「お父さん、ニジコさんの作った料理はおいしいですね」


 豚肉と茄子の味噌炒めを大輝が褒めた。


「ぷっ」


「ふふふ……」


 女の名前を虹子だと信じきっている大輝を、俺は女と目を合わせて笑った。


「うむ……旨い。このだし巻き玉子も旨いな」


 俺は味付けを褒めた。


「ありがとうございます」


「お父さん、今日はばんしゃくはしないんですか? こんなおいしいツマミがあるのに」


「あれぇ、してもいいの?」


「ニジコさんはもう家族の一員ですから大丈夫です」


「……意味、分かんないんだけど」


「だけど、トックリ一本だけですからね」


 大輝は箸を置くと、急いで腰を上げた。


「あっ、そうだ、熱くしてくれよ」


「はーい」


「今日は鍋じゃないから、徳利を燗できないから」


「ふふふ……昨日は笑っちゃいました。鍋で燗するなんて。作家さんだけあって、することがユニークですね」


 茄子を口に運びながら、虹子が見た。


「ですか? 自分では分からないけど」


 豚肉を食べながら答えた。


「今書いてる作品は、どんなものですか?」

 

「ああ、土方歳三ひじかたとしぞうの婚約者の話です」


「えっ、土方歳三は確か、生涯独身では?」


「そうなんですけど、実は土方には江戸に琴という婚約者がいたんです。しかし、土方が京都に行くことになって、結局、結婚話は幻に終ったんですが……。タイトルは、『琴という女』です」


「わあー、琴さんという婚約者がいたんですね。どんな女性だろ。早く読みたいです」


「ありがとうございます」


「はい、熱めにしました」


 大輝は徳利を布巾ふきんつかむと、盆から下ろした。


 それを持った途端、俺は、


「熱ッチ」


 咄嗟とっさに手を離し、指先を耳朶みみたぶにやった。


「熱すぎましたか?」


 大輝が心配そうに訊いた。


「うむ……猫指ねこゆびだから」


「ぷっ。猫舌じゃなくて猫指?」


 虹子が訊いた。


 俺は照れ笑いしながらうなずいた。


「お父さん、ニジコさんの料理はおいしいですね」


 豚肉を載せたご飯を頬張った。


「ありがとう。あら、付いてる」


 虹子が大輝の口許に付いた飯粒を取った。


「…………」


 途端、大輝が顔を赤くして俯いた。幼い頃に母親を亡くしてるから、そんなことしてもらったことないもんな。……無理もないさ。大輝の、その反応を理解できた。……不憫ふびんな奴だ。 



 それは休日だった。俺が買った薄紅色のセーターを着た虹子とお茶を飲んでいると、部屋で宿題をしていた大輝が、虹子を散歩に誘った。だが、程なくして、戸がガラガラと音を立てた。あまりにも早い帰りを不審に思い、廊下に振り向いていると、虹子が足早に客間に向かっていた。


「どうした?」


 書斎に入ってきた大輝に訊いた。


「……ニジコさん、きおくがもどったのかな」


「えっ?」


 大輝のその言葉に、俺の手が止まった。


「……なんで」


「土手のとこに行ったら、ニジコさんが歩かなくなって。どうしたの? ってきいたら、おどろいた顔をしたまま何も言わないんだ。なんか不吉な予感がしたから、ニジコさんの手を引いて帰ってきた」


「…………」


「……きおくがもどってほしくないな」


「どうして」


「だって、きおくがもどったら帰っちゃうでしょ?」


「……ああ」


「土手のとこに行かなきゃよかった……」


 落ち込んだ大輝の様子を背中に感じていた。



 虹子は客間にこもっていた。虹子の判断に任せようと思い、声を掛けなかった。ところが、昼近くになると、何事も無かったかのように虹子が台所にやって来た。テーブルでお茶を飲んでいた俺は、真向かいで宿題をしていた大輝と共に虹子の挙動を目で追っていた。


「お昼は何にしようか……」


 冷蔵庫を覗きながら、虹子が独り言のように言った。


「ナポリタンと素うどん、どっちがいい? 素うどんがいい人」


 虹子が俺たちを見ながら訊いた。俺が挙手した。


「ナポリタンがいい人」


「はいはいっ!」


 大輝が手を挙げると、虹子も挙げた。


「二対一でナポリタンに決まりました」


 虹子はそう言って前掛けをすると、手を洗った。目の前には大輝の笑顔があった。



 その数日後だった。虹子は居間の掃除をしていた。


「こんにちはっ!」


 声と同時に戸が開いた。


「はーいっ」


 書斎から玄関を覗くと、駐在所の西山巡査だった。


「先生、どうも、こんにちは」


「あ、こんにちは」


 俺が挨拶すると、居間から虹子が玄関を覗いた。西山を見た途端、慌てて奥に引っ込んだ。


「どなたですか?」


 虹子のことを尋ねた。


「あ……姪っ子です」


 虹子の挙動で、何かしら不安を感じた俺は、咄嗟に出任せを言った。


「ほーう、姪っ子さんがいらしてたんですかぁ……忙しいとこすまんです。実は先月になりますが、この先の渓流のとこに老人が倒れてまして。今、〈白井医院〉に入院してるんですが、どうも記憶をなくしてるみたいでな」


「! ……えぇ」


「名前も住所も思い出せん状態で。何か犯罪に巻き込まれたんではないかと、事件と事故の両面から捜査してるんですが、何か変わったことや気付いたことは無いかと思って訪ねた次第です」


「さあ……特に変わったことは無いですね。姪っ子が遊びに来たのは今週ですし」


 その老人と虹子の繋がりを避けるために、故意に虹子の来た日を偽った。


「いつものように、執筆に追われている毎日です」


「そうですか。じゃ、何か気付いたことや思い出したことがありましたら電話を頼みます」


 西山が背を向けた。


「分かりました。ご苦労さまです」


 ……その老人と虹子は何か関係があるのだろうか。

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