第2話 「はなむら」の看板娘へ

 「小料理屋 はなむら」はこぢんまりとしたお店だ。父の佳正よしまさ茉莉奈まりなが中学2年の時に交通事故であっけなくってしまった。その時に入った保険金や賠償金などを用いて香澄かすみが開店したのだ。


 L字型のカウンタ席が8席と、奥の小上がりには4人掛けの座卓、厨房から見てその左横に4人掛けのテーブルというしつらえだ。ふたりもいれば充分におもてなしできる規模だった。


 香澄は当時専業主婦だった。調理師専門学校を卒業し、結婚前は料理人だった香澄は、家事の中でも料理を一番得意としていて、茉莉奈も佳正も日々美味しい食事を振る舞われていた。茉莉奈は幼少から好き嫌いが少なかったのだが、きっと香澄の手料理のおかげだ。


 佳正の逝去せいきょ当時、茉莉奈は多感な時期で、それはもうすさんだ。


 それでも世帯主で働きがしらだった佳正が亡くなったことで、香澄は働かなければならなくなった。遺族年金は出るが、それだけでは充分な生活は難しい。


 そこで香澄は暮らしていた戸建こだてを改装して、1階の一部を小料理屋の店舗に設えたのだ。主に2階を住居部分にし、佳正との思い出が詰まった空間などは、できるだけいじらない様にした。それでも1階にあったリビングなどは、ほとんど潰されてしまったのだが。


 香澄は昔取った杵柄きねづかでは無いが、料理で生計を立てようとしたのだ。


 場所は幸いにも駅から続く住宅街の入り口あたり。かすかに駅前の騒がしさがただよいつつも、住宅街の落ち着きも兼ね備えた立地だった。


 当時、香澄がそのために動いていることを知らなかった茉莉奈は、毎日外出する香澄が不思議に映った。パパが死んじゃって悲しく無いんかな。茉莉奈は目を真っ赤にしながらそんなことを思った。


 だが今なら解る。悲しく無かったはずが無い。心を痛めなかったはずが無い。香澄はただ茉莉奈のために、茉莉奈とのこれからのために、気丈きじょうに振る舞っていただけなのだ。


 香澄は泣く間も休む間も惜しんで「はなむら」の開店準備をした。飲食店経営のためのセミナーにも通った。開店してからはグルメサイトなども最大限活用して宣伝にも励んだ。開店数日前にはフライヤーを作って、近隣にポスティングもしていた。


 その頃にはどうにか前向きになることができていた茉莉奈も、できることは手伝った。


 最初から好調では無かっただろう。それでも少しずつご常連を増やし、「はなむら」を続けて来たのだ。


 香澄が仕事をしながらもずっと家にいるという状況は、茉莉奈に寂しさを感じさせなかった。


 店舗部分は防音をほどこしていて、店と繋がる開き戸を締めれば喧騒けんそうはほとんど届かない。だが下に香澄がいる、そう思えば安心するのだった。


 晩ごはんは、早い時間に「はなむら」のカウンタの端っこで食べていた。まだお客さまも少ない時間帯だ。


 ご常連は茉莉奈が香澄の娘だと知ると、きさくに声を掛けてくれた。ご注文されたお料理を「美味しいから食べぇ」と分けてくれたりもした。茉莉奈も人見知りをしなかったので、ありがたくそれらを受け入れた。


 香澄の邪魔になってしまうから長居はしなかったが、こうして茉莉奈は育って来たのだ。


 茉莉奈と接してくれた人は、皆優しかった。だから茉莉奈にとって「はなむら」は暖かくて素敵なお店だという刷り込みがされ、それは事実でもあった。なぜなら仕事を終えて上に上がってくる香澄は、疲れをにじませながらもいつでも充実感にあふれていたからだ。


 だから、茉莉奈が学校を出たら「はなむら」に入りたいと思うのは自然なことだった。香澄が作り、いつくしんで来たこの場所を守りたい、そう思った。


 それに茉莉奈自身が香澄の料理が大好きだったのだ。香澄の料理は茉莉奈をはぐくんだだけでは無く、佳正の死没しぼつで痛んだ心を救ったものでもあった。香澄の料理が茉莉奈の至上だった。


 そんな香澄の料理を皆さんに食べていただく「はなむら」。茉莉奈にとっても大切なものだった。


 本当なら高校を出てすぐにでも入りたかったのだが、香澄は茉莉奈の大学進学を望んだ。


 だから茉莉奈は香澄と「はなむら」のために、調理と栄養学が学べる大学に進学した。その大学には飲食店経営をシミュレーションするゼミがあったので、そこも受講した。調理師免許や栄養士資格、食品衛生責任者の資格も取得した。


 夜は「はなむら」を手伝おうと思ったのだが、雪子ゆきこさんがいたので、茉莉奈が手を出すとむしろ邪魔だった。開店時から続く習慣でカウンタで夕飯をり、お客さまと世間話などもしながら、ゆったりとした時間を過ごす。


 もちろん長く居座ることはしなかったが、大きくなってからも、そしてお酒が飲める大人になってからも、その時間は茉莉奈を「はなむら」の一部にしてくれた。


 だから茉莉奈は「はなむら」にすんなりと入ることができたのだ。


 雪子さんの「はなむら」最後の日が茉莉奈の最初の日になった。ご常連が大勢駆け付け、雪子さん主役の宴会になったのだ。


 雪子さんを労い、香澄の料理に舌鼓したづつみを打ち、お酒を飲み交わす。大いに喋って笑って、心底楽しんでおられるとその表情で解る。


 これからこの「小料理屋 はなむら」の、本当の一員になれると、茉莉奈は誇らしい気持ちで胸がいっぱいになった。


 茉莉奈で雪子さんの代わりが務まるのか、香澄の支えになれるのか、不安が無いわけでは無い。


 最初の日もお客さまの飲物を作り、料理をお運びするだけでてんてこまいになったのだ。調理補助に入る余裕なんてまるで無かった。


 その日はいつもよりお客さまが多かったというのもあったが、こんな体たらくでは香澄の役に立つなんてまだ先の話だと落ち込んだりもした。


 それでも茉莉奈は精一杯、毎日できることに真摯しんしに取り組み、成長を続けて来た。




 そうして約1年、今では多少は慣れてきたつもりだ。隙を見て調理の補助にも入れる様になった。


 茉莉奈が目指すのは、茉莉奈にとって大事な大事な香澄の味だ。香澄は基本目分量で調理をする。なので茉莉奈は文字通り見て味を盗むしか無かった。使う調味料は教えてくれるので、それをどれぐらい入れるのか、頭にある大さじ小さじに置き換えながらメモを取った。


 香澄はそれをよしとしながら、こんなことも言った。


「茉莉奈の味も、ぜひ「はなむら」に取り入れたいわよねぇ」


 それに茉莉奈は目をいた。香澄の味が「はなむら」の味だ。茉莉奈の入る余地は無い。おこがましい。それを言うと香澄は「何言ってんの」ところころ笑った。


「それじゃあ、何のために大学で調理を学んだん? 免許も資格も取ったのに。私の味を真似るだけやったら発展は無いんよ。もちろんこれまで通りの味を好んでくださるお客さまもたくさんおられるやろうから、それは続けて行くで。でも「はなむら」にせっかく新しい料理人が入ったんやもん。新しいことに挑戦せぇへん手は無いわ」


 通常メニューの他に、その日のおすすめとして日々おしながきを作って来た。香澄はその中に、茉莉奈の味も取り入れたいと言うのだ。


「茉莉奈特製、なんて付けたら、常連さんはきっと喜んでくれはるわ。特に茉莉奈が子どものころから見守ってくださった常連さんはね。ね、茉莉奈、絶対に受け入れてもらえるから、何か考えてみて」


 そう言われて茉莉奈は困惑こんわくした。本当に自分の味なんてものを出しても良いのだろうか。お客さまを不愉快にさせてしまわないだろうか。


 だが香澄が「大丈夫!」と強く言うものだから、茉莉奈は頭を悩ませながらも料理を考えた。


 「はなむら」で出しても浮かない、だがこれまであまり作らなかった様な料理だ。難しかったが、茉莉奈はどうにかそれをひねり出した。


 そうして茉莉奈が作ったのは、豚ひき肉と茄子とピーマンの味噌炒めだった。


 そう凝ったものでも珍しいものでも無い。「はなむら」では鯖の味噌煮などもあるし、味噌味の料理だってありふれたものだ。


 それでもご常連をがっかりさせてしまわない様に、茉莉奈は丁寧ていねいに下ごしらえをした。調味料になる合わせ味噌は麦味噌をベースに日本酒、お醤油、すりおろした生姜と蜂蜜、白すりごまを入れた。


 折しも季節は夏だった。なので夏野菜である茄子とピーマンを使ったのだ。


 その日のおしながきをご覧になられたご常連は、茉莉奈特製の文字を見て「おっ」と表情を輝かせた。その中には高牧たかまきさんと雪子さんもおられる。


「こりゃあ絶対に食べなな! 茉莉奈ちゃん、特製味噌炒め、ひとつちょうだい!」


 高牧さんが言い、雪子さんも「私も」と手を上げる。さらに「僕も」「俺も」と後に続いた。


 茉莉奈はじんわりと嬉しくなって、目頭を熱くしながら炒め鍋を振るった。香澄を見ると「ほら、言ったやろ?」と言う様に笑顔を浮かべていた。


 そしてできあがった味噌炒めをお出しすると、地味な見た目のそれを前に、皆さん「美味しそうや」と表情をほころばす。


 多めの油を使った。軽く食べていただける様に米油と、旨味も加味されるごま油とのブレンドだ。油を吸った茄子はとろとろになり、黒い皮は艶やかになる。そこにピーマンの鮮やかな緑が加わり、油が透明になるまで焼き付けた豚ひき肉の香ばしさと、甘みを含んだお味噌が絡む。


 お味噌の茶色をまとっているものの、その全ては覆い隠せず、きらりと色彩を放つ。それと芳醇ほうじゅんなお味噌の香りが食欲をそそるのだ。


 注文をしてくださったご常連が我れ先にという様に口に運ぶと、「ん!」と目を見張った。


「美味しい。茉莉奈ちゃん、美味しいわ!」


 雪子さんが言うと、高牧さんも「うんうん」と頷いた。


「確かに、女将の味とは違う、茉莉奈ちゃんの味じゃの。これ、白ごまとか入ってるかの?」


「は、はい。白のすりごまを入れてます」


 茉莉奈が緊張しつつ慌てて応えると、高牧さんは「やっぱりのう」と頷く。


「味噌の旨味の中に、豚とごまの香ばしさがあるんじゃの。それがええのう。うん、旨い」


 皆さまそう言いながら、味噌炒めを次々と口に運ぶ。茉莉奈はその光景を見て、ひとみをじんわりとうるませた。


 茉莉奈が「はなむら」に入った時、ご常連は皆茉莉奈を歓迎してくれた。失敗をしても暖かく見守ってくださった。


 だが今、たった今、真の意味で「はなむら」の一員になれた様な気がした。


 自分の料理でも皆さまを笑顔にすることができる。いこっていただける。それが茉莉奈の心に暖かさと充足感を生み出した。


「皆さーん、茉莉奈特製のおこんだて、これからもお出ししますから、ぜひ召し上がってくださいね」


 香澄が厨房から声を掛けると、皆さまは「もちろん!」「楽しみ!」と沸いた。それがまた茉莉奈の心を救い上げた。


 こんなに幸せで良いのだろうか。茉莉奈はじわじわと溢れて来る喜びを隠すことができず、ついつい頬がゆるんでしまった。


「あの、皆さま、本当にありがとうございます。精進しますので、どうぞよろしくお願いします!」


 茉莉奈ががばっと頭を下げると、お客さまから拍手が起こった。茉莉奈は歓喜のあまり、しばらく顔を上げることができなかった。




 それからさらに1年。茉莉奈はすっかりと「小料理屋 はなむら」の看板娘になり、厨房ちゅうぼうにフロアにと、忙しなく笑顔で飛び回るのだった。

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