さよなら、またね

 あの日以来、少年とは顔を合わせることがなくなった。今日も一本遅いバスの座席に、遠夜は独り腰掛けている。手もとには買ったばかりの小説を広げているが、ページを繰る動作はいまいち鈍い。書籍をじっくり読める環境にあるのに、なかなか気が進まないのだ。

 読書に飽きた遠夜は、小説を太股に放り投げて窓外に目を遣った。雪を山積みにしたトラック数台と擦れ違い、その後を、未明に仕事を終えた除雪車が追う。積雪は日に日に多くなり、地上を真っ白な世界に深く閉じ込めた。雪が降り積もるのは、天使がその美しい羽を生え変わらせているからではないか。さっきまで読んでいた小説になぞらえて、遠夜は羽根に埋もれゆく街を非現実的な眼差しで見つめた。

 バスは交差点を曲がり、早くも学校へ着こうとしている。誰かが押した降車ボタンの音が車内に響き、ぼんやりしていた遠夜を慌てさせた。うっかり手が滑って、定期入れが床に落ちた。遠夜が拾おうとすると、腕が伸びてきて代わりにそれを拾い上げる。

 遠夜は一瞬はっとなって、目の前の人物を仰いだ。だが期待していた相手ではなく、他校の男子学生が好意で拾ってくれたのだった。お礼をしたものの、遠夜は内心肩を落とした。

 程なくして冬期休暇に入り、バスを利用する機会自体がなくなった。定期入れは鞄に仕舞われたまま、遠夜の目に触れることなく休暇を過ごした。月が替わり、あの少年が常に頭の片隅にあった遠夜も、休暇が明ける頃にはほとんど思い出さなくなっていた。雪は幾重にも層を作り、遠夜の心にあったわずかな希望をも厚く覆い隠した。



 バス停へ行く道すがら、民家の軒先から伸びた梢に薄紅色の蕾ができていた。もうそんな時期かと、遠夜は蕾に軽く手を添えた。あれほど降り積もった雪は春の兆しとともに姿を消し、今は道端に小さくうずくまっているだけである。

 一本遅いバスへ乗車しなくなって随分経つ。通常通りの時間に停留所へ到着した遠夜は、新年度を迎え、真新しいスーツや制服に身を包んだ人たちの列に並んだ。彼らの頭上では、街路樹である銀杏がささやかに芽吹き始めている。しかしながら、根本にはまだ小さな雪の塊が解けずに残っていた。

 遠夜はふと、その残雪に違和感を覚えた。よく観察すると、何かが埋もれているようだった。雪を掻いて取り出してみると、失くしたはずのアクリルの定期入れだった。もちろん、入れてあった定期券はとうに有効期限が切れている。

「こんな処にあったのか……」

 遠夜は角の割れた定期入れを優しく撫でた。

 その日遠夜は、上空から純白の羽根が舞い落ちてくるのを逸早く見つけた。長い冬の報せは、睫毛を掠め、頬を濡らし、道行く人の肩に車のルーフに、最終的には街全体をあっという間に白一色に染めた。

 初雪に気を奪われていたために、この場所で定期入れを落としたことに遠夜は気が付かなかった。定期入れは誰に拾われることもなく、次第に雪深くなるなかで春が訪れるのをじっと待っていたのだ。顔を上げると、微笑んだ少年が根本に佇んでいた。

「もっと早く、君の居場所が判ってたらな」

「いいのさ別に。少しの間だけど楽しかったよ」

「でも、急にいなくなることはないじゃないか」

「その定期券じゃあ、遠夜の学校の近くまでしか行けないよ」

 少年は遠夜の手を握る。冷たい指先が、いくらか熱を帯びていた。ずっと雪の中にいたせいで、少年はあんなに冷たかったのだろう。遠夜の気持ちを察したように、少年ははにかんでから遠夜を抱き締めた。お別れだっだ。

「もう僕は君の、温かい手の中さ」

 クラクションが鳴る。振り返るとバスはとっくに到着しており、遠夜だけがまだ乗っていない状況だった。少年はいない。だが、これからも遠夜と常に一緒にいるのだ。

 遠夜はアクリルの定期入れを胸に抱いて、ステップを駆け上がった。

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雪の中、ただ君を待つ 夏蜜 @N-nekoko

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