだという女性が来られて、名前と住所が分かったんです」


「女性?」


「ええ。三十前後でしょうか、黒い野球帽を被ってました」


 ……虹子のことだ。やはり、老人と顔見知りだったんだ。


「その老人の住所は?」


「それも言えません。守秘義務がありますので」


 看護婦からはこれ以上の情報収集は望めないと判断した俺は、巡査の西山から情報を得ることにした。


 ガサガサと、歩道の端に集まった乾いた落ち葉を踏みながら駐在所に行くと、西山が退屈そうに頬杖をついて、窓から見える紅葉を眺めていた。


「あ、先生」


 目が合った途端、腰を上げた。恰好かっこうの暇潰しになると思ったのか、俺の訪問を歓迎した。


「散歩ですか?」


 急いで戸口にやって来た。


「ええ。ついでに原稿用紙も買おうと思って」


「穏やかな天気で、気持ちいいですからね」


「確かに。ところで、先日の記憶喪失の老人ですが」


「ああ。名前と住所が分かって、東京に帰られました」


「えっ? 見舞いに行こうと思ってたのに」


「え? どうして」


「新聞を読んでるうちに、もしかして、私に会いに来る途中の事故だったのではないかと思って」


 俺は話を作った。


「へぇー。どんな関係ですか? どうぞ、座ってください」


 興味津々と西山が食らい付いてきた。


「あれは、今年の二月下旬。親戚に不幸があって、東京まで行った時のこと。その寒空にホームレス風の男が道に倒れてて。皆は知らん顔で通り過ぎていたが、私は放っておけず声を掛けた」



『どうしました?』


『この数日、何も食べてません。もはや歩くことも……』


 私は財布にあった千円札を二枚出すと、


『少ないですけど』


 そう言って、男の手に握らせた。


『ありがとうございます。このお礼は必ず。せめて、お名前を』


『クレナイコウです』


「ペンネームを教えた。仮に、“紅虹”が作家の名前だと知っていたなら、著書の解説なり、あとがきを読めば、本名の〈小杉謙太郎〉を知ることは可能だ。……もしかして、その男ではないかと思って」


「……なるほど」


 作り話とも知らず、ホームレスに対する俺の親切な行為に感動すると、西山は駐在日誌を捲った。



 西山から、老人の名前と住所を聞き出した俺は、次の休日、大輝と東京に行った。大輝を、目につく喫茶店に置くと、老人の住まいに赴いた。



 その安アパートの一階の奥のドアに、〈萩野〉の表札があった。ノックをすると、訪問者の名前も訊かないでドアが開いた。そこには白髪交じりの痩せた男が、馬のような目を向けていた。

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