卑弥呼の神殿は出雲にある③

@takanosukan

第1話

 第三章

 この章では、前章まで書き散らしてきた事をまとめつつ、卑弥呼の神殿は出雲にあったとして、倭人伝の記述との整合性(?)を私の感覚、つまりは、都合を最大限拡張しつつでっち上げたいと思います。

 既に、第一章で述べてきた事ではありますが、距離の記載を確認すると、帯方郡から邪馬台国までの距離は一万二千里とされています。私にとっての基準点は対馬ですからそこまでに八千里を費やしている以上、対馬から四千里(約400㎞)離れた場所に邪馬台国の少なくとも端っこはあるはずです。もし仮に、対馬を出発し直線的に日本海側を行くと、丁度、出雲大社あたりになります。

 次にその四千里、つまりは、400㎞を水行十日でたどり着けるのかが問題となるでしょう。で、1日に進むべき距離は40㎞となりますが、北九州から出雲に向かっては時速1ノットで対馬暖流が流れています。単純化すれば、つまりは1時間で、何もしなくても1852メートル進める事になりますから、10時間、海上を行けば18㎞進めます。ずーっと、ではないにしろ、当然、漕ぐでしょうから、これでもやはり、18㎞進める場合が有り得ます。さらに、もし、帆走が加われば18㎞追加される可能性すらありますから都合約60㎞進めてしまうかもしれません。であれば、季節や海況を考慮すれば、十日で充分に可能かつ、多過ぎない妥当な数字となります。但し、北部九州から出雲に向かう場合は良いにしても、逆に出雲から対馬や北部九州に戻ろうとすると、海流に逆らって航海する事を強いられる事になります。川上りとは違って不可能ではないでしょうが、単純計算では帆走を伴ったとしても時速約1.8㎞の海流に逆らって進むことを強いられますから幾ら漕いでも、その効果は無くなり差し引きゼロとなってしまいます。つまりは、帆走による風頼みの航海となります。結果、時速は三分の一となり、30日程度かかることになってしまいます(実際には対馬暖流に対する反流が沿岸部には有り得るので、それらを巧みに利用すれば、

そこまではかからないとは、思いますが)。倭人伝記載の「三十日」には合致しますので、ここで話しをまとめても良いのでしょうが、私は次節の行き方(九州方面から来たのであれば戻り方)が有り得と、考えます。

 では、そのお勧めの復路はどうするべきでしょうか。当然、消去法的に陸行せざるを得なくなります。帰りの水行と同じ様に30日かかることに変わりはありませんし、けして楽でもありません。けれど、はるかに安全です(この当たりの判断はその時の季節毎の天候傾向等のリスクをどう取るかによりますが)。

 では具体的?に考えてみましょう。対馬から九州本土まで直行すれば、基準地点にもよりますが、およそ140㎞ほどになります。そこを水行するとすれば(ここで2~3日程度消費)、直線距離にして出雲までは残り約300㎞としてみます。人の移動出来る、つまりは一日で歩ける距離は20から25㎞とします。その根拠は、現在の陸軍の一日の作戦行動の目安の距離がその程度だからです(今の軍隊は、基本、機械化されているので、これよりはるかに長距離な移動は可能ですが、人間が持ち運べる荷物の量と歩行距離は2000年前と変わらないからです)。

 また、個人的にも熊野古道の中辺路を歩いた時に、雨の中やはり一日に約20㎞、二日間で40㎞ほど歩きましたが、長期間となると、その位が限度ではないかと、感じていますが、いかがでしょうか。

 勿論、そのルートの行き来に慣れた若者達であれば、倍の40㎞も可能でしょうし、逆に外交使節のような集団では、10㎞にも満たない可能性もあります。地域の有力者の接待等を受けなければならない等の余計な時間がかかるからです。また、季節にもよりますからあくまでも、年間の平均、それも普通の人間の行動であればと、なります。

 一日当たり25㎞進めるとして300㎞であれば、12日で走破出来る事になるはずです(1日目当たり20㎞であれば15日)。但し、300㎞は直線距離ですからそこまで単純化はできないでしょう。又、当時の道は、遠距離を行く人の都合を優先して出来てはいないはずだからです。なぜなら、強力な中央政府が、全国的な支配の為に街道を整備するような段階にはなっていないからです。では、当時の道はどうあるのでしょうか。ひとつは、それぞれの集落間の都合で道は造られているはすです。その都合も多様でしょうが、近隣の集落と緊張関係にあれば、幾つもの屈折や堀切等を伴ったはずですし、さほどではない関係では歩き易いように維持されているはずです。また、地元の人生活の利便性を優先していて、結果、旅人にとっては、かなり大回りしている可能性もあります。そのような諸事情を勘案すれば、実歩行距離はかなり増えると、考えざるを得ません。この当たりは具体的に実歩行距離を勘案する事は困難ですが、倍の30日、つまりは1日目当たり直線距離にして10㎞程度と把握出来ない事もないかもしれません。もしそうであるなら、陸行30日も妥当な数字だと、考えます。

 次に、ルートを考えてみましょう。まずは、海岸沿いはどうでしょうか。確かに迷う事はまずないでしょうが、問題は川を渡り続けなければならない事です。河口部は当たり前ですが、それぞれの河川で最大の幅と流量になるはずです。多少上流へ遡れば、容易な渡河点がある場合もあるでしょう。或いは、地元の方達が渡し舟等を出してくれる場合も想定出来ますが、全ての河川でそのような対応が可能であったとは思えません。つまり、大変危険な目に毎日遭遇(可能か否かは判断出来ませんが、最悪「着衣水泳」を強いられかねないからです)する可能性が高い上に、少なくとも、一々、それなりの準備と対応をしなければなりせん。

 次に海岸線から離れ、かつ奥深い山中ではない中間的な領域(今で言う所の中山間地?)を進むべきでしょうか。良いように思うかもしれませんが、私に言わせれば、ある程度の範囲で行き止まってしまいがちではないかと、考えます。何故なら、前記したように道とはつまりは敵対的な勢力の侵入経路にもなり得るからです(卑弥呼の生きていた頃は紛争の絶えない時期ですから尚更でしょう)。その集落なり地域の日常生活に対応するものであって、時に攻撃的ですらあるかもしれない近隣と易々と行き来できる道が、少なくとも何百キロと続いているとは思えません。今風に言えば、各地域の路線バス等と同様に地域で完結していて遠距離を繋ぐようにはなっていないのと同じイメージを持つべきではないでしょうか(因みに、それらを物ともせずに頑張る、蛭子さん、田川さんの「ローカル路線バスの旅」は大大大好きで何度でも再放送をみてしまいます。結果や経緯、蛭子さんの問題発言やエピソードを知っていてもね)。

 では、本格的な山の中はどうでしょうか。登山を三十日間続けるのはか~なり厳しいと、感じるかもしれません。頂上を目指すのであれば、峰を縦走していくにしても、アップダウンが連続すれば、平均的な人間にはそうなるでしょう。また、季節にもよりますが、比較的に低山の多い中国山地でも簡単に遭難出来ます。案内人がいれば、そのような事は避けられるでしょうが、厳しい事に変わりはありません。

 しかし、これは経験則の中で生まれた事でしょうが前記した熊野古道のように山の中腹を歩くのであれは、多少、実歩行距離が延びたとしてもアップダウンが余りなく(ただ、そもそも、このような道は牛に荷物を運ばせる為に造られた道ですから「牛はいないと」倭人伝に記載されているにも関わらず、想定するのは問題ではありますが)しかも、一またぎで渡れる沢とも、しばしば出会うので容易に水を入手出来ます。そのような道は平安時代以降でないと、存在を証明出来ませんが、可能性は充分にあると、考えます。但し、江戸時代のように整備されてはいないはずですから、休憩し易い場所、要は、〇〇茶屋や旅籠の類はまず想定出来ませんから、毎日がキャンプ生活となりかねません(で、冷静に考えてみれば、たとえば、今、キャンプをすれば、そのほとんどが食事の準備と後片づけで終わってしまいますから、実際の移動時間を制約する事にもなります)。運良く、暖かい寝床と食事に巡り会える日もあるでしょうが、相当ハードな旅程ではありますが、当時の状況を想定すれば可能性はあると、考えます。

 以上で邪馬台国が出雲にあったと、想定してもさしたる違和感は無いと言う理由を説明したつもりですが、どうでしょうか(飽くまで、私の妄想にそった都合から出発した判断の結果ではありますが)。

 次に、広義の邪馬台国(倭国では無く)の領域もあわせて考えてみましょう。3世紀(西暦200年代)の100年の長さの中での時期にもよりますが、概ね、現在の山口県、島根県、鳥取県、兵庫県北部、京都府、大阪府、奈良県、滋賀県、三重県、更には長野県(大国主命の次男坊が逃げたのは諏訪湖だから)果ては東海、関東南部等が含まれていると、考えています。特に中国地方の日本海側はコアな領域だと、感じます。その最大の根拠は、畿内等も含めてですが、旧国名で言うと例えば鳥取県は伯耆、因幡、兵庫県北部は但馬、京都府は丹後、丹波、山城といった細かい区分だからです。その背景にある「それが当たり前だ」と、捉える意識に根拠を見いだしたいと、思います。つまり、本拠地に近い(馴染みがある、或いはイメージ、土地勘がある)ほど、地域各区分は細かくなり勝ちでは無いかと、考えます。たとえば、出雲の沖合いにある隠岐は、江戸時代の表石高は五千石ほどですが、立派に一カ国扱いです。当時(旧国名が確立した700年頃)の常識では当たり前の区分だったからです。これに対して、東北地方は現状では六つの県で構成されていますが、江戸時代は陸奥、出羽の二カ国でしかありません。更に、種子島、屋久島は隠岐よりはるかに広いにも関わらず、国扱いはされていません。このような傾向はアメリカ合衆国の州にもみられます。普遍的な原理と、までは申し上げませんがね。

 次に、投馬国への行き方や所在地を考えてみましょう。但し、邪馬台国の場合には卑弥呼の神殿までの旅程を表記した事になるでしょうが、投馬国の場合には、良くて中心部、下手をすれば、その領域に入るまでの日数かもしれません。何故なら、往来するのは外交使節では無く、普通の人のはずだからです。そうなると、投馬国に言ったと、言い張れるだけで充分かもしれないからです。

 また、既に前章で触れたように、神武天皇は高千穂を出発して大和政権を作った事になっています。その「高千穂」が具体的に何処かは分かりませんが、おそらくは、日向(今の宮崎県)のいずれかではあるでしょうが、その高千穂が、卑弥呼の方々時代にも同じように本拠地であるとは限りませんから、そこまで行く事を想定する必要は薄いとも、考えています。

 では、具体的にいきましょう。私自身は「大海」を渡らない事を前提に倭人伝の「水行二十日」を当てはめてみると、末盧国から九州西部の沿岸を南下せざるを得ないのではないかと、考えています。なぜなら、瀬戸内海に廻ろうとすれば、狗奴国の領域を通行しなければなりませんから、危険この上無いからです。又、沿岸を進めば、大海ではないので、航海上、それほどには危険では無いからです。

 さほどの根拠も無いのですが、具体的に想定したいのは、平戸~佐世保~大村~諫早~島原~宇土~八代です(諫早付近は陸行)。つまり、今の八代あたりを投馬国の入口と、考えました。

 で、その「さほど」の根拠の一つは、旧国名での名称です。長崎県(佐賀県も)は「肥前」、対する熊本県は「肥後」となります。熊本の手前は福岡では無く、伝統的な感覚では長崎、佐賀なのでしょう(豊前豊後、或いは備前備中備後、上総下総等も同様に「京都から見て」の感覚と言い換えてもよいのかもしれませんが)。この間の距離はおおよそ400㎞程度となりますが、外交使節的な人物の往来では無く、普通の人だとすると、ずっと同じ船では無く、乗り継いで行くと、認識しています。すると、ある朝、A地点からB地点に行こうとすると、その船はBに至った後A地点に戻らなければいけない事になるので5時間ほどしか進めません。その場にC地点に行く船が待っていてくれていれば、さらに5時間進めるでしょうが、それでもトータル10時間ですから、海流の助けがほぼ無い事もあって(海流が中立的な為に往路復路とも「水行」二十日が可能なのでしょう)、帆走を併用したとしてもせいぜい1日目当たり20㎞ほどしか進めないのではないでしょうか。

 であれば、さほどには目茶苦茶ではないと、考えています。八代が投馬国の本拠地であると断言出来ませんが、「入国窓口」としては可能性はあると考えています。しかし、このあたりの根拠は全く或いはほとんどありません。所詮は「水行二十日」で過不足無く到達するのは「このぐらいかなぁ」と、妄想した結果です。なので、八代では無く、今の熊本市でも何の問題もありません。悪しからずご了承下さい。

 また、これも人口が五万戸以外には根拠もありませんが、北部九州の諸国よりかなり多い以上、その領域も広いはずですから、投馬国は、その全てでは無いにしろ、現在の熊本、宮崎両県が勢力範囲と言う見立てをしておきたいと、考えています。

 次は、狗奴国と参りましょう。これまで述べてきた事とかなり重複はしますが、狗奴国は、かなり異質な存在であったと、考えています。自然環境が人間の考え方を完全に規定するはずは無いでしょう。草原地帯、或いは半砂漠に住む民族は好戦的であったり、降雪量の多い地域の人々が我慢強いとは、限りませんが(さすがに環境決定論には無理があります)、傾向として、或いは感覚的には、ありそうです。狭い海峡による複雑な潮流、大小様々な島々、海賊稼業には持ってこいでしょうし、流動性をともなった「海賊の住処」としては、最適でしょう。

 第一章で書いたように倭人伝では、狗奴国の事を書いた直後に帯方郡から「一万二千里」とあるのは狗奴国の西端が邪馬台国のそれと大差が無く、瀬戸内海のかなり西部にある事を示していると、考えます。

 また、第二章で神話や伝説で触れたように、淡路島を境にしてより西の瀬戸内海の島々は國生み神話に登場せず、神武の東征伝説では、逆に日本海側は少なくとも、この時は「征伐」の対象にすらなっていないのも瀬戸内海地域が邪馬台国を始めとする倭国連合に敵対してきた狗奴国の領域であった事をうかがわせると、考えますがどうでしょうか。

 さらに言えば、神武が浪速、つまりは今の大阪付近で上陸に失敗したのも狗奴国が水上及び水際の複合的な戦闘には秀でていた事を示し、逆に陸上での戦はやや狗奴国勢は不利であったのではないかと、妄想していたいと思います。

 で、強引ではありますが、邪馬台国、投馬国、狗奴国の概ねの位置関係は、説明出来たと、考えますが、如何でしょうか。

 以上で邪馬台国時代のおおよそについても言及したと、思いますが、結局は、大国主命の國譲り神話から遡って、話しを組み立ててきただけかもしれません。

 また、方位については、やはり、幾ら対馬が基準(政治的な現状を考慮して避けましたが、本音を率直に記せば、「其の北岸〈つまりは倭の最北〉」と書かれている狗邪韓国に比定されているプサンを基準にしたほうが、すっきりとして都合は良いのですが)だと、言い張ったとしても、出雲が対馬の「南」に当たると主張する事には、正直に言えば、些か躊躇せざるを得ません。大体、対馬を起点にして「南」を標榜すれば、邪馬台国の所在地としての蓋然性の高い地域はほぼ全て網羅する事になりますから、後は私のように強引なこじつけや、それすら無い単なる思い込みで、幾らでも、珍妙な邪馬台国〇〇説は創造出来てしまいます。ではありますが、倭人伝をベースに考えれば、これ以上には追及できないだろうとも思います。書いてきた事の是非は、皆様のご判断にお任せいたします。


 おわりに

 もう20年近く前の話しにはなりますが、ある年の晩秋、島根県の荒神谷遺跡(わずか、数キロしか離れていない、山一つ超えたもっと有名な加茂岩倉遺跡ではなかったのは何故だったのかは、今となっては思い出せないのが不思議ではありますが)を訪れた事があります。その旅行では三朝温泉に泊まりカジカの声に耳をかたむけ(実際にはほとんど聞こえませんでしたが…)、三徳山投入堂を訪れ(ここは登山経験がないとか~なりヤバイ、簡単に大怪我出来る箇所が何カ所もあります)、出雲大社に参詣する事等が主な目的でした。現地に着いて「そういや、有名な遺跡あるじゃん」と、ガイドブックを広げた事を今も覚えています。このあたりは、勝手気ままな時間の使い方が出来る一人旅ならばこそではありますが、当然、思いつきですから、行き方から始めて、日程の何処に組み込むかをしばし検討しました。結果、何とかなるだろうと、言うことになり、最寄り駅からとぼとぼと歩き出しました。

 ただ、遺跡を一当たり巡っては見たものの、事前に下調べしたわけでは無い上に(今と違ってケータイはあってもスマホはない時代なので)、古代史は全くの素人な事もあってさほどの感動も無く「へぇー。凄い数の銅剣だぁー」で、終ってしまいました。建物等の構造物がある吉野ヶ里や三内丸山を訪れた時のような強烈な印象は無かったのです。つまり、多少の失望を伴いつつ、単に思いつきをこなした感覚だったのです。ところが、駅に戻る帰り道、黄金色に染まった稲穂が風に吹かれ、その上を無数のトンボ達が飛び廻っているのに出くわしました。

 既視感、それはつまり、その更に十数年前まだ20代最後の頃、奈良盆地で信貴山神社の奥の院に向かって歩いている途中(何分、30年以上前の事なので、もしかしたら、奥の院を過ぎて駅へと歩いていた時かもしれませんが)で出会ったものでした(季節は夏の終わりでしたから、さほどには、頭をたれてはいませんでしたが、稲穂の上をやはり、無数のトンボ達が飛び交っていました。奥の院の住職さん神主さん?にお茶をご馳走になりつつ、「遠いですね」と、問いかけると、「奥にあるから、奥の院」と返された事と共に覚えています)。その時、単に似た風景としてでは無く、瞬間的に両者に何らかの関係性があるように感じたのです。「ハァッとした」と、言うべきでしょうか。頭の中で花火が爆発したような感覚になった事を覚えています。帰宅して更に改めて考えてみると「それって重たい話しかも」と、感じだしました。以来、その出雲と大和の相似性(少なくとも地勢的な)は、どういう事なのかを時折考えつつ時間が過ぎていきました。本文はそれらの思いつきの数々を「でっち上げて」まとめたものです。

 歴史学的に全く科学的では無いことには、自信がありますが(笑)、同時にトンボ達に魔法をかけられて出来てしまった妙な妄想を公にしてみるのも面白いかもしれないと、考えてみました。このような「思いつき」はチャンとした歴史学の研究者の方々はたとえ瞬間的に考えたとしても、「口が裂けても」言い得ないでしょうが、それなりに自信はあります。そのような立場にある人間には語る資格はないでしょうが、いつの日にか宮内庁が管理している陵墓等の調査が許され、歴史学として全ての謎が解ける事を期待しつつ筆を置きたいと思います。

 

 

 


 

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