Don't mind

夢見遼

Don't mind

アラームが鳴った。不快な朝の始まりは、布団に残った怠惰を起こす。まず動き出すのは指の先。あたたかい誘惑の隙間から這い出た意志が時計に触れた。

 おはよう、と呟いてみる。誰が聞くわけでもないけど、そうすると早く夢から醒める気がする。やっと眠れたところに強制的な目覚めは酷だが、昨夜のボクがかけたものだから仕方ない。今日は朝練だったか、いや部活は最近休んでたっけ。まあいいか。目が覚めたのなら起きないと。ボクは時計のアラームを止めた手でカーテンを開けると、緩慢に布団から起き上がった。昨日閉めたはずの窓が、勝手に開いていることを横目で確認して。

 ふらふらと冬眠明けの熊のように這い出たものの、冷蔵庫を前に立ち往生。いたずらに電力を消費するように、扉を開けては閉めて、一向に中身が取り出せない。漏れ出た冷気と生ものの匂いに顔を顰める。最近どうも食欲が無い。でも食べないと。言ってはみるけど、身体は動いてくれない。そのうち本当に死んじゃうよ、とお節介なクラスメイトの言葉を思い出した。ボクは仕方なく食パンでも切ろうかと包丁を取り出そうとして、動きを止めた。そういえば包丁が失くなっていたのだった。さすがに刃物が紛失するのは不味いかもしれない。制服のネクタイを失くしたときから不審だったけどね。でもまだ大丈夫かな。いや、ちょっと無理かも。

 洗面所の鏡に映ったのは「衰弱」を体現した姿だった。やっぱり無理だった。なかなか酷い顔だと思う。栄養を無くして乱れた髪、土気色の肌、濁った目。食を受け付けなくなったのも、睡眠が不規則になったのも、全部が縺れ合うように影響して立派なゾンビを作り上げている。

「これでは心配させてしまうな」

 試しに口角を上げてみると、汚れた鏡の中のサイコキラーが微笑んだ。はは。ハロー。もう少しうまく笑えたようなはずだったんだけど、忘れちゃったかな? 強張った顔が動く気配はない。ボクは笑顔の仮面を諦めると、体を引き摺るようにして家を出た。



 こんなのでも学校に行こうとするのは偉いと思う。習慣化された動きで定期を改札に通し、通勤通学で賑わう電車に運ばれて、最寄り駅で降りる。時折眠気のせいなのか、快速で走り抜ける電車を前にして足が点字ブロックを越えかけるも、まあまだ踏み越えてはいないから許してやる。いやでも怖いな、死んじゃいそうで。

 足元を吹き抜ける木枯しに、センチメンタルになっているのかな、などと一つ現実逃避をしてみて、改札を抜けた。

「おはよう」

 海沿いの通学路を歩いていると、船木さんに声をかけられた。肩が小さく跳ねる。身体のコンディションは最悪だけれど、朝からツいているじゃないか。

 船木さんはミイラのようなボクと相対して今日も最高のコンディションだ。足を出す度に揺れるやわらかなブラウンの髪と、ずり落ちそうな丸眼鏡を支えるこぶりな鼻。そしてレンズの奥から覗くアーモンド型の瞳。平均身長より小柄な彼女が、ストラップのお守りを付けた大きな鞄を抱える姿は、リスのようにも見える。

「お、おはよう」

 ボクはおっかなびっくり返事をすると、慌てて歩幅を合わせた。日頃の挨拶にもう一言加えることで、会話が広がるというテクニックを思い出したが、いかんせん臆病なボクの口からは気の利いた一言が出てこない。珍しく会えたと言うのに。

 船木さんとは、駅から学校までの道の途中で、運が良いと会える。強い海風と灰色の堤防、釣り人が捨て置いた腐った魚の嫌な匂い、薔薇の高校生活へ向かう道としての自覚が足りない通学路において、一緒に並んで歩ける人がどれだけ大切になってくるか。増してやそれが好きな人なら何も言うことはない。やったじゃないか、ボク。

「今日は数学の時間、自習だったよね。テスト近いし頑張らないと」

 船木さんはこんな朴念仁相手に会話を引きだそうとしてくれる。ここで「じゃあ教えようか」の一言が出てくれば、会話に困ることも無いのに、

「ああ、そうだっけ」

「そうだよ」

 最小限の応酬で会話が終わった。ボクと船木さんは幼馴染のはずなのに、青春の淡い感情を自覚してから、素直に言葉が紡げなくなってしまっている。ボクの近所で一緒に遊んでいたときから比べて、彼女の年相応に大人びてきた表情を直視できないからだろうか。ボクは彼女と不自然な位置関係を保ちながら、無言を貫く。空高い鰯雲にウミネコの鳴き声が遠くで聞こえた。

「修学旅行ぶりだっけ。こうやって話すの」

 船木さんが話しかけてくれる。こちらを窺う目線がキュートだ。しかしボクは相変わらず上手く反応を返せない。開こうとした口が、秋の空気を飲み込んだだけで閉じてしまう。ぱくぱくと口を開閉する姿は、さながら呼吸困難の魚のようだ。

 そんなボクの様子を見かねたのか、船木さんがそっとボクの手を握った。また肩が跳ねる。

「ねえボクくん。聞いてる? あの、大丈夫?」

船木さんはボクのことを「ボクくん」、と呼ぶ。「ボク」は高窪邦由、「たかくぼくによし」の真中から採ったあだ名だ。

 そんなボクは手を握られたというのに、握られた手には目もくれず、船木さんのもう片方の手に視線を落としている。やたら顔が険しくなっているけど、緊張してる? いや、

「あ」

 慌てて船木さんが花束を背中に隠す。動きに釣られて菊の花弁が散った。

「ごめんね。大丈夫なわけないよね。八尾くんのこと……」

「いや、うん、心配させてごめんね」

 ボクは笑顔を作ろうとしたが、残念ながらサイコキラーにしかなっていない。船木さんは不気味に微笑む幼馴染に戸惑いながら手を離した。ああ、手も握ってもらえて良いところだったのに、なんで俺の名前出しちゃうかな。

「本当に大丈夫だよ、実玖。ごめん。それより最近部屋から物がなくなって困ってるんだ。それで体調も良くないんだけど。今朝も新しく眠剤が無くなっていて、あれ無いと眠れないから困るんだよ。ああ、この件が解決したら、もう困ることもないから大丈夫か」

 ボクは船木さんを安心させるためなのか、怒濤の勢いで話しかける。船木さんはいきなり喋り始めたボクとその話の内容に引いてしまっている。後退りをする船木さんと、身振りと共に喋り続けるボクの間を、荒れた風が通り抜ける。

「それって大丈夫なの? ストーカー被害じゃ」

 距離を置きながらも恐る恐る心配する船木さんに向かってボクは、

「まあ大丈夫だと思う。困ってはいるけど」

と言ったきり口を閉ざした。ボクの後ろで俺は頭を抱えていた。



 俺、八尾怜が死んでからボクはいつもこんな感じだ。船木さんに早く告白し、死んだ俺のことなど忘れて青春を謳歌してくれれば良いものを、謳歌するどころか死に急いでいる。なんで? そしてボクには分からないだろうけど、それが原因で俺も成仏できていない。まさか自分が死んだ直後、お気楽幽霊生活を送ってたら、親友が首に縄をかけようとするとは思わないだろ。それで俺は微力なポルターガイスト現象を使いこなせるように日々鍛錬し、親友がこちらに来るのを断固阻止することとなった。まず早々に包丁は隠した。次にガスの元栓を毎夜チェックし、窓は必ず開けている。しかし窓から飛び降りようとしないようにも注意。縄は持って帰る度に隠しているし、首を括れそうなものはひとまず全部隠した。靴紐を解くのは至難の業だった。さいきんは眠剤も過剰摂取し始めたので隠している。そう、先に断っておくけど決して悪質なストーカーでは無いのだ。なんなら被害どころか助けている。もっと感謝してくれてもいいのにさ。

 だがこの状態が続くと俺の微力ながらの取り組みも無に帰し、精神衰弱で死にそうだから怖いが、そこは船木さんに頑張ってもらうしかない。声は届かないわけだし。まあ二人は両思いなんだから、このまま俺が死んだ分の傷心を利用してゴールインして、ついでに俺もハッピー成仏! これが俺が考えている中での最適ルートだ。我ながら良く練られている。ということで、俺のお陀仏のためにも、対象のお二人には早くすべからく幸せになってもらうべく奔走し、二人の恋心が盛り上がるよう祈っていたのだ。それなのに。

 


 俺は放課後の教室で無言のままにらみ合うよ

うにしている二人を見て、無駄にドギマギしていた。

 人のいない教室はやけに広い。整然と並んだ机を挟んで、二人は対峙していた。放課後の教室なんて、告白のための絶景ロケーションだ。よしよし、案外早めにゴールできるかもしれない。まあ、あの、廊下と窓を背にして向かい合う姿は告白の場よりは、決闘に近いとして。

「上手く言えないけどさ、私は、あの」

 船木さんが、俯きながら口を開く。ずれた眼鏡とさらりと垂れた髪が顔を隠し、普段の小動物スタイルとは違った魅力がある。俺はつい姿勢を正した。

「俺が悪い」

 ボクは下を向いて、船木さんの鞄についたお守りを見た。船木さんもつられて視線を落とす。銀色の月が刺繍で描かれたお守り。修学旅行で買ったやつだっけ。3人でお揃いのやつ。

「修学旅行で怜と実玖と一緒に買ったお守りさ、俺の無いんだよ」

 ボクがぽつぽつと話始める。あーあ、試合終了。せっかくお揃いで買ったのに、なんで失くした話なんて今するかな。俺のラブラブ成仏をどうする気だ。

 二人を挟んだ机の上に花瓶が置かれている。俺の席。はは、ここでお話しするなよ。ムードとか、そういうの、最悪じゃん。ねぇ。

「怜が死んだ日の三日前だったかな。夜、二人で飯食った後、一緒に帰ってて。あの海沿いの道。怜は堤防の上を歩いてたんだけど、俺と喧嘩してそれで」

 俺は慌ててボクの口を塞ごうとするのに、透けた手が頭を貫通する。自分が幽霊であることに一番後悔した、今。

 でもさあ、その件に関しては俺が悪いんだよな。お前が船木さんのこと好きなの、俺知ってたからさ。けどいつまでも進展しないし、なんか理由でもあるのかと思って、「せっかく修学旅行で勇気出して船木さんとお前を一緒の班

にしてやったのにさあ、もっと話せよ。俺ばっかり気遣ってさあ」って言ってみたわけ。そしたらまあボクが何を勘違いしたか知らないけど、「実玖は怜のことが好きだから、一緒の班になったんだろ」って。

 そんなわけあるかよ。俺前から船木さんに相談受けてたし。ボクのことが好きだから、修学旅行一緒に回りたいこと。幼馴染だったのにむしろ意識しちゃって上手く話せないからって。じゃあ俺は人肌脱ぐかって。それで良かれと思って、でもお前が勘違いしたまま、やけになって「こんなんいらねえよ裏切り者」って三人で買ったお守りを海に向かって投げるからさ。

「喧嘩して、それで、俺がお守り投げたら、アイツ、海に飛び込んで。病弱なのに」

 いやまあそれで溺れかけたのは事実だけど、これは俺が先に煽ったのが悪いし。ついでに勢いよく飛び出しちゃった俺も悪いし。少なくともボクのせいじゃ無いよ。

「そのことが原因で、高熱だして死んでさあ。俺のせいだよ」

 そんなこと言うなよ。違うって。船木さんもそんな深刻そうな顔しないで。頼むよ。

 これは今だから言える正直な話、修学旅行の時点で俺だいぶヤバかったんだよね、体。だから潮時というか、いまさらではあった。そのために良い思い出作りにしようって、頑張ったのに。

 ボクの顔は逆光で隠れている。窓を背に表情が見えないお前はなんだか怖くって、危なげで、そのまま後ろにストンと落ちてしまうのではないかと思った。

「俺が悪いからさ。だから」

 ボクの影が揺らぐ。足が床から浮く。赤い日が目を刺す。カーテンが翻る。息を呑む音、抜ける風。その瞬間に重力が少しだけ軽くなったようで、ボクはぐらりと傾いて、俺は咄嗟にその手を掴もうとして、

「もう死なないでよ!」

 船木さんが机を蹴散らして、ボクの手を掴んだ。花瓶が派手な音を立てて割れる。

「八尾くんが死んじゃって、ボクくんも死んじゃったら、わたし、どうすればいいいの!? 嫌だよ、置いてかないでよ! わたしだって八尾くんに相談しなかったら、こんなことになってなかったんじゃないかって思って、でも」

 船木さんの目から涙がこぼれる。掴めなかった俺の代わりに、船木さんがボクの腕をしっかり掴んでて、たぶんそこには体温とか血とかが通ってて、そういうの、すごく、良いなと思った。

「八尾くんは、し、死んじゃったけど、でも、ボクくんは死んじゃダメだよ。八尾くん、ボクくんのこと頼むって、頼むって言ってたから」

 ああ、その頃には万が一の予測ができていたから、そういえばそんなこと言ったっけ。覚えててくれたんだ。嬉しいね。

 ボクは相変わらずどこを見てるか分からない。喜べよ、ほら。手ぇ握られてるぞ。赤面ぐらい見せてくれよ。かわいげのない奴め。

「ねえ、死んじゃうのはやっぱり違うよ。だって八尾くん、八尾くんは」

 しゃくり上げながら言葉を続ける船木さんが、意を決したように顔を上げて、そのまま何かに気づいたように視線を上げる。目が合った。え、見えてる? 今?

 船木さんの目がまん丸に開かれる。俺は視線が合ったことを認めると、人差し指を口元に当てて、首を振った。そして拳を突きあげて頑張れのポーズをした。船木さんは呆然としつつも、ボクに向き直る。

「実玖、でも俺は」

「だから、生きないと。八尾くん、このお守り買ったとき、みんなが幸せでいられますようにって言ってたじゃん。じゃあ死んじゃうのはおかしいよ。せめて、幸せに、ならないと」

 船木さんは涙をこらえてボクの肩を掴んだ。ガクンと首が揺れて、涙が散る。

「幸せに……なっていいのかな」

 ボクはそうこぼすと、黙って目を拭い続けた。だからいっつもそう言ってんじゃんって。俺はボクの手からこぼれた涙を拭えないまま、見つめていた。


 二人して泣きはらした目で、教室を出て行くとき、最後に船木さんが振り返った。俺はバイバイと手を振って、持っていたお守りのうち一つをボクの机に置いた。ボクが失くしてたって言ったお守り、手の中にあったわ。ごめん、持ってかせて。その代わり俺のあげる。どうか幸せに。


「やっぱり船木さん気づいてたんだな」

 よく見てるな、と感心する。

 ボクに伝えられなかった大事なことはふたつだけ。まずボクが投げたお守りを追って海に落ちたとき。月に照らされてピカッと光ったから、思わず手を伸ばしちゃったけど、あれは船木さんとボクとでおそろいで、ついでに俺とボクともおそろいだったわけじゃん。だから。そして二つめ。あの夜は本当に月がきれいで、俺はそのことをお前に言われたら、「死んでも良い」って言えちゃうぐらい、うん、だから、本当に気にしなくていいってこと。

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