風は知っている

杜松の実

 

 まずは僕のこんな妄想からきいて頂きたい。

 しばらく前に『スケール』なる本を読んだ。大変興味深い内容で、都市というのは実によくできたシステムであり、でかくなればなるほど効率的になると言う。これはまだ僕の妄想ではありません。ちゃんとある本です。早川から出ております。大事なことはここに用意するから、別に読まなくても構わない。大きいほど効率的だと言われれば、それはそうだろうと思う人もいるかも分からないが、僕にとっては違っていた。図体がでかいものはそれだけ燃費も悪く無駄な空費が多いものだと考えていたのだ。しかしこれが間違っていた。具体的に上げ連ねてみよう。インフラ設備である道路や上下水道、電線等々、これらは都市の人口が二倍になると、必要になる長さが大体七割増しで済むらしい。先にも言ったが読んだのは暫くなので、数字はいい加減だ。だが概ねこんなものだった。他にも、都市から排出される二酸化炭素量は減る、都市全体を賄う電力量も減る。食品ロスだって減るのだから、持続可能社会と都市の巨大化には親和性が大きいようにも思える。また、当然のことながら都市が大きくなればそれだけ財を生む能率だって上がるのだ。

 では巨大な都市とはどんなものなのだろうか。東京は人口一千万を超える都市だが、日本人口の全てが収まる都市とは。高層化は容易く想像がつく。地下もより発展するだろう。しかしそれだけだと、物語としては物足りない。リアリティ度外視で面白い巨大都市を考えてみよう。但しファンタジーとなることが無いように気を付けよう。

 高層化までは順当に成長し軒並み五十階オーバーのビル都市、そこからあらゆるビルとビルとが菌糸が伸びる様に、地中空中で繋がっていく。地中空中に張り巡らされた連結路は大小様々あり、都市中に行き渡る毛細血管は細かく分岐し生き急ぐ人で埋め尽くされ、動脈の中はモノレールがにょきにょきと通る。そこら中にある駅はどれもこれもがターミナル然として複雑に繋がり合い、ひっきりなしに人を吸って吐いて運んでいく。ちょっと遠くからその巨大都市を見れば、それはテーブルマウンテンのような一枚岩の巨塊に映るだろう。



 午前五時五十九分数十秒。頭を枕に預けた高野鴻也の黒目は、左手の白壁を愚鈍に感じている。間も無くそこへ、タイマーセットされていたテレビが起動し、ニュース番組が映し出された。白とオレンジの爽やかなスタジオに立つ男女二人のキャスターの横へ番組ロゴが浮かび、アップビートな曲がかかっている。

『こんにちは。五月十四日、月曜日。六時になりました。RAHニュースをお送りします。今日からまた一週間、みなさん頑張っていきましょう』

 と、先週と全く同じに今週を始めた。

『まずは、今日の沓名総理のアガペー値を見ていきましょう。七十四・二となっております。また昨日よりも高くなっていますね。その他、官房長官、大臣、救愛党四役のアガペー値はご覧の通りです。松浦さん、ご覧になって、どう思われますか?』

 椅子に深く腰をうずめている肥えた初老のコメンテーターは声を掛けられてから、やや前屈みとなり、赤ペンをくるくると回しながらしゃがれた声で、

『七十四。いやあ、考えられない数値ですよね。金曜日の黒羽高の原発緊急停止から、四日連続で七十越えでしょう? タイミュラー社の発表ではアガペー値が七十を超えたのは世界で、まだ七人しか居ないそうで、それに七十四というのは、おそらく過去最高の値でしょう? 国難にあって総理の器が知れると言いますかね。前は、ちょっと温和が過ぎて頼り無い印象でしたけどね、こうした事態に至って、国民と危機意識を共有して、同じ痛みを抱いて、それでいて国を愛して、どうにかしようと思っていると分かるとね、何だかこの人が総理で良かった、なんて思えるね』

『はい。本当に、そうですね』

 と妙齢のキャスターが引き取ったのを尻目に、ようやく高野はベッドから起き上がった。四十を過ぎるとこうしてベッドを離れることでさえ億劫になる。

 高野の部屋に窓はない。四方を白い壁に囲われ、窓に模した自然風景のグラフィックが投影されている。一介の公務員である高野は高層階の部屋と天秤にかけ、この地下の部屋を選んだ。超高層階と比べても、割合地上に近い地下二階のこの部屋はいくらか家賃が安く、交通インフラはまだ地下の方が発達しているからだった。それも今では地上の鉄道網も地下に追いついている為、地上に引っ越そうかとも考えているが、同じことを考えている者も多く、地上の賃貸はじりじりと値上がりしている現状が、高野の背中を掴んでいた。

 朝食を手早く済ませ、スーツに着替える。掛けてあるネクタイに手を伸ばしかけたとき、今日からはクールビズにしようと決めていたことを思い出した。しおれたトートバッグを肩に掛け、出がけにドレッサーに置いてあったコンタクトレンズケースを充電器から抜き取った。



 チャイムと同時に高野が教室に入る。生徒たちはがやがやと席に座り、それをコンタクトレンズが読み取り、

  [出席番号十四番 須藤沙織 さんが居ません。欠席の連絡が入っています。]

 と拡張現実オーグメンテッド・リアリティ上に、半透明な黒文字のテキストが表示され、そのすぐ下には「確認しました」とチェックボックスがある。朝礼で伝える事項については既に生徒たちに共有してあり、それぞれが拡張オーグ表示して読み合わせをするだけで終いだ。最後にと、

「先週の金曜日にあんな事故が起きて、まだみんなも不安でしょう。だけど、とりあえずは大丈夫のようですから、授業は普段通り行うことになりました。何か不安に感じるようなことがあったら、気兼ねなく、先生とかに相談に来て下さいね」

 すると、生徒たちが虚を突かれたという顔をして見詰めて来る。左手前に座る女子生徒が後ろを振り返りひそひそ、何やら話を始めたが、とても聞き取れない。朝礼で外すことなど暫くは無かった。

「ん。みんなは不安に感じてないの?」

 手首を握りさすっていたことから、高野は自分が落ち着いていないことに気が付く。

「別に「大丈夫でしょ「なんで」と口々に生徒たちはざわつき、中から一人の男子生徒が、

「沓名が大丈夫って言っているじゃないですか」

 死語となった「世代間格差」という言葉が高野の胸に湧く。拡張オーグやラブステイタスが、生まれた時から当たり前に在る乙世代からしてみれば、アガペー値七十の総理の言うことは絶対の信頼に当たるのだろう。確かに彼ほど国を愛している人はいないのかも分からない。幼少にフクシマを見ている最後の世代である高野らは「時代は変わった。それも良い方向に」と諦観に呟かなければならない。

「そう。なら良かったです。でも、外は出来るだけ歩かないように。雨のときなんかは絶対に駄目ですからね。雨が汚染されているかもしれない。はい、では終わりにします。号令お願いします」

 教室を出た高野を後ろから女子生徒が呼び止める。廊下には他クラスの人たちと話そうと、ちらほらと生徒たちが出て来てたむろしている。

「先生? わたしのラブチャート見てくれました?」

 朝礼の間中、佐久間由良の頭上にアイコンが灯っており高野の方では、

  [佐久間由良 さんがあなたにラブチャートを公開しています。閲覧しますか?]

 と表示を受けていた。

「いいや、見てない」

「あら、みてよう。今日なんてとくにエロス値高いんだから。ねえ」

 四月に学級が入れ替わり担任になってからの一目惚れだと言い、二週間ほど前から毎日のように自身の高野に向けたラブチャートを見せようとしている。脳波、ホルモン値、心拍数などから六項目のラブ値をリアルタイムで計測、保存、管理、活用するシステム「ラブステイタス」は、ヘルスケアのみならず、コミュニケーションツールとして必須となっている。一定程度親密になり更なる交流を深めたいとなれば、ルダス, プラグマ, ストルゲ, アガペー, エロス, マニアを変量とした六角形レーダーチャートである「ラブチャート」を見せ合ったり、さらにはアーカイブ情報までを交換することが慣習となっている。とりわけ乙世代にしてみればラブチャートの公開は随分カジュアルに行われているようで、アラフォーから片足出ている高野からしてみれば、遺伝子情報と並べても可笑しくないような究極の個人情報を軽く扱うことに不理解と緊張を感じ、指導すべきなのだろうかと考えている。しかし、ラブステイタスに関しては法整備が未だに為されていないことから、静観、黙認するというのが学校の方針だ。

「一時間目、体育でしょう。第三体育室は遠いのだから、遅刻しますよ」

「そうなの? いけない、日焼け止め忘れたわ」

「日焼け止め? 駄目じゃないか。禁止になっているの、知っているでしょ? 一体なんの為の紫外線灯か」

「分かっていますよ。でも、みんな使っているもの。ビタミンDはサプリメントで摂っているから問題ないわ」

 佐久間は胸の前で手を合わせ、体にしなをつくって上目に高野を見詰める。それが彼女なりのアピールであることは、高野の理解する所であり、だからこそ対応に困りそれは二週間経験しても慣れないものだった。

「でも、高野先生が嫌だって言うのならやめるわ」

「なら、やめなさい」

 合わせた手を口を覆うように小さく開き、佐久間はふふんと笑う。そこに教室から出て来た女子生徒たちが「由良。いくよ」と声をかけ、佐久間は高野にはにかんで会釈し彼女らについて行った。



 十八時、完全下校だ。これは教職員も例外でない。十九時からここはムーンタイマーの中学校になる。限りある資源の有効活用という観点から、一日の活動時間を七時から十八時のサンタイムと十九時から翌六時のムーンタイムに分け、あらゆる施設やオフィスなんかを共同で使用している。数年前まではサン、ムーンそれぞれで分けてGDPを算出していたデータ機関がほとんどであったが、それぞれマジックアワーで経済圏が混ざり合うため分ける意義は元からなく、要らぬ競争をかき立てているとの批判から、今はどこもやっていない。しかし、マジックアワーでの混交は飲食店がほとんどで、そのように分けたくなるほどサンとムーンの交流は乏しく、溝があるように見える。いつか高野らもムーンの中学校教員たちと合同職員会議を行ったことがあるが、土曜の午前六時の会議はあまりの眠気に何ひとつ内容は残らず、ムーンタイムの先生方が華金へ早く繰り出したいとやきもきしていたことだけが印象強かった。

 同僚と職員室を出てエレベーターに向かうと、ちょうど清掃員らが出て来る所に行き合い、それに乗って駅のある十七階に降りた。ああした清掃員は制服を着ており一見分からないが、多くが浮浪者であり職安が日雇いで派遣しているらしい、という程度のことしか高野は知らない。こうして擦れ違うことはあるが言葉を交わしたことは一度も無かった。

 降りるとそこはすぐ駅になっている。十六階以下のフロアに入るオフィスから勤労者が上がって来ている。部活を終えた生徒たちもそこに溢れている。このビルに入る路線は三つあり、それらの上下線がひっきりなしにその者たちを掻き出そうと奮発している。高野らはその人混みに混ざり入るのを面倒に思い外側に立って人気が引くのを待つことにした。

 二十分もすると、改札階の混雑は解消され疎らに残った者は高野らと同じようにピークアウトを待っていた者だけとなった。ここからは早めに出勤する者や通学して来る者が増える頃合いであるから、高野は同僚と別れてホーム階へと一つ上がった。

 待っている顔があった。階段を登り切りふっと顔を上げたとき、そこに居た佐久間由良と目が合った。佐久間はモノレールを持っている素振りで列並びをしているようであるが、高野を見付けると列を抜けてそっと寄って来た。

「ああ、佐久間さん。部活終わりですか。佐久間さんも空くまで待っていたの?」

「ちがいますよ。わたしは先生を待っていたの」

「待ってた。僕を?」

「気付かない内に帰ってしまったのかも、と思っていたけど。やっぱり待っていて正解だったわ」

「なにか相談でもあるのですか?」

 佐久間がお決まりのように体をしならせ、上目遣いにふふんと笑う。

「ねえ、そこにじっと立っていて。じっとしていてよ」

 佐久間は直立させた高野の頭からつま先まで、六秒かけてじっくり視線を往復させる。ラブステイタスは状況設定を適切に行うことで、特定の対象に対するラブ値を算出することができる。佐久間は高野のことを六秒間に渡って一意専心に見詰めることで、高野に向けたラブチャートをつくっていた。ふっと一息を吐く。

「先生、わたしのラブチャートを見て。先生のことが好きなの。知って欲しい」

「そんな訳ないですよ。こんなおじさんに。何かの勘違いです」

「勘違いなものですかっ。わたし、これまで何人もの男の子と付き合ってきたけれど、エロス値四十六なんて出たこと無かったわ。だから、先生のこと初めて見たときから、この人が運命の人ってわかったの。今日なんて五十越えたのよ?」

「そう思い込んでいるだけです。本当の気持ちじゃない」

「思い込む? 違う。ありえない。こうして出ているのですから。今ではね、エロスだけじゃなくてストルゲも高くなっているの。本物の愛なのよ」

「佐久間さん。落ち着いて。先生あまり詳しくないから分からないけど、若い時はちょっとした思い込みなんかが、きっとラブ値に反映されるのですよ。調べてみますから、今日は家に帰って落ち着いて下さい」

「違うっ。どうしてわたしを見てくれないのっ。信じられないのなら、わたしのラブチャートを見てよっ」

 佐久間は目に涙を溜め、俯き加減に叫んでいた。

 高野は自分の手首をさすって静かに答える。ちょうどそこへプラットフォームにモノレールが入り込んでくる。

「見ません」

 ひかえめな電子音に続いて扉が開き、数人の中年が降りて来た。高野からは俯く佐久間の頭頂が見えるばかりで、先ほどの答えが届いているのか分からないでいた。モノレールの走行音に掻き消されたのだろうと思いもう一度、

「ごめん。見ないよ」

 すると佐久間の肩がぴくりと上がり、

「もういいっ。先生のことなんか大嫌いっ」

 と駆けて階段を降りていく。

 途端に消えた小さな背中の残像は高野に「追いかけるか」と問いかける。しかし、燻った逡巡は「扉が閉まります」のアナウンスに流され消えた。

 車内は人に満ちていた。多くは仰向いて天井を見ているように見える。実際は拡張オーグでSNSを見たり、ゲームをしたり、ムービーを見たりして過ごしている。データは現実を背景にして展開、表示されるためバックに人の顔かなんかがあれば無意識に気が逸れる。具合よく目の前に立つ背広かなんかが視界を覆ってくれていれば、そこを背景として拡張オーグを扱うが、そうでなければああして情報を持たない無垢な天井を用いることは多い。

 発車するとすぐにチャットが入った。改札階で別れた同僚の一人がどこからか見ていたのであろう。

  [大変だったな どうする?飯でもいくか?]

 高野が帰ってやらなければいけないことが残っていると返信すると、

  [月曜から宿題あるのか じゃあ週末にでも行こう]

 都市は常にどこかしこでメンテナンスが行われている。ビルの改修や修繕も頻繁に行われているが、それ以上に活発であるのが連結路のメンテナンスだ。メンテナンスは経年劣化の修繕だけではなく、人々の流れを学習しより効率のよい都市へと日々変化を続けている。多流であれば幅員を拡張し、寡流であれば通路ごと取っ払ってしまい、その廃材をより適した位置に作られる新たな連結路に流用する。

 それだけ変化に富んでいるため、通勤経路は安定しない。しかし、それで迷うこともなく、拡張オーグに映る矢印の通りに進めば、その時の最適経路で家に帰ることができる。おかげで常にどこかしこで工事が行われていることは知っていながら、高野はその現場に行き合わせたことはなかった。幼少のときに見た、炎天下の中、ヘルメットをかぶり汗をぬぐうタオルを首に巻き、掘削ドリルでアスファルトを割って土煙を舞わせていた騒音の光景を思い浮かべるが、おそらくそのようなものではなく、ロボットがちゃきちゃきとメンテナンスを済ませているのだろうと妄想していた。

 降りて乗り換えるようにと指示される。初めて降りるビルであった。家までの到着予想時間を確認すると十三分とあった。矢印に沿って人流と歩行合わせながら家に帰ってからのことを考える。夕飯の準備をし、昨日洗濯した衣類を畳んで仕舞う。それからやり残した仕事を片付けていたら、おそらく終わらないままに二十四時を回るだろう。気が付くと隣に映る自分の顔と目が合った。歩いているのは連結路であり、四角い羽目殺しの窓が等間隔に並んでいたのだ。そのまますっと窓に張り付くようにして足を止め、外を見た。

 地上三階ほどの地表付近を渡す連結路らしい。真下を車道がまっすぐに通り、その両側を煌々のビル群の壁がずっと続く。車は一台も通っておらず、街灯も消されてあった。車は重課税の対象であり一部の富裕層しか持っていない。車は何よりもの富の象徴であるが、反感の的ではない。富裕層の支払う車や駐車場、車検やガソリンなど車に関わるあらゆる対象に付された重課税は道路の維持管理費を歳出しても余りある額である。加えて車持ちの紳士的な振る舞いや、居合わせた急患を病院へ運んだなどのエピソードから専ら好感度は高い。

 見下ろしていると、ぽろろと街灯が手前から奥へと順繰りに点いていく。その数秒後にこうっと一際強い光が真下より現れたかと思えば、車であった。街灯が車の後を追うようにして消えていく。車はみるみる小さくなり、しばらくして右折した。

 高野には一軒だけ馴染みの店があった。現在位置からその店までの経路を検索してみると十五分で着くということが分かり、家に帰る前にそこへ寄ることにした。

 二つモノレールを乗り継ぎ、エレベーターをつっと下がってグランドフロアにあるのが、本屋であった。デッドメディアとさえ呼ばれなくなって久しい紙の本を扱う店である。高野の知っているかぎり区内にある本屋はこの一軒のみである。おそらくはネットに載っていない隠れた本屋もあるのだろうが、縁のない物である。足繫く通っているのではない。月に一度や二月に一度程度のペースであり、買ったことは一度もなかった。それでも来客自体少ない店であるようだから、店員も高野のことを認識しているのだろうと認識している。

 店内に豪奢なところはない。白一辺倒のLEDの下、木製のラックがぎっしりと並び本が詰まっている。店の一番奥まったところにキャッシャーカウンターがあり、いつでもじいさんが座って本を読んでいる。先客が一人だけ居た。カーキのズボンにベージュのチョッキを着た、これもおじいさんである。並んで棚を見ているとおじいさんが高野に話しかけて来た。

「若いのに珍しいね」

 背も腰も伸びており高野と身長はそうは変わらない。

「そうですよね。昔から本は好きで」

 おじいさんはにこりと笑って頷く。

「そう。いいですね。ここへは良く来るのかね」

「はい。何度か」

「そうか。わたしも良く来るがお見掛けしたことは多分ないね」

「そうですね」

「わたしも本が好きでね。こう沢山の本を見ていると、自分は死に近づいているのだな、って感じる。なにもこの年になったからだけじゃない。君よりも若い頃からそんな風に思っていたんだ。分かるかね?」

「いや。どうでしょう」

 と高野が首を傾げるとおじいさんは驚いたと目を丸くする。

「ほう。いや、多くがね、分かると返すものだから。君は正直者だね」

 そうしておじいさんは話を続けた。どれだけ活字文化は廃れたと言われていても、実際はどうだ本屋はいつでも本で埋め尽くされ、行けば必ず新刊が出ている。手にした本を一冊読み終わらない内に二冊も三冊も読みたい本が現れる。本屋にあるのは新刊ばかりでなく、背表紙を見詰めるだけで惹かれて来る。本屋を訪れ本の壁を前にする度に、読みたい本をすべて読み切ることはないのだと、つくづく死を意識する。だけど、それはポジティブな死だ。読書という楽しみは尽きることがないという保証であるのだから。

「この年になるとね。本屋で感じる死が一番うれしくなるのだよ」

「なるほど。それなら分かる気がします」

 おじいさんはこれにも嬉しそうに頷いた。

「そうだ。一冊贈らせてくれないか」

「そんなっ。高価な物頂けないですよ」

「いいのだよ。いまは気分がいい。君のおかげだ。なんでも好きな物を選んでおくれ。ただし、条件もある。何を選んだか、わたしにも教えてほしい。君が何を読もうとするのか興味がある。だから慎重に選んでおくれよ。時間は気にしなくていい。見ての通り暇な老人だ」

 勢いに負けて高野は一冊頂くことにした。棚を巡って選んでいる間、おじいさんは後ろをそっと付いて回るだけで、一度仕事を聞かれたきり、何も話さなかった。

 ようやく選んだ一冊は『不道徳教育講座』であった。

「いい本だね。君はこれを初めて読むのかな?」

「はい」

「そうか。君はきっといい先生になるよ」

 と肩をぽんっと叩き高野のことを見送った。



 翌日から佐久間は高野に対してラブチャートを表示しなくなった。それだけでなく話しかけて来ることも無くなった。様子を観察するに、以前と変わりなく友人たちと楽しそうにしている所から、すっかり覚めて元に戻ったのだろうと高野は合点していた。

 そうして金曜日になり、その三時間目の授業は道徳である。ネットリテラシーの中の誹謗中傷が本時のテーマとなっている。応援しているアイドルを誹謗中傷するコメントに対して腹を立て、言い返している内に語調が強くなり、終いにファン仲間から窘められる、という物語を読み、それについてクラスで話をした。

 授業終了間際、まとめとして高野が話を始める。

「みなさんは中学三年生で、いよいよこれから受験勉強が本格化してくる時期です。受験で忙しくなると、こうして道徳のことを考える余裕も無くなって来ると思います。だから、今ここでよく考えてみて欲しいって先生は思います。みなさんを見ていて、誹謗中傷をしているのではないか、とか、するのではないか、という心配はしていません。みんな思いやりがあって、本当にいい子だなと思っています。でも、もしかしたら誹謗中傷を受けてしまうこともあるかもしれませんし、誹謗中傷を見て嫌な気分になるかもしれないですよね。そういう時に、確かに誹謗中傷している人は悪いのだけれど、その人だけが悪いとは思わないで欲しいです。その人たちもきっと、何かに傷付いて、やり場のない思いを、そうやって表に出す事で辛うじて自分を保っている、そんなように先生は考えています。

 誹謗中傷をどうしたら失くせるのか。ルールを作って破ったら罰を与えるのでは、減らすことは出来ても失くすことは、多分出来ない。失くすには、やさしさしか無いと思います。みんながやさしさを持って人と向き合うことでしか、こういうものは無くならない。やさしさを持つのは簡単なことでは無くて、自分の人生に満足していないと出来ない。日々に充実感を持って楽しめていないと、人にやさしくなることは出来ないって先生は思っています。

 人生に満足する、ってすごく難しいことだと思う。でも、そうなれるようにするために、学校はあるのです。自分の生き方を決定する力、自分はこうだって実現するための力を学校では身に付けさせてあげたいって思っています。その一つが勉強で、道徳で、クラスの友達と協力する方法、とか。

 なので、みなさんはあと一年無いですけど、残りの中学校生活で一杯のことを身に付けて、次のステージに進んで行って欲しいと思っています」

 そこでチャイムが鳴り授業は終わりとなった。



 終礼を終えても、部活動の無い生徒が教室で集まり話をしている光景はよく目にする。金曜日は高野の担当している卓球部の活動は無い為、教室でそうした輪を見かけると話しかけるようにしている。

「あ、先生。今日の道徳の話、かっこよかったです。僕、感動しましたよ」

「そう? ありがとう。それで? いま何の話をしていたの?」

「これです」

 と和田輝明が拡張オーグ共有してきたのは一枚の写真だった。五六人の男性が、遮る物のない青空を背にして、岩肌に旗を立て満面の笑みでいる。

「この前、兄貴が富士山に登ったときの写真です」

「へえ。いいね。ツアーで行ったの?」

 和田は得意げにかぶりを振って、

「サークルの合宿です。兄貴、登山部で部長をしているので」

 本島に行く手段は多くあるが、その多くは旅行会社の組んだツアーであり、個人で本島に渡ろうとするとフェリーであれ飛行機であれ、随分と値が張る。高野はツアーであっても本島に戻ったことは一度も無かった。

「すごいね。でも、事故の前でよかったね」

「ああ。それは兄貴も言っていました。しばらく登れなくなるって」

「こいつの家、すごい金持ちなんですよ」

 と隣のクラスの持田が言った。

「兄貴は特別。頭いいから気に入られているの」

「そんなことはないでしょ。和田くんだって成績いいよ?」

「いやいや。いいって先生。わかっているから。この学校にいる時点で終わっているよね?」

 と彼らはけたけたと笑い出した。

「そんなことないって。勉強だけが全てではないし」

「いや、先生。勉強が全部です。先生はどこの大学でした?」

「東部大」

「それは本島の大学ですか?」

「うん。僕、大学までは本島だったから」

「その大学はアイランドで言うとどこですか?」

「湘大学かな?」

「名門じゃないですか。やっぱりなあ」

 巨大都市アイランドは海洋に浮かぶ人工島である。本島には原子力発電所などの発電施設がある他はほとんど人が住んでいない。居住地の自由はあるから、自給自足して山で暮らす山伏や引き継いできた神社仏閣を守る神主僧侶も残っている。彼らの作る野菜や畜産物、採った魚は天然物の高級品としてアイランドにも入って来ているが、高野らが口にする物はすべてアイランド内の工場で生産された培養品である。

 氷山の一角と言われるように、海上に現れているビル群はアイランドのごく一部に過ぎず大部分は海面下の地下として、国民生活の基盤となる工場や浄水場、さらには刑務所などが最下層付近に集まっている構造だ。真の最下層にあるのはゴミ処理施設で、そこで環境に影響を及ぼさないように処理されたゴミは海底に放出されている。

「なあ、高野。こんな話、聞いたことある?」

 終業後、約束してあった同僚の貫田と居酒屋に来ていた。

「刑期終えた犯罪者だけが乗れるエレベーターがあって、それは地下からブラックピラーの展望台まで直通で行けるらしい」

「なんですそれ? そのような物、ある訳ないでしょう」

 ブラックピラーはアイランドで最も高い建物で、電波塔の役割も担っている。北面を除いて全面ソーラーパネルで覆われており、その黒い光沢からブラックと呼ばれるようになった。

「それがあながち否定できない。長い間地下の収容所に居た人が、ずうっと上まで上げられて、いきなり青空の中に放り出されたら、改心しようって思うものだろう? あまりに食らってトリップしちゃう人が解脱して本島に帰ってお坊さんになろうとするのだよ、きっと」

 出所後一年以内にアイランドを離れる人が一割にも上るということが、公共放送から報道されたばかりであった。

「どうですかね」

 と高野はあくまで懐疑的である。

「まあ、そんなことはどうでもいいや。高野、佐久間さんとはその後どうなんだ?」

「どうもないですよ。最近は何も言って来なくなりました」

「急に何も言って来なくなるのは怪しいな。それ大丈夫か?」

「大丈夫だと思いますよ。そんなに気になりますか?」

「それは、先生の馬鹿って言って走って行くのを見たらなあ。それにあそこ少し特殊だろう。ネグレクトだろ」

 貫田は上機嫌にビールを呷る。

「違いますよ。一人親で忙しいだけです」

「忙しいって言ったって。同じサンタイムに働いているのだから、帰れば一緒になれるだろう」

「それが、サンも家を空けているみたいですけど、働いているのはムーンのようで。ああいった水商売はどうもムーンの方が実入りが多いようですよ」

「どうして?」

「やはり、どこか後ろめたいのでしょう。ムーンの方が財布の紐も緩くなるって」

「地下にいてサンもムーンも関係あるかね」

「そこは、まだ人間だってことでしょう。太陽は見えなくても、見られている気がするのですよ、きっと」

 佐久間の母親が水商売で働いているというのは、噂であるが確からしい。どこの店で働いているかまでは高野たちも知らないが、まず水商売の店で地上に構えている物はほとんどない。あるのは高級クラブくらいなもので、そうした所に佐久間の母親が働いている筈もない、という勝手勘定から地下と決め込んでいる。

「高野は引っ越しは考えないのか。そろそろ上がってもいいのではないか?」

「家賃が上がるでしょう? 上はそんなにいいですかね?」

「もちろん。何と言っても朝日がある」

「貫田さんの部屋、北向きでしょう」

「それだって地下よりは明るい。北の窓にも日は射すのだよ」

 貫田の部屋に高野は呼ばれたことがあった。五十八階という高層から交通アクセスはいくらか悪い。間取りも地下より狭く、北部屋であるからそれだけ家賃は抑えられるがそれでも少しばかり高く付く。ただ周囲を囲うビルのカーテンウォールに反射する光が窓から入るため、薄明るさがあるのは確かであった。

 話は放課後の和田との話に変わった。

「今の子たちがそう思うのも仕方ないよな。確かに学力偏重で、そこから漏れれば先が無いというか、先が見えて希望が持てないっていうのは純粋な判断だろう?」

「そうですかねえ。学力だけが絶対ではないと思いますけど。飲食店で働くのに学力はそこまで必要ではないでしょう? ここで働いている人も誇りを持って楽しんでいると思いますけど? それを学力が絶対だと言えば、こうして働いている人たちを、学力社会の落伍者みたいに扱っていることになりませんか?」

「それはそうだろうけど、そこになかなか気が付かないよ。どうしたって今は、教育の機会を均等に与えて、チャンスはみんな平等、才能と努力に見合った成功を手に入れなさい、って言われているように見えるのだよ。そして逆も然り。給与が低かったり、仕事がきつかったりしても、それは努力と才能が足らなかった証拠って見られてしまうからなあ……。時代だなあ」

「僕たちの頃とはずいぶん違いますよね」

「ああ、あの頃はよかった。いよいよアイランドが始まるって言って、日本中が浮足立っていた。就活なんてそっちのけ。最期の日本を楽しめって方々、旅に行ってたなあ」

 そこから本島で過ごした最後の日々について語り尽くし、日付が変わる前に二人は店先で別れた。貫田は地上行きのエレベーターに乗りそこからモノレールで帰ると言った。高野は連結路をふらっかふらっか歩かされてモノレールに乗ると、乗り換えもなく自宅マンションのエントランスに着いた。エレベーターで地下二階に上がり、家に向かおうと右手に進む。そこでひたと足を止めた。

「佐久間さん――」

 生徒に家を教えることはない。

 市民はそれぞれサン、ムーンと割り振られデータで紐付けされている。十八歳以下のサンタイマーがこの時間に出歩いていれば、すぐさま補導されているはずだった。

「あ、高野先生。こんにちは。驚きました?」

 クラスで見ている普段と変わりない様子で挨拶をした。

「どうしてここに? なんで」

「先生、酔っています? 可愛らしいですね」

 立ち止まったまま動けずにいる高野の元へ、佐久間ははっきりとした足取りで一歩一歩近づいて行った。目前で止まり高野の目をじっと見上げて、ふふんと笑う。

「ごめんなさい。そんなに驚くなんて思ってもいなかったわ」

「違う。いや。なんで」

 高野は苦しくなって前髪を鷲掴み、目を伏せた。

「ストーカーって言うのよね。わたしもね、先生。自分でも驚いているの。でも仕方ないの。月曜からマニア値がどんどん大きくなっているの。ルダスも。ストルゲはね、小さくなっちゃった。わたし、やっぱり先生のことが好きでたまらないのよ。先生、わたしが卒業したら、先生のお嫁さんにして。お願い。きっと楽しいわ。子どもを育てて、愛が一杯にしましょうよ、ね」

「そんなの、おかしい。どうかしているよ」

 空気が薄くなったように動悸が激しくなる。徐に佐久間の顔を見ると、普段通り、クラスで見かける笑顔があった。

「おかしいわよね。わかっているわ。わたしのラブチャートは汚れているもの。こんなのもう誰にも見せられない。先生、見る? 見ないわよね」

 高野は黙って頷いた。

「知ってる? アイランドで自殺する子どものほとんどが貧乏なの」

「……やめろよ」

「先生もそんな怖い顔するのね。今日、道徳で言っていたこと、あれって本気? なら、先生は幸せに生きて来たのね。素敵ね。

 自殺はしないわ。でも、気持ちはわかる。意味ないもの。こんな人生。わたしは自殺したいほど、自分がかわいくないだけ」

「そんなこと言うなよ。何かあるなら先生、今度はちゃんと話を聞くから。もっと自分を大事にしてくれ」

 高野は鼻声になって、目をそらさない覚悟で佐久間の目を見つめ返していた。

「自分を大事に。先生って綺麗なことしか言わないわね。もう帰るわ。さよなら」

 佐久間は高野に背を向け歩き出した。エレベーターは反対、高野の背後にある。

「待って」

 その言葉を契機に、途端に佐久間は走った。高野も走って追うが佐久間の方が速い。廊下の突き当り、壁に同化した非常階段扉を引いて佐久間が入って行く。高野が追い付き扉を引くが、佐久間の姿はそこにない。頭上からタンタンタンタンと靴音が響いている。腹を決めて階段に足を踏み出す。既に息は上がっている。高野が一階分を上がり終えようという頃に、上階でガチャリと重たい金属扉が閉まる音がする。

 上がり切って出たそこは、グランドフロアでラグジュアリーなオフィスの並ぶ廊下である。膝に両手つき左右に首を振ると、廊下の先を走る制服が見えた。高野は勤労者たちの間縫って、その影を見失わないようにと走る。先に佐久間が自動ドアを抜けて外へ飛び出し、高野もそのすぐ後を追う。

 そこで烈しい雨音が聴こえた。

 大粒の雨が降りしきっている。

 先を行く佐久間は廂の外。雨に降られて高野を振り返った。

 二人して足が止まっている。

 目が合わさる。

 先に足を動かしたのは高野である。

 それを見て佐久間も逃げるように走り出す。

 一週間前に起きた本島の黒羽高原発緊急停止事故は原子炉内の圧力が制御域を超えて高まったことが原因であった。メルトダウンを決して起こさぬように大量の注水が行われたが、その分水蒸気が建屋内に充満しさらに圧力が上昇する形となり、爆発を防ぐ目的でベントが行われた。つまり、建屋内の水蒸気を外へ放出したのだ。ただちに予備の火力発電所が稼働しアイランドに供給される電力は安定が図られ、アイランド内の放射線濃度が健康被害を齎すような上昇は見られることはなかった。しかし、雨が降ればその雨水が汚染されている可能性が高く、決して外に出ないようにとの勧告が政府発表で為されている。

 佐久間を追う高野は車道を走っている。拡張オーグに大きく[車道です。すぐに退去してください。]と赤字赤枠の半透明な文字が表示され、耳の中でアラートが鳴り響く。車道に並ぶ街灯が二人に合わせて赤く灯り連なって動く。十数年振りに走った高野の肉体は疾うに限界を通り越している。心臓が高鳴り、肺はしきりに空気を求めて躍動し、高野は仰向いてだらしなく口を開けて吸っている。顔に掛かる雨にはお構いなしである。佐久間との距離はどんどん離れていく。佐久間が左へ折れたのを見て左へ入ると、佐久間がすぐ先で右に入って行ったのが辛うじて見て取れた。そこで右に入ると、既に佐久間は見えなくなっていた。大雨の中、絶えず赤字が瞬きアラートが高鳴っている。右を見ても左を見ても見当たらない。先を急ごうと走り出そうとするが、一度立ち止まってしまうと足が言うことを聞かなくなっている。

「先生、こっち」

 声の方で、道路沿いの店の軒下で雨除けをしている佐久間が居た。高野は転ぶようにして歩いて、その小上がりになっている軒下に入ると仰向けに倒れ込んだ。

「先生、足遅いね」

「……、うるさいっ」

 熱気が内より溢れ出て息を上手く継ぐことが出来ないで居る。ふふんと笑う声に続いて佐久間が高野の隣に腰を下ろした。二人が落ち着けた所は高級ブティックブランドのショーウィンドウの前であった。

「わたしが小さい頃にね、ママがラブチャートを見せて来たことがあったの。その時もショックだったけど、今ならもっとはっきりわかる。あの人、わたしのこと全然愛していないのよ」

「……、そう」

 むくりと起き上がり佐久間に並んで胡坐をかく。

「別に珍しい話じゃない。ネットでいくらでも居たわ。中にはね、それは過去のこと、今は何々のおかげで救われたっていう話も見た。でも、だから何? それはわたしのことじゃない」

「うん」

「でしょ? だからね。……。意味ないの。何も」

「終わり?」

「そう」

「もっと聞かせてよ」

「……。さみしい、とかは無かったわ。友達はいつも居たし、どこに居ても一人にはならなかったもの。一人なのは家の中だけ。でも拡張オーグ見て眠ったら、また朝になって友達と会えるから。愛されていないってわかったとき、そういうものなのだろうって納得していたの。愛なんてわからないけど、人それぞれでしょ。でも、いつからかね、小学生くらいのときには、わたしは可哀そうな子なんだってわかったときがあった。その頃は、今考えるとずっと疲れて居たわ。何か気を張っていたのね。でも、今は楽。また、そういうものだって思えているから。……。こんな所かしら」

「もっと」

「……。わたし、卒業したら本島に行く。何年かかるか分からないけど、バイトしてお金ためて」

「危なくないか?」

「大丈夫。和田くんのお兄さんも卒業したら本島に行って山伏になるのですって。だから、わたしが行ったらいろいろ手伝ってくれるって」

 本島は基本的に無政府状態である。発電所周りの小さな集落に対しては統治機構や行政組織が置かれているが、その他の地域には無い。他に知られている所では各地に自衛隊の駐屯地が配置されている程度で、本島の内情については多くのことが一般には知られていない。和田のお兄さんは各地の神社やお寺と懇意にして旅先での宿や食事を融通してもらったり、滞在・登山の許可を得たりしているらしい。

「なんで本島に行きたいの?」

「先生はさ、愛で救われるみたいなこと言っていたでしょ。今日それ聞いて、そうなのかしれない、とは思った。けど、わたしは、愛は窮屈。愛を見せ合って、愛し合って安心して、愛があるからこれで幸せだよねって見つめ合うのは、もう疲れた。もっと無関心で居て欲しい。わたしは、わたし一人でもわたしで居たい。だから本島に行く」

「そうか。いいと思うよ。覚悟は必要だけど、あるのでしょ?」

「ある」

「行ったらもう戻って来ない?」

「多分。死んだと思っていいから」

 子供だと思っていた者の本気の思いに当てられて、高野は思わず声に出して笑ってしまい、「分かったよ」と頷くだけだった。

「先生? 今更だけど、車道を走るのって違法よね? わたしたち捕まったりするのかしら?」

「どうだろう? でも、パトカーで迎えに来てくれるのなら、その方がいいね。こんなずぶ濡れでは中に入れないだろうから」

「あら。ここで脱ぎ棄てて、そこのお店で買ってくれてもいいのよ?」

「馬鹿言え。公務員の安月給舐めるなよ?」

 佐久間がけたけたと笑っていると丁度、赤いランプを回したパトカーが音もなく目の前に止まった。中から下りて来た警官はレインコートをしっかりと着、傘を差していた。顎髭を生やし、年は五十を過ぎて六十にもなっているような、高野よりはいくらか年上であることは間違いなさそうな小太りな男だった。

「お前たち二人だな。全くこんな日にふざけやがって。こっちの身も考えろってんだ。自殺志願なら他所でやってくれ。ったく。おおん? お前、教師か。先生のくせして、何やってんだ、馬鹿野郎」

 と高野の顔を見て驚いている。おそらく彼の拡張オーグが彼に職業情報を公開したのだろう。

「それでいくと、お前はその生徒か。こいつに襲われそうになって逃げたのか? ったく、どうしようもない野郎だな。……。あ、違う。逃げたけど、襲われそうにはなっていない。じゃあ、なんで逃げた。何を笑っているんだ。答えろっ」

 佐久間は腹を抱えて、くっくと笑いながら、

「だって。先生が怒られているのだもの。大人なのに」

 と笑いが止まらない。

「うるさい、濡れ鼠っ。大人だって悪さすれば怒られるんだっ。もういい。話は署で聞く。乗れ」

 濡れ鼠に今度は高野が笑えて来る。二人は二人してお互いを嘲って笑うものだから、笑われることも可笑しくなって笑えて来る。気が狂れたように笑う二人を後ろに乗せて運転席に座るとき、警官が弱気に「こんなの乗せて、俺大丈夫かな」と呟くことだって二人には面白く思えた。

「そうだ、先生。和田くんのことも𠮟ってあげてよ」

「和田くんを?」

「うん。このムーンパス、和田くんに作って貰ったの。和田くん、お兄さんが家を出るって聞いてから荒れているみたいで」

「そう。分かった。教えてくれてありがとう」

 サンタイマーの佐久間がムーン深くなっても警告なく都市を出歩けていたのは、そのムーンパスというバグデータのおかげであるようだった。

 自動運転でやることの無い警官はふんぞり返って、

「ムーンパスか。近頃、流行っているな。最近の若い奴はやることもせこくて敵わない。大人に隠れて反抗して。それの何が面白いんだか」

 すると、佐久間は子どもらしく残酷で無邪気な笑みを浮かべて、

「あら、お巡りさん。表が発達した分だけ裏も発達するのよ。知らなかった?」


























  ――風は知っている――〈完〉































【注釈】

『スケール』には都市の巨大化には次のような問題もある、と書かれていた。都市が巨大化することで、犯罪件数と疾病数も効率的に増加する。つまり、都市人口が二倍になれば、それらは二倍強に増える、ということだ。












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