ミャクミャク様

亜済公

ミャクミャク様

「ミャクミャク様」の始まりは古く、一九四二年に高知で発見された古事記の異本や、播磨風土記の記述を最古とする。類似の伝承は北海道を除く全国各地に点在し、明治の初め頃までは生活に密着した形で語られていた。近代化の中で急速に存在感を失っていき、現在では書物の中に姿をとどめるばかりである。


多くの伝承に共通した特徴としては、次のようなものが挙げられる。水神の一種で、青い体に赤い口を持つとされ、人の姿に変化する。基本的には恩恵をもたらすものであるが、北陸地方の一部では「ミャクミャク様の祟りによって村中の女が病死した」と伝わっている。


「ミャクミャク」という言葉の起源にはいくつかの異説が存在する。「都(みやこ)」や「脈(みゃく)」といった漢字一文字を連ねる説や、「未厄(みやく)」を重ねることで厄を避けるまじないであったとする説、また「三厄(みやく)」の字をあて、大黒仏母のまじないに由来し、災厄を呼ぶ文言とする説。やや複雑なものだと、天下りした近衛兵を示す「都御奴(みやこみやっこ)」や、女の淫魔を指す「都女奴(みやこめやっこ)」など、さまざまである。


「ミャクミャク様」に関連した研究は、第二次世界大戦後の日本民俗学会で、一時期にわかに注目を集めた。敗戦によって「日本」という神話を喪失した当時の日本人にとり、近代化を境に消滅した「ミャクミャク様」の存在は、失われた「純粋な日本文化」を見出す対象として、好都合であったといえる。


このような中で、澤田孝明を中心とする国粋的な日本民俗学者の一派は、それまで存在を指摘されるにとどまっていた「ミャクミャク様」を、各文献から収集しまとめることに成功したと主張する。こうして生まれたのが、澤田による『ミャクミャクの研究』と題された五〇〇ページにわたる論文である。これをきっかけに、多くの研究者が関連する古文書を発見、報告し、学会における流行を生んだ。最盛期には、年間に発表される民俗学論文の四割が「ミャクミャク様」に関するものだったという試算もある。


しかしながら、一九七〇年代初頭になって、『ミャクミャクの研究』に引用された文献の中に多くの偽書や架空の書物が指摘される。のちに出版された澤田の手記は、彼自身を含め多くの「ミャクミャク様」研究者が、学術的な興味よりもナショナリズムに似た政治的理念を優先していたと告白した。この事件は「ミャクミャク様」研究にとどまらず、学術会全体に波紋を広げた。日本において、学問の政治利用が問題視されるようになったのは、この時期からとされている。


こうした事件を経て、土台となる論文や派閥が解体されたことにより、「ミャクミャク様」に関連した研究は、現在ほとんど行われていない。澤田孝明が在籍した國學園大学には、今なお多くの資料が保存されてはいるものの、事件のいざこざで散逸したものは少なくない。澤田は二〇〇八年に、『私の行いが、一つの学問分野の可能性を、失わせてしまったかもしれないということは、大変申し訳なく、残念であり、許されないことであると思っています』と北陸新聞の取材に回答している。



————参考文献————


「脈々」説 https://twitter.com/amapichannel/status/1549374016162758657?s=21&t=paHy6Kisbb0zkrtgO1icPg


「都々」説 https://twitter.com/amapichannel/status/1549363848855302144?s=21&t=paHy6Kisbb0zkrtgO1icPg


「未厄未厄」「三厄三厄」説 https://twitter.com/hakoiribox/status/1549266206636797954?s=21&t=paHy6Kisbb0zkrtgO1icPg


「都女奴(みやこめやっこ)」「都御奴(みやこみやっこ)」説  https://twitter.com/cicada3301_kig/status/1549367843330084866?s=21&t=paHy6Kisbb0zkrtgO1icPg

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