第15話 『朱』を嫌う。

朱羽子は、橙史を殺した時の記憶に追いかけられていた。

血で真っ赤になった掌。

刺した後の血の海。

刺していくと色々な内臓をえぐって行く包丁の感覚。


朱羽子はその日以来、赤いものを見ると、無性に怖くなった。

息が上がり、震えが止まらない。

そして、接客の合間、朱羽子は、今まで以上に、手を洗っては、濯ぎ、そしてまた洗う…それを繰り返していた。

過去の過ちを消したくて…。

そのうち、水道水さえ血が出ているように見えて、恐ろしくて、店では何とか平静を装いながら、うちへ帰ると、泣きながら手を洗い続けた。



朱羽子は、『加害恐怖』に陥っていたのだ。


その症状は、手を洗う事にとどまらなかった。

を連想される自分の名前、朱羽子の『朱』の字さえ、口にすら出せなくなった。


母の温もりを知らず、父を殺し、その父が朱羽子の事で苦悩していた事を知ってしまった…そして、今…もう何をどうしたらいいのか、解らなくなっていた。

何とか夜を超えられたのは、鷹也の撮った『再会』を胸に抱いていたからだった。


只、鷹也の撮った写真が、朱羽子の心の中に何かを落とした。




朱羽子も、鷹也も、気付かないところで、運命は、せわしなく回りだしていた。





次の日、午後2時、いつもの明るい声が店内に響いた。

今日は一段と大きな声が。


「いらっしゃいませ。どうぞ」

鷹也がカウンターのいつもの席に着くと、同時に朱羽子が水を運んできた。

「あ!ありがとうございます!!」

「…今日も写真、撮って来たの?」

「え?」

「今日も空の写真?」

「あ!はい!見てもらえますか!?」

子供みたいに鷹也は無邪気に笑った。

「おぉ?鷹也君のファン1号かな?」

「え…?ち、違いますよ!ね…ねぇ?朱…朱羽子さん」


恐る恐る鷹也は初めて朱羽子下の名前で呼んだ。

すると…、


「やめて!!」


店内に客がいなかったのが何よりだった。

朱羽子思いっきり叫んだのだ。

「あ…すみません…!馴れ馴れしかったですよね?」

しょぼんとした鷹也に、

「そうじゃない…そうじゃない。そうじゃないの!こんな…こんな汚い名前、あなたみたいな心の奇麗な人が呼ばないで!」


「汚い?なんでですか?良い名前なのに…」

「良いから…。下の名前では…呼ばないで…」

「あ…はい」


マスターに呼ばれるのと、鷹也に呼ばれるのとでは、大きな差があった。

朱羽子は自分でも気づかないうちに、鷹也に惹かれていたのだ。

あの『再会』を見てから、朱羽子の中で、鷹也は〔うるさい人〕から、〔心の奇麗な人〕に印象がまるっきり変わっていた。



それを、自覚していた朱羽子は、只、怖くて仕方なかった。

こんな殺人と言う恐ろしい罪を犯した自分が、好意を抱いていい人ではない。

そう思った。

殺人を犯した自分が、誰かを、何よりこんなにも奇麗な空を忠実に映し出す、鷹也のような人を、好きになっていいはずがない。



…と、犯罪者として数十年生きて来た自分の、【初恋】を押し殺した。




その日の夕方、ふと喫茶店の窓から空を見ると、空が鮮やかな…朱羽子にすれば罪の色、夕焼けで空が真っ赤に燃えていた。

その光景が目に飛び込んでくるなり、朱羽子は水の入ったグラスを、

ガシャンッッッ!!!

と4つ割ってしまった。


「すみません!すみません!すみません!」

「大丈夫かい?朱羽子ちゃん」

「すぐ…すぐ拾います!」

朱羽子は必死で謝った。

まるで、橙史を殺したのを懺悔するみたいに。


そう言って、割れたグラスを集めていると、人差し指がチクッとした。

人差し指を見てみると、血が円形状に広がりつつあった。


「あ…あ…はぁはぁはぁ…」

「朱羽子ちゃん?」

朱羽子はその場にしゃがみこんだと思うと、過呼吸発作を起こした。

「岩滑さん!?」

朱羽子の傍に鷹也も駆けつけ、マスターが機転を利かせ、さっと紙袋を取り出し、応急処置をしたため、大事には至らなかった。


キィ…。

朱羽子の休んでいたプライベートルームのドアが開く音がした。

「お、朱羽子ちゃん、もう大丈夫かい?」

暖かいマスターの声に、少しホッとした朱羽子。

「あ…はい。すみません。ご迷惑おかけして…」

「良いんだよ。治って良かった」

何処までも優しいマスターがどんなカメラマンだったのか…、一体どんな写真を撮っていたのか、朱羽子の心に鷹也が浮かんだ。


あの人が、マスターのセンスと技術で本当に杉丈太郎を受け継ぎ、あの『再会』以上の空を見せてくれるなら、朱羽子はそれをどうしても、見たくなった…。



朱羽子の初めての、そして、持ってはいけない…と知りながら、抱いてしまった。『希望』『夢』『愛』を、心のどこかで欲しがる…身勝手だけれど、何処からか湧いてくる朱羽子の、そんな顔を、マスターは何となくだけれど、年の功。

解ったのだろう。


「さっきまで鷹也君もいたんだよ。スタジオから急な呼び出しがあったみたいで、さっき帰ったけど」

「そう…ですか…」

「僕がこんな事を言ったらお節介なるが、鷹也君ともう少しおしゃべりしてはどうだろう?朱羽子ちゃんの力になってくれると、僕は思うんだけどね」


「あの人…すごく奇麗な心を持っているんでしょうね。眩しくて、何だかそれが余計に…私は…一緒にいるのがちょっと辛いです…」


そう言って、朱羽子はマスターにバレないように、ちょっと、涙を堪えた。

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