茨姫に幸福な呪いを5



 それから一ヶ月の間、ウィルフレッドは二度寝込むことになったが、シャノンやセルマの介抱とグレースの助力でなんとか乗り切ることができた。

 そしてウィルフレッドの待ち望んだ『準備』が全て整う日がやって来た。


 今、屋敷の中にいるのはシャノンとウィルフレッド、そしてシャノンに抱かれている可愛らしい子豚だけだ。


「頭をなでるな、情がうつる!」


 シャノンの腕の中には一匹の子豚がいる。

 ウィルフレッドがグレースに依頼していた解呪に必要なものとは、この子豚のことだった。子豚はシャノンの腕の中でくんくんと鼻を鳴らして乳を求めている。


「前に貴女が言っていただろう? 人間以外のものに移せればよかったのに、と。それで思い出した」


 この豚はただの豚ではない。魔術の研究、実験をするために使われる特別な豚なのだ。豚は母親の胎内で育つ過程から、人の代りになるように魔術を幾重にも施して生まれてくる。だから三ヶ月の期間が必要だった。


「呪いを改変して動物に移すことはできないが、呪いのほうに豚を人間と誤認させるということだな。理論上、この豚は魔術的には人間と一緒だ」

「なぜ、豚なんでしょうか?」

「豚は人と皮膚組織が近くて魔術的にも人に見立てやすい。他にも飼育が簡単で一度に子供をたくさん産むなどの条件もあるが」

「そうなんですか。子豚さんには可哀そうなことをしてしまいますね……」


 胸に顔を埋めるように甘えている子豚の頭をシャノンはそっと撫でる。

 呪いを移された豚は三ヶ月後に死んでしまうのだ。ウィルフレッドの屋敷では豚が食卓に上ることもあるというのに、食べるためではない殺生というのは、なぜか人に罪の意識を与える。


「だから、頭を撫でるなと言っている。情が移るだろう!」

「そ、そうですね……」


 子豚が気持ちよさそうになでられている姿を見たウィルフレッドが、シャノンのその行為をもう一度注意する。懐かれでもしたら、別れがつらくなる。実験動物に情けをかけると研究者は務まらないのだ。


「レイ先生? なんだか真っ青です! 早く解呪をしないのですか?」

「う、うむ……。心の、心の準備が……」


 シャノンから子豚を受け取ったウィルフレッドは、子豚と見つめ合ったまま全く動く気配がない。


「そういえば、どうやって呪いを移すんですか?」

「この豚は魔術的には人間だ。当然だが方法は人と変わらない」


 ウィルフレッドはさらに顔色を悪くして、子豚の口元を見つめる。よく見ると子豚の口の周囲は短い毛がびっしりと生えていて、そこによだれがついてテカテカと光っている。シャノンからすれば、食いしん坊のように見えて可愛いのだが、ウィルフレッドはそう思えないようで、完全に目が死んでいる。


「…………つまり、子豚さんとくちづけを?」


 彼はかなりの潔癖だ。彼が動物を可愛がったり、動物に顔を舐められ喜ぶ姿は想像できないし、ましてや自ら動物にくちづけをしなくてはならないとは。


「わかりました! レイ先生は目をつむっていてください」


 シャノンが子豚を奪い返し、自分では子豚にくちづけができないウィルフレッドの手助けをする。素直に目を閉じるウィルフレッドの唇めがけて、シャノンは子豚を押しつける。


「ごめんね、子豚さん」


 ウィルフレッドの唇をぺろぺろなめる子豚をシャノンが引き剥がすと、前足のひずめの少し上に呪いの痣が現れた。

 潔癖性のウィルフレッドは、精神的に負担が大きすぎたのか、真っ青な顔色のまま沈黙している。


「レイ先生? 大丈夫ですか?」


 彼は無言のまま、くるりとシャノンに背を向けると、ものすごい速さで浴室のほうへ消えていく。毎日一緒にいるのに、シャノンが彼の走っている姿を見るのはこれが初めてだ。



『うっ……、オ、オェェェェ――――ッ!』



 浴室の中からウィルフレッドの叫び、バシャバシャと湯をかける音と勢いよくうがいをする音が聞こえてくる。まだ乳しか飲んでいない子豚に対し、おおげさな彼の行動に少しあきれながら、シャノンは子豚を柵の中に入れ、口直しの飲み物を用意するために厨房へ向かった。


***


 夜になり、二人はソファに並んで座る。ロウソクの明かりよりも、暖炉の炎が強く優しく互いの姿を鮮明に照らす。

 しばらく何も語らず、くべられた薪がパチパチと音を鳴らす様子を二人で見つめていた。


「…………今から、貴女をもう一度呪う。覚悟はいいか?」


 ウィルフレッドはそう言うが、それは彼女にとっては呪いではない。

 彼は宿していた『砂時計の呪い』から解放された代わりに、元の魔力感知能力を取り戻していた。

 今までウィルフレッドが彼の部屋に張っていた結界は簡易的なもので、呪いが解けた今、そのままの状態で長期間生活することはできない。

 使用人としてならセルマのように近所に住めばいい。ウィルフレッドも結界の小型化を研究しているのだから、それが完成すればシャノンが屋敷に住むことは可能になる。けれども二人がなろうとしている関係は使用人とあるじのそれではない。

 だからウィルフレッドは彼女と共に暮らせる存在にするための魔術を作り出し、彼女を呪うのだ。


「この呪いで貴女はわたしの妻になる。謝罪はしない。……ただ私を受け入れてほしい」

「はい。私は、その……レイ先生と一緒にいたいです。そのために必要なものなら怖くありません」

「貴女もその名になるのだから、いい加減名前で呼んだらどうだ?」

「気をつけます、これからは。……ウィルフレッド様」


 ウィルフレッドは少し笑ったあと、真剣な表情でシャノンの服に手をかけて首元のリボンをほどき、ブラウスのボタンを三つ外す。あらわになった下着を少しだけずらし、胸の間――――心臓のある部分に指が触れる。

 ただ魔術をかけるための行為だとわかっていても、普段、自分でも触らない場所を触られたシャノンの鼓動は隠しようもなくドクドクと音を立て始める。


「怖いか?」

「ち、違います! 恥ずかしいのと、緊張ですっ!」


 ウィルフレッドに胸の高鳴りが伝わってしまったことがたまらなく恥ずかしい。それでもシャノンは彼を安心させたくて微笑んだ。

 シャノンに触れたウィルフレッドの指先から真っ白な光が溢れ出し、彼女の胸の上で線を描き始める。シャノンが少し熱を感じた瞬間、光は強い輝きを放ちながら彼女の中へ消える。


「大丈夫か?」

「はい」


 ウィルフレッドはシャノンの手を包み込むように握る。


「明日、書類を出しにいこう」


 書類というのはもちろん婚姻届けのことだ。精密で美しい文字を書くウィルフレッドとは違い、お世辞にも上手とは言えないが、シャノンもすでに署名をしていた。


「あの、本当に大丈夫なのですか?」


 彼女が心配しているのは二人の身分差のことだ。ウィルフレッドは王家の血を引くこの国で一番の魔術師。一方のシャノンは身寄りのない庶民で、戸籍上の繋がりはないが、父親は罪人だ。


「問題ない。私の身分はただの教師だからな。父親のことを気にしているのなら、それはこちらも同じ。それに、一定の地位にある者の婚姻には国王陛下の承認が必要だが、私はそこに含まれていない」


 ウィルフレッドは嘘を言っていない。ウィルフレッドは王家の血筋だが、父親は反逆罪で処刑されている。そして婚姻制度としては彼の言うとおりなのだ。

 だが、この国の中枢に関わる者たちは彼が勝手に結婚をするなどとは想像もしていないだろうし、知られたら邪魔をされる可能性がある。その前に彼女を正式な妻に迎えてしまうつもりだった。


「承諾を得なければならないのは、貴女の祖父母だけだ。いいな?」


 シャノンの祖父母であるパン屋の老夫婦には明日会いに行くことは伝えてある。けれども彼女が孫であること、母がすでに他界していること、手紙のこと、ウィルフレッドのこと――――それらを一気に話して混乱してしまわないか、彼女はそれが心配だった。

 そして、シャノンはまだ手紙を読んでいない。そもそも彼女宛てではない母の手紙を読んでいいものか、わからないのだ。先に祖父母に渡すべきかとも考えたが、あの手紙は母があえて出さなかったものだ。出すつもりのない手紙ははたして祖父母宛てといえるのか、そこも疑問だった。


「もしかしたら貴女の母上の本意とは違うかもしれない。だが、生きている人間が故人を想い、その気持ちを理解したいと考えてとった行動なら、きっと怒りはしないだろう」


 ウィルフレッドはシャノンの不安にそう答える。結局、明日祖父母のところへ行ってから一緒に読もうと彼女は決めた。

 もし、シャノンが知って傷つくことが書かれているとしたら、すでに内容を知っているウィルフレッドが止めるはずだ。だから、そこだけは安心できる。


「シャノン」


 時々名前で呼ばれるが、彼の唇からその名前が紡がれると、それだけでシャノンの心臓はぎゅっと締め付けられるような感覚になる。


「唇に触れてもかまわないか?」


 明日には夫婦になるというのに、ウィルフレッドはわざわざそんなことを確認する。

 一度目はウィルフレッドが無理やり奪い、二度目は逆だった。額や頬に軽くくちづけることは何度もあったが、互いの了承を得てから唇を重ねるのはこれが初めてだ。

 くちづけをすることは初めてではないのに、シャノンは耳まで真っ赤になり、こくんと小さくのが精一杯だ。

 彼のアイスブルーの瞳が近づいてきて、シャノンはゆっくりと目を閉じた。


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