第6話 三白眼の天使

 高校指定の半袖のスクールシャツは真新しい。グレーのスラックスと合わせて新調した。幸人は鞄を右手に提げて玄関に向かう。

 上がりかまちに腰掛けて白いスニーカーを履いた。キッチンから母親が姿を現して小走りで近づく。

「一人で大丈夫?」

「もちろん。今日からは電車通学だし、危ないことはなにもないよ」

「そうよね」

 心配そうに笑う母親に幸人は、いってきます、と朗らかな顔で言った。


 柔らかい朝陽を全身に受けて駅への道をゆっくり歩く。車道を走る自転車にあっさりと追い抜かれた。スーツ姿の男性が片手で運転をしている。右手に握ったスマートフォンを耳に押し当てて誰かと通話しているようだった。

 目にした幸人は軽い溜息を吐いた。

 歩行者信号の手前で制服に身を包んだ坪坂あゆみと出会った。電信柱に背中を預けてスマートフォンを弄っている。黒々としたボブカットは朝陽を浴びて全体が艶やかに光っていた。

 幸人が声を掛ける前に目が合った。あゆみはすぐに視線を逸らし、偶然だな、と口にした。

「一緒に登校するか」

「そうだな」

 二人は並んで歩いた。あゆみはちらちらと横目で見てくる。話し掛ける内容に迷っているようで声にならない。

 二つ目の歩行者信号で止められて、ようやく口を開いた。

「身体の調子はどうだ?」

「一か月の入院で痛みは引いた。今後は月一の定期検診があって、それが少し面倒なんだよな」

「ちゃんと行けよ」

 強い声が返ってきた。斜め下に目をやるとあゆみが三白眼で睨んでいる。よく見ると目の下が黒ずんでいた。白目も充血しているようだった。

「徹夜でネトゲでもしたのか?」

「おまえと一緒にするな」

 さりげなく顔を背けた。

 歩行者信号が青に変わる。一瞬のざわつきを利用して、心配したんだぞ、とあゆみは怒った口調で言った。

 小柄ながらも歩幅は広い。幸人はやや遅れて横に並んだ。

「ごめんな」

「……おまえは本当に元気になった。それだけで十分だ」

「奇跡ってあるんだな」

 幸人はぽつりと口にした。同意するようにあゆみは小さく頷く。

「それは思った。脳死判定から生還した訳だし」

「ドワーフのおかげだ。サキュバスには嵌められそうになったが」

「おまえが徹夜でネトゲをしてたんじゃないのか」

 あゆみは呆れ顔で言った。

 過去を振り返るような間を取って幸人は表情を緩めた。

「俺は入院してから、ずっと心の中でゲームをしていたように思う。口の悪い天使に助けられた。三白眼でスクール水着だったな」

「……あたしで、ヘンな想像はやめろ」

 途切れがちな声でうつむいた。覗く耳は熟れた果実のように赤い。

「そうか? ボブカットで天使の輪を斜めに被っていたよ」

 言いながら幸人はあゆみの頭頂に目を落とす。朝陽が作り出す、光の輪がはっきりと見えた。

「それにあたしは……天使って柄じゃない」

「俺はそうは思わない」

 きっぱりとした口調にあゆみは足を止めた。駅前で人通りは多い。上げた顔はほんのりと赤く、怒りの目は涙で滲んでいた。

「そういうこと、急に言うなよ」

「何度も病院にきてくれたんだろ?」

「なんで、知ってんだよ」

「俺が知らないことを教えて、懸命に励ましてくれたんだよな。強引で実に坪坂らしい」

 幸人の物言いにじっと耐えるように口を閉ざす。目からは大粒の涙が零れ、感情を押し殺した声で言った。

「このボロボロの状態、どうして、くれるんだ」

「これならどうだ?」

 幸人はあゆみを正面から抱き締めた。泣き顔は胸に隠れて見えなくなった。

「……もっと、泣くぞ」

「俺は気にしない。あと、これだけは言わせて欲しい。本当にありがとう。気持ちはちゃんと俺に届いたよ」

 あゆみは顔を押し付けた。激しい感情が震えで伝わり、幸人は背中を優しく撫でた。周囲の好奇な目は薄れ、事情を察した人々は足早に通り過ぎた。

「本当に、俺の天使だよ」

「……思い切り、鼻をかんでやる」

「お、おい、それはやめろ」

 幸人は本気で慌てた。クスクスと笑う声が胸元から聞こえて、なんだよ、とほっとした声を返した。


 三白眼の天使は小柄で口が悪く、悪戯好きでもあった。

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時間制限付きのデスゲーム 黒羽カラス @fullswing

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