鏡よ鏡……

羊屋さん

今までのこと

 俺は榎本真琴えのもとまことという。名前のせいで女子に間違われたり、揶揄われることは小さい頃少なくなかった。しかし、今は違う。

 


 俺は、“女性”になりたい。



 俺は所謂性同一性障害の類ではない。あくまで心は“男性”のまま、“女性の身体”に憧れている。


 中高と進むにつれ、いろんな女子を見てきた。そのきらびやかで爽やかな、体毛の少ない、振り向くといい香り─汗さえも─がする状態に憧れを持ち始めた。もちろん女性は美しくあるために体毛や肌のケア、化粧などを努力している。だとしても、身体中にゴリラのように毛が生えた、肩幅のゴツい自分の身体には嫌気が差していた。


 俺は初めての女装をした。仲の良い女子に冗談(のつもり)で制服を借りて、教室で着替えてみせた。もちろん肩はパツパツ、スカートから覗く脚は骨張っていて毛が生えている。

「わー!まことくんがまことちゃんだ!」

その子は笑ってくれた。他のクラスメイトも笑って見てくれている。

「結構似合ってんじゃん」

俺は鏡を覗き短髪の自分を見て、「これはこれでアリだな」と思った。至って真面目に、そう、思った。その気持ちを隠しつつ、制服を脱ぎその子に返し、作り笑いでお礼を言った。



 初めての女装(とも言い切れないが)を終えて帰宅した後、早めにシャワーを浴びることにした。自分の身体を見返してみるためだ。服を脱ぎ、見下ろすと陰茎と陰嚢が付いている。「これを捨てたいわけじゃないんだよな」俺は独り言ちた。シャワーを浴びながら自分の身体に触れていると、ゴツゴツした関節や体毛が普段より気になってしまった。

「まことーっ!いつまでお風呂入ってんの!?」

母親の声で我に返り、俺はさっさと洗い済ませて風呂場を出た。


 部屋に戻り通販サイトを眺めた。もちろん女性向けのものだ。何なら着られるんだろう。インターネットでいろいろ調べてみると大きめのワンピースは体格のゴツさが隠せるし良いらしい。俺はLサイズの小花柄のワンピースを注文した。


 数日後、そのワンピースが届き、実物を見て安心した。これなら俺でも着られそうだ。姿見の前でそれを着てみる。ふんわりとしたシルエット、しかし除く脚にはすね毛。俺は髭用の剃刀を手に取り、クリームを塗りつつ剃ってみた。もう一度鏡を見る。俺の髪型はペタンとした丸顔におかっぱをかなり梳いたようなものだ。ややボーイッシュな女子に見えなくもない。高鳴る胸の鼓動を感じた。



 数年後、俺は高校を卒業し、ニューハーフバーで働いていた。両親にはやりたいことがあって、上京すると伝えていた。仕事終わりに先輩と2人きりの時、声を掛けられる。

「ねぇ、純ちゃん(俺の源氏名は井上純いのうえじゅんという)、女ホル打ってみる気ない?」

俺は驚いた。突然そんな突っ込んだ話をされるとは思いもしなかったからだ。

「えっと私はぁ……」

仕事の時は一人称が私のため癖になっている。

「私の肌とか、肉のつき方わかる?これ全部ホルモンのおかげなんだよねぇ」

その話は初めて聞いた。もちろん、女ホルを打つ男性の話は聞いたことがある。だが、まだ覚悟ができていなかった。体調も悪くなると聞いたし、それに、男の象徴とも言える性器の萎縮が起きるらしいからだ。

「純ちゃんはね、本気で女体に憧れてるような、そんな感じがするんだよね、だから思い切って言ってみた」

先輩の言葉は衝撃だった。その気持ち、感じ取られていたのか。

「だからさ、クリニック紹介するからよかったらカウセだけでも行ってみたら」

「……わかりました、行ってみます。教えてください」



 数日後、俺はフルメイクでウィッグをつけ、ワンピースにヒール姿でとあるクリニックの待合室にいた。なぜ女性側の格好で来たかというと、“女性化の意思があるか”医師に判断される要素となるらしいからだ。仕事以外で女姿をすることは今までほとんどなかったので、落ち着かない様子であっただろう。

「6番の方ー、どうぞ、診察室にお越しください」

受付の声に相当びっくりしてしまい身体が震えた。


 「こんにちは、榎本さん、女性ホルモン注射のご相談ということですが……」医師はルーティンであろう質問をする。俺は正直に答えた。

「まだ、覚悟はできていないんです。副作用や、特に性器の萎縮とか……」

「じゃあ女性化は、したいんですか?」

「あの、えっと……私は女性の身体にとても憧れていて……」

「なるほど、そういう方は多くいらっしゃいますよ。医師の私としては、同意書にサインをしてくだされば今日から注射することもできます」

思った以上に話が軽くとんとん拍子で進んでいる気がして、頭がクラクラしてきた。

「……ごめんなさい、まだやっぱり覚悟が……」

「じゃあ今日はやめておきます?」

いや、この機会を逃したら延々とずるずる引きずってしまう気がする。

「いえ、やっぱり、お願いします」

「……わかりました。では同意書の読み合わせと料金の説明をしますね。一度受付のほうが対応しますのでカウンセリングは一旦終了致します」

俺は診察室を出た。心拍数が120以上に高まっている。

 受付の方が別室に案内してくれた。注射の主な効果と方法、頻度、副作用、これは自費診療となるため料金は注射一回につき数千円であること、そして、肝心な“女性化の意思があるか”のチェック欄が同意書の最後にあった。

「何かご質問等はございますか?」

そんなことありすぎて逆に何も思いつかない。

「いえ……特にありません」

 俺は震える手でチェック欄を埋めていき、最後のチェック欄にも印を入れた。そして、署名欄にサインをした。榎本真琴。と。

「ありがとうございます。控えをお持ちしますので少々お待ちくださいね」

受付の人は退室した。数分で戻ってきて、割印のされた2枚の同意書のうち1枚が手渡された。

「では、施術の順番待ちになりますので一旦待合室にお戻りください」


 俺はフーッと息を整えた。これで後戻りはできない。間違っていなかっただろうか、俺の選択は。いやいや、こんなこと今更考えても仕方がない。流れに身を任せよう……。


 「6番の方ー、お待たせしました。診察室3番へどうぞ」

俺は立ち上がり、猫背で診察室に向かった。扉を開けると、さっきのカウンセリングをしてくれた医師がいる。

「さて、これから注射を1本打ちますが、気持ちにお変わりはないですか」

「……はい、よろしくお願いします」

「はい、では……」

物品の準備を始めた医師に慌てて声を掛ける。

「私は本当に女性の身体に憧れていて……!でもこの機会を逃したら一生勇気が出ないんじゃないかって……本当によろしくお願いします」

ハハハ、と医師は笑った。その笑いの意味がわからず俺は首を傾げた。

「いえ、そんなに張り切らなくてもいいですよ、何度か打つうちに段々と女性化していくものですから。焦らず、ゆっくりやっていきましょう」

「はい……よろしくお願いします」

俺は多少赤面しながら左腕の袖を捲る。そして、筋肉注射を受けた。


 ついにやってしまった。身体にはどんな変化が現れるのだろうか。効果の出方は人それぞれだと医師も受付の方も言っていた。胸が張ったような感覚がしたり、筋力低下だったり、何度か打つうちに性器が萎縮したり。

「ありがとうございます。これで私も女性の身体に近づけます」

「いえいえ、次の注射の目安は2週間後ですかね、体調の変化に気をつけてお過ごしくださいね。ではこれで終了です。受付のほうに次の予約を取ってもらって、後はお帰りいただいて結構ですよ」

「はい、ありがとうございました。また、よろしくお願い致します」

俺は頭を下げた。医師はまたハハハ、と笑った。

「まぁ長い付き合いになると思いますからね、気持ちが変わらない限り、お互いフランクにやっていきましょう」

「はい!」



 注射から1週間後、効果はまだ全然感じられない。間違えて水でも打たれたんじゃないかと思うくらい。俺は変化があったときわかるように、顔や肉付きの写真を残しておこうと思った。姿見の前で全裸になり、写真を残した。まだまだ、男の身体である。写真に1回目注射7日後、とメモを残した。アドバイスをくれた先輩にはまだホルモン注射をしたことを話していない。むしろ、なんと言ったら良いかわからない。


 来たる日曜日、予約日なので俺はクリニックに向かった。今日は暑いので半袖ワンピースに帽子とサングラスである。前回より緊張のほぐれた俺は汗を拭きながら受付を済ませ、待合室にいた。

「3番の方ー、診察室2番へどうぞ」

以前よりは覚悟は決まっているのでスタスタと診察室へ歩いていった。


 「こんにちは。2週間ぶりですが、体調不良などはなかったですか?」

「はい、特に何も。むしろ何も起こらなくてびっくりしたくらいです」

ハハハ、いつもの笑顔を医師はしていた。

「2回目となると、次が1ヶ月後になるんですね。段々と効果が現れてくると思いますよ。大体1ヶ月後くらいから変化を感じた方は多いです」

 俺の、女性の身体への憧れはたくさんあるが、いちばんは胸だった。

「胸は……どのくらいから膨らんでくるんでしょうか」

「それも個人差が大きいですが、続けていくうちに徐々に女性化乳房が現れてきます。何か他に質問はありますか?なければ、そしてお気持ちの変化がありませんでしたら2回目の注射をします」

「はい、大丈夫です。よろしくお願いします」

俺は右腕の袖を捲り、2度目の注射を受けた。そして帰宅後、ルーティンで全身の写真を撮った。次の予約も2週間後。どんな変化が現れるのか、なんだか楽しみになってきた。



 その調子で注射を続けていた俺は、半年を超える頃、ついにフルメイクウィッグ付きだが男性にナンパされることが増えてきた。疎ましく感じた時は、低い声で「俺は男だ!」と撃退してきた。このように女装でも女性と認識される度合いのことはパス度と呼ばれる。

「次はどうやってパス度上げていこうかなぁ」

俺は髪型を変えることを思いついた。今はウィッグ付きだが男性にも女性にもアレンジできる髪型なんてあるんだろうか。地毛は肩より少し長いくらい。ひとまず美容室に電話をかけてみよう、思い立ったらすぐ行動だ。住んでいる近辺の美容室に電話をかけまくった。

「中性的な髪型にしたいんですけれど……」

何件目かの電話で店員さんが訊ねてきた。

「もしかして、失礼でしたらすみません、女装、いや、MtFの方ですか?そうでしたら得意なスタッフがいますのでご相談だけでも来ていただくのはどうかなと」

俺はドキッとした。そして、即答した。

「そうなんです!是非お願いします!」

予約を取り、スケジュールアプリに“美容室”と入力した。


 美容室当日、俺はフルメイクにウィッグなしでワンピースを着て出かけた。喫煙所でマスクを外すと、チラチラと視線を感じる。女装とわかられると周囲の目が変わるのだ。俺は紫煙を燻らせながら全く気にしていないふりをした。

「11時予約の榎本です」

「はい、榎本様ですね。担当のスタッフが来るまで後ろの椅子でお待ちください」

数分経って爽やかな見た目の男性スタッフが目の前に立った。

「初めまして榎本様、今日担当する小林です。ご案内致しますね」

施術椅子に座らされる。会話内容に配慮してか、店内の一番奥の席だった。

「さて、今回の髪型、僕もいくつか選択肢を絞っていたんですが……この辺とかどうでしょう?」

ヘアカタログを見せられる。ショートボブのカテゴリのページだ。ひとつの写真に目が止まった。前髪がセンターパートで横髪はやや顔にかかるくらい、毛先は顎先くらいの長さ。

「これがすごく気になるんですが……」

「あぁ!良いですね。これはセットも楽ちんだと思いますし、性別のスイッチもおそらくしやすいです」

「じゃあこんな感じでお願いします!」

「ではシャンプー台にご案内しますね」


 シャンプーを終えて髪がタオルでまとめられた自分の顔面は、エラが張っておりいかにも女装をしていますというような見た目だった。これがどう変わっていくんだろう。まず毛先から揃えられていく。あらかた切り終えるとドライヤーをかけられる。

「細かい部分を整えますからね」

髪のブロッキングのためのクリップだらけの自分の頭は、全貌が全くわからない。

「そしたら、整髪料をつける前にまたシャンプー、トリートメントしますね」


 またタオルに巻かれた自分の頭を見た。それが外され、ドライヤーをかけられてブローされていく。すると……俺は感動した。これは、とても女っぽい。軽く内巻きにされた横髪が輪郭のエラを隠し、優しい雰囲気に、分けられた前髪はふんわりとブローされて額のゴツさと目尻のキツさを隠している。

「女性側の時はこんな感じですかね、男性側のときはこのまま横の髪を耳にしっかりと掛けてください」

「あ、ありがとうございますっ!!私、いや俺感動してて……」

ふふ、と小林さんは笑う。

「そんなに喜んでいただけて僕も嬉しいです。ただ、初めはブローとか難しいと思うので何かあればまた僕がいる時に来てくださいね、他に気になるところあります?」

「いえっ!大丈夫です!」

早くこの姿で外を歩きたい、そんな気持ちだった。


 美容室を出た俺が初めに向かったのは喫煙所だった。マスクを外し、紫煙を燻らす。美容室に行く前とは違う、周囲の視線を感じない。つまり、“パス度が上がった”。俺は感動しつつたばこを吸い終え、ポケットにしまい立ち去った。


 

 女性ホルモンを打ち始めて数年が経った。髪型は美容室で初めて整えてもらったボブのままだ。胸はCカップくらいまで膨らみ、肉付きもだいぶふんわりと女らしくなった。肌はケアのおかげかもしれないが白くきめ細かくなり、ガッツリフルメイクではなく薄塗りのメイクでもパス度はだいぶ高くなった。トイレも女性用を使う。しかし、心は男性のままだ。女性に対する性欲がないわけではない。俺は自身の事情を知る、知り合いのソープ嬢に連絡をし、予約を取った。

 

 ソープでの出来事はとても単純なものだった。マットプレイで女体をぬるぬると擦り付けてもらい、萎縮して小さくなった陰茎を弄ってもらい、何度か絶頂した。しかし射精はしない、いや、できなかった。そしてこの女体が欲しいと心の底から思いながら帰宅した。


 「アッハッハ!!私ねぇ!もうキンタマ5mmくらいしかないからねぇ!出るもんも出ないのよ!」働いているバーではお客様に軽口で笑い話にする。その時の自分も本物である。自分の人生の切り売りは嫌いではなかった。生き方自体がコンテンツになるなら、他人の笑顔に繋がるなら、そんな簡単なことはない、そう感じてはいた。



 ふと鏡を見ながら思う。俺は、私は、榎本真琴であり、井上純だ。もう男性には戻れない。女性にもなりきれない。この複雑な感情、悩みや苦しみ、葛藤に近いものを抱えながら、これからも生きていくのだろう。あぁ、俺は、私は、誰なんだろう──。

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鏡よ鏡…… 羊屋さん @manii642

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