鉄条網と、僕らの幸福と、あとグヤーシュ

白里りこ

境界



「おい、来たぞ」

 上官が僕に声をかけて、番号の書かれたメモを差し出した。僕は物憂げに、手にした地図ともらった番号とを照合した。

「……どうせまた誤作動ですよ。それか鳥や獣」

「だが確認しない訳にはいかん。行ってこい」

「了解……」

 僕は重い腰を上げて立ち上がる。仲間の元に歩いていってメモを見せた。

「信号があったそうだ。行くぞ」

 人手が惜しいので同僚を一人だけ連れて現地へ向かうことにする。車に乗り込んでエンジンをかけた。運転席の脇には、念のための警棒が二本置いてある。

 僕がアクセルを踏むと、車はブロロンといささか不安になる音を立てて発進した。小さな町の道を出るとすぐに、手付かずの草原が広がった。

 こうして車を出すのも何度目だろう。

 信号の発された地点に近づくと、僕はハンドルを切って道を外れ、草原に出た。ボコボコした地面を行く。乗り心地は決して良いとは言えない。全く、こんな思いをしてまで行ったところで、どうせ空振りに終わるのは分かりきっているというのに。

 程なくして、緑一色だった進行方向に、鉄条網が見え始めた。僕は車を停めた。二人して警棒を手に、草原に降り立つ。辺りを見回した後、草を踏みしめててくてく進み、電流の流れる鉄条網にそっと近づいた。柵に記された番号を確認する。

「ここで間違いないな」

「ああ」

 先程の信号は、ここの鉄条網に触れたものがいるという知らせだった。だが周辺に人はおらず、獣が驚いて逃げ出した形跡もない。

「やっぱり誤作動か」

 僕らは溜息をついて顔を見合わせ、とっとと引き返した。

 この鉄条網も作られてから数十年は経過しているはずだ。いい加減ガタが来ている。新しいのに取り替えてもらいたいところだが、生憎このハンガリーにそんな金はないだろう。東欧にて鉄条網をいち早く設置したのは他でもないハンガリーなのだが……。

 僕はこの国の国境警備隊として働いていて、その給金で生活している。元々はブダペストに住んでいたのだが、訳あって一昨年、オーストリアと隣接するこの西の田舎町の外れに転勤してきた。

 ハンガリーとオーストリアは元々は一つの国だったこともあるのだが、冷戦が始まって「鉄のカーテン」が降りてからは、両国間の通行は少し困難になっている。共産圏で東側であるハンガリーから、資本主義陣営で西側であるオーストリアへと亡命したがる人間は後を絶たないが、この鉄条網は一応は彼らを阻む大きな壁となっている次第だ。

 僕らは車の元まで戻ってきて、来た道を戻り始めた。


 交代の時間になったので、僕は駐屯所を出て、夕暮れの町を徒歩で家に帰った。職場に程近い町外れのボロアパートが、僕に与えられた住居だった。時折隙間風の入るようなこの狭い部屋で、僕は一人暮らしをしている。

 ブダペストにいた時は、もう少し楽しかった。

 親を早くに亡くして、歳の離れた異母姉と二人暮らしだった。姉は印刷工場に勤めていて僕のことを養ってくれていた。姉は働き者で、いつも帰りが遅かった。そんな姉のもとですくすくと成長した僕は、兵役を終えて、そのまま国境警備隊員として働くことになった。長らく僕の面倒を見てくれた姉のために、安定した地位を手に入れたかったのだ。

 当初は僕の希望が通って、ブダペスト市内での勤務が可能だった。ブダペストは国境付近の町ではないけれど、首都として国際的な玄関口になっているし、多くの人が行き交っている。中には亡命希望者も混じっているという訳だ。

 僕は非番の日に家に帰って、姉と二人で、ハンガリーの伝統的な家庭料理グヤーシュを作って食べるのが好きだった。牛肉とパプリカを大きめに切って煮込むのが姉のやり方だった。もちろん材料は安物で、肉はボソボソしていたし、スープの味もやや薄かったけれど、僕はそれで満足だった。

 姉はグヤーシュの鍋をかき混ぜながら何を思っていたのだろうか。姉は非常に模範的な労働者であるように、僕の目には映っていた。僕の記憶の中には優しくて真面目な姉の姿しか無い。いつも無口で、政府への愚痴だってほとんど聞いたことがないし、僕が国境警備の仕事を始める時も応援してくれていた。「あなたが立派になってくれて私も一安心だわ」。そう褒めてくれたのを覚えている。

 だから僕は、姉がよく一人で教会に行って違法な冊子を作っていることも知らなかったし、印刷工場の流通網を利用してその冊子を広めていることも知らなかったし、その活動を通じて出会った西側の男と交際していることも知らなかったし、その恋人を追ってオーストリアに亡命しようとしていたことも知らなかった。僕をハンガリーに置き去りにしようとしていたことも。

 その日は姉が休暇を利用して息抜きにウィーンに旅行すると言っていた日だった。ハンガリーの共産主義体制は「グヤーシュ共産主義」とも呼ばれていて、比較的緩いのが特徴だ。国境越えに関しても、旅行の自由までは認められていたから、西側への旅行は別段珍しいことではなかった。むしろウィーンは人気の旅行先だった。西側の都市はとにかく豊かで華やかなのだ。だから僕はただ、しばらくの間は寂しくなるなあと思っていただけだった。ところが仕事終わりに僕は上官に呼び出され、突如として、姉が投獄されたことを知った。姉はパスポートを持っていたにもかかわらず、検問所を通ることができずに捕まった。姉が旅行を装って亡命して移住することを目指していたのがばれたのだ。僕は姉に真意を問いたかったが、もう直接会わせてもらえることはなかった。警察に仔細を尋ねても、「お前が知る必要はない」の一点張り。そのくせ姉に怪しい言動が無かったかどうかをしつこく聞かれた。

 ほうほうのていで職場に復帰すると、僕を取り巻く雰囲気は一変していた。たった一人の家族がよりにもよって「鉄のカーテン」を越えようとしたということで、国境警備隊としての僕の立場は悪くなったのだ。数日後、僕は田舎への異動を命じられた。異動先がオーストリアに隣接する町というのは皮肉なことだった。

 一連の事件による衝撃が冷めた頃、僕の胸に湧き上がってきたのは、悲嘆だった。

 姉が国を裏切ったからではない。姉にとって僕は重荷でしかなかったことが分かったからだ。

 正直、ハンガリー人民共和国への忠誠心はさほど無い。高い意識を持って国境警備隊に入った訳でもない。僕は姉に恩返しするつもりで、より待遇の良い職に就いただけだ。姉には、僕を育てて苦労した分、幸せになって欲しかった。

 でも、姉の選ぼうとした幸せの中に、僕はいなかった。それがどうしようもなく寂しかった。

「あなたが立派になってくれて私も一安心だわ」

 かつての言葉が違う意味を帯びて蘇る。僕が手のかからない存在になったことで、姉は僕に縛られることなく、自分の人生を生きられるようになった。好きな人と自由に生きる道を選べるようになった。あれはそういう意味だったのに違いない。

 どうせなら、と今では思う。姉の亡命が成功して欲しかった。たとえそこに僕がいなかったとしても、姉には幸せを手に入れて欲しかった。望みを叶えて欲しかった。そうすれば僕も少しは心が慰められただろう。もちろんつらいけれど、姉が幸福になれるのなら、僕は何だって我慢できたのだ。本当に、何だって。でも現実はそうではない。後に残ったのは、僕の悲しみと、姉の不幸せだけ。全くもって救いようのない話だ。

 そんな思いを抱えながら、僕は毎日、亡命者を取り締まる仕事を続けている。今更辞めるなどとは言えない。そんなことを言えば僕まで疑われてしまい、不幸の中にある姉をもっと悲しませることになるだろう。


 翌日は非番だった。僕は家のソファでだらだらしていた。

 もう、しばらくグヤーシュは作っていない。食事は大抵、パサパサのパンに安っぽいチーズを乗せて食べるだけで済ませている。一人暮らしになってからというもの、ありとあらゆることが億劫になってしまっていた。

 友達も多くないし、恋人もいない。周囲の人はみんな、左遷されてきた余所者の僕のことを警戒しているから、一向に交流が深まらない。素性が知れない者とは迂闊に仲良くなれないのは常識である。いくらグヤーシュ共産主義と言えど、いつ誰に密告されるか分からないのは他国と同じだ。

 尤も、そんな殺伐とした雰囲気も、今年になってからは薄れ始めているように感じるが……。僕はのろのろと立ち上がって、コーヒーを淹れた。ブダペストにある西欧風のカフェで飲んだ洒落たコーヒーが懐かしい。この町は何もかも灰色で沈み込んでいるようだから、気分も沈む。僕はカップの黒い液体を口に含み、何とはなしに古いテレビをつけた。

「……ん?」

 何故か画面には、見慣れた草地の中の鉄条網の風景が放映されていた。そこには国境警備隊のメンバーが何か道具を持って集まっていた。彼らは鉄条網に接近し、何と、パチンパチンとそれを切り離して、国境を解放してしまった。

「は?」

 僕は驚愕のあまり大きな声を出していた。

 何が起こったのか、理解が追いつかない。

 まさか……彼らは鉄のカーテンに穴を空けているのか? あの、昨日まで僕らをさんざん悩ませていた、冷戦の象徴のような絶対的な壁を……取り払っているだと?

 どういうことなんだ。そんなことが本当に許されるのか。僕は食い入るようにテレビを見つめた。

 画面は切り替わり、今度はハンガリーの新しい首相のネーメトが映し出された。ネーメト首相は、財政上の理由から、ハンガリー・オーストリア間の一部の鉄条網の撤去を決定した、と発表していた。

「嘘だろ……」

 ネーメトは改革派の政治家だ。彼が登用されたこと自体、異例の人事である。例えば今年の初頭にネーメトは、ハンガリー社会主義労働者党以外の党の結成を認め、続いてハンガリー社会主義労働者党の指導性をも放棄した。要するに、共産主義の一党独裁を取りやめる方向で、着々と民主化を進行しているのである。

 だからといって、鉄条網を撤去するなんて、いくらなんでも大胆すぎる。ハンガリーの独断でそんなことをやっていいのか。ソ連や他の東欧諸国が黙っているとは思えない……。

 しばらくすると画面にはソ連の最高指導者ゴルバチョフの姿が映し出された。アナウンサーは彼の新しい政策についてしきりに報道している。こちらは今のところ鉄のカーテンに言及が無い。ということは、ソ連はこの事態を看過するつもりか。

 こんなにあっさりと鉄条網がなくなってしまうなんて、信じられない。

 確かに、と僕は思う。あの忌々しいポンコツの鉄条網には振り回されてばかりだった。整備費や電気代が財政を圧迫していたというネーメトの言い分も頷ける。現に僕だって、あの鉄条網の維持への限界を直に感じていた。

 だが「財政上の理由」というのは、半ば真実で半ば建前だろう。ハンガリーはその歴史的背景からしても、西欧社会に回帰したいという思いが強いし、オーストリアとの心理的距離も近い。加えてゴルバチョフの新しい政策「ペレストロイカ」からも分かるように、共産主義体制からの転換も各国で進んでいる。

 そしていよいよ、ほんの一部とはいえ、鉄条網がなくなった……。

「姉さん……」

 僕は呆然として呟いた。

 姉がこのニュースを聞いたらどう思うだろう。

 姉の計画が見つかるのがもう二年遅ければ……姉の亡命が成功する確率はぐんと上がったのに。


 勤務日になった。僕の担当区域の鉄条網は綺麗さっぱり撤去されていた。様子を見について来いと上官に言われて車を出したら、国境地帯は無防備なただの野っ原と化していた。

「はあ……」

 つい先日まで誤作動によって撹乱されていたのが嘘のようだ。あれほど煩わしかった無駄な任務は、実にあっけなく消滅してしまった。拍子抜けだ。

「国境警備隊の任務も減るのでしょうか。越境者は見逃すのですか?」

 僕は尋ねたが、上官は渋い顔をした。

「我々に与えられた任務は変わっていない。許可なく越境する者は見つけ次第取り締まれとのことだ」

「……これだけ広範囲に渡って鉄条網がなくなってしまっては、越境者を見つけられない例も出てくると思うのですが」

「だから言ったろう。見つけ次第だとな。そして警備の強化も特に命令されていない。そういうことだ」

 見つからない限りは亡命し放題という訳か。僕は改めて姉を思って沈んだ気持ちになった。

「どうした」

「いえ、何でもありません」

「難しいことは考えるな。我々のやることはさして変わらん。目の前の仕事を淡々とこなすだけだ」

「そうですね」

 僕らは、見回りがてら周囲を一通り走ってから、駐屯所に帰った。

 あとは、通報がない限り出動することはないだろう。そして通報なんて誰も積極的にやらないことなど明白だ。余った時間で、僕は仲間と共に筋肉トレーニングを始めた。無言でバーベルを持ち上げながら、考えるのはやはり姉のことだ。

 我ながら姉離れできていないと感じる。だが多大な恩のある相手なのだから、致し方あるまい。

 姉にとって僕とは何だったのだろうか。異母弟として慈しんでくれていたように見えたのは全て演技だったのだろうか。どうせ切り捨てるならいっそ冷たく接してくれれば良かったのに。それならこんなに胸は痛まなかったのに。こんなに心配することも無かったのに。

 姉は無事だろうか。拷問など受けていないだろうか。食事はちゃんと与えられているだろうか。他の服役者からいじめられていないだろうか。きつい労働をさせられていないだろうか。きちんと眠れているだろうか。心を病んではいないだろうか。


 その後もハンガリーでは民主化運動が活発に行われ、国内は改革の気運に満ち満ちていた。その勢いは東欧の中でも突出していた。だが僕の仕事はあまり変わらない。一日に数回の国境警備と、トレーニングと。

 変化があったのは三ヶ月後だった。政府は言い方をぼかしてはいたが、有り体に言うと、国境警備隊はもう越境者を厳しく取り締まる必要は無いという旨の通達があった。

 何があったかをもう少し詳しく述べると、先日「汎ヨーロッパ・ピクニック」なるイベントが開催されて、そこで一時的にハンガリー・オーストリア間の国境を開放したのをきっかけに、雪崩式に国境の全面解放が決定されたのだ。こんなことはもちろん東欧の中でハンガリーだけだった。そして、越境者はぐんと増えた。中には、ハンガリーに逃げ込んでいた東ドイツの難民も大勢いた。

 「鉄のカーテン」は、もはや無いも同然だった。

 だが一応、僕たちは仕事をする必要があった。一度、パトロールに出かけたついでに、僕は車から降りて、かつて鉄条網のあった場所に立ち、つま先をちょっとオーストリア側に踏み入れてみた。

 大地の感触はハンガリーのそれと何ら変わりは無かった。本当に何の変哲もない草地だ。不思議な気分だった。これまで厳重に侵入が禁じられていた地を、姉が行くことが叶わなかった夢の地を、こうしてすんなりと踏むことができる。僕は束の間、目を瞑って感傷的な気分に浸った。

「おい」

 同僚が僕をたしなめた。僕は肩を竦め、すぐに足を引っ込めた。

「つい前までは、こんなことをしたら銃殺されてもおかしくなかったのにな」

 僕は言った。同僚は何とも言えぬ顔つきをして、「戻るぞ」と踵を返した。


 更に二月後、僕は休日に、列車でブダペストまで行くことになった。

 以前懐かしいと思っていた、豪奢な内観のカフェに入る。席に座ってからほどなくして、簡素な服装の背の高い女性が現れた。僕はガタッと立ち上がった。

「姉さん」

「ヤーノシュ」

 姉は僕の元に小走りで寄ってきて、優しく僕を抱擁した。そしてすぐに手を離すと、座席についた。二人で店員にエスプレッソを注文した後は、姉は黙り込んで俯いてしまった。

 しばらく沈黙が降りた。僕は姉にどう接すればいいか測りかねていた。

 ハンガリーでは東欧の中でも突出して民主化が進行しつつある。最近、ハンガリーでは遂に移住の自由が認められた。ハンガリー人は、旅行だけでなく、移住を目的に、オーストリアをはじめとする西側諸国へと行けるようになった。

 その後すぐに、僕は、一通の手紙をもらった。内容は、姉が釈放されたというものだった。

 手紙を読んだ時、僕は心臓が飛び跳ねんばかりに驚き、歓喜のあまりベッドに引っくり返ってゴロゴロと暴れ回ったものだが……いざ姉に会うと、何と言ったらいいのか分からなかった。

「……元気そうで何よりだよ」

 とりあえずそう言った。姉は無言で頷いてから、顔を上げないまま平坦な声で呟いた。

「あなたは……少し痩せたわね」

「そうかも。……姉さん、生活はどうなの」

「貯金で家賃を払っているところ」

「そっか。……恋人とは連絡は取れた?」

 姉は顔を上げた。

「あなた、私を恨んではいないの?」

「え?」

「あなたには何もかも秘密で、恋人と二人で西へ逃げようとしたこと、……怒ってないの?」

「別に……」

 僕はゆっくりと答えた。

「怒ってはいないかな。家族の間の隠し事なんてこの国じゃ……というか、共産圏じゃ当たり前だし。そりゃ、置いていかれそうになってちょっと悲しかったけど、姉さんがやりたいことなら僕は応援するよ」

「……本当に?」

「うん」

 頷くと、姉は唇を引き結んで、また俯いてしまった。

「……それで、どうするの。移住の自由は認められたし、姉さんはオーストリアに……恋人の元に行けるけど」

 姉は僕の質問に直接答えることはしなかった。代わりに、訥々と語り出した。

「あなたに何もかも黙っていたのは……あなたを守りたかったから。何も知らないでいた方が、あなたは、当局からの追及を躱せると思って。それにあなたはハンガリーで当局側の人間として立派に地位を築きたがっているようだったから、余計に言い出せなかったの」

 それで、僕の前でさえ無口を貫いていたのか、と僕は意外な気持ちだった。てっきり僕のことを密告者として警戒していたのかと思っていたが、その限りではなかったらしい。……ちょっと安心した。

 姉は話を続けた。

「国境警備隊になるくらいだもの、あなたは真面目な労働者なんだと思ったわ。だから、私のことは軽蔑されても仕方がないと思っていた。でも、あなたを悲しませることになることまでは思い至らなかった。今思えば凄く馬鹿なことをしたわ。あの時は必死すぎたのね……。ごめんなさい」

 僕は話を聞きながら後悔の念に苛まれていた。僕たちの間には圧倒的に対話が足りなかった。重苦しい共産主義の空気の中では、たとえ親密な家族であっても腹を割って話をすることはできなかった。僕たちは同じ家に住んでいながら、政治的な話をついぞすることは無かった。その結果がこれだ。

 せめて、僕の思いだけでも、伝えていれば良かったのに。

 だが、今は違う。鉄条網が無くなり、民主的改革の波が押し寄せている今なら、心の内を明かすことができる。

「姉さん」

 僕は切り出した。

「僕が国境警備隊に入ったのは、姉さんに孝行するためだったんだ。僕の世話ばかりで苦労してきた姉さんを楽させようと思ったからなんだよ。今だから言えるけど、僕はハンガリー人民共和国の体面なんてどうでもいい。国境のことだってどうでもいい。姉さんが幸せだったらそれでいいんだ。だから僕は姉さんの夢を応援するよ。姉さんがオーストリアに行きたいなら、是非とも行って欲しい」

 そう言ってから、小さく付け加えた。

「……欲を言えば、たまには僕に手紙を書いたりして欲しいけどね」

 姉はやや潤んだ黒い目で僕を見た。

「あなたって本当に良い子ね」

「そうかな」

「私には勿体無いくらいの優しい弟よ。……そんなに卑屈にならないで。私は変わらずあなたのことが好きだから。手紙くらい幾らでも書くわよ」

「姉さん……」

「黙って置いていこうとして本当にごめんなさい。傷つけてごめんなさい。今日はちゃんとあなたに全部を話すわ。私がやってきたことと、これからやりたいことを。だって、今ならこの国でも、全て自由に話していいはずよ」

 言葉通り、姉は喋ってくれた。実はかねてより共産主義体制には非常に大きな不満を持っていて、積極的に反政府的な地下活動に参加していたこと。そこで出会ったオーストリア人男性のことを心から好きになったこと。それらのことは僕の身の安全のためにわざと黙っていたということ。釈放後、恋人とは既に手紙のやりとりをしていて、引っ越しの手筈も整えている最中だということ。これからウィーンに行って、遅まきながらその恋人と結婚してみたいということ。ウィーンで新しい職を見つけるつもりだということ。情勢が落ち着いた暁には、僕のことをウィーンに呼んで一緒にお茶をしてみたいということ。結婚式にも呼びたいということ。

「僕も行っていいの?」

 僕はびっくりした。

「当たり前じゃない。たった一人の弟よ。言ったでしょう、変わらずあなたことは好きだって」

「……」

 僕がこれまで気を揉んでいたことは、全て吹き飛んでいた。

 姉は僕のことがどうでもいいのではなかった。心の中では僕のことを想ってくれていた。こんな喜びが他にあるだろうか?

「でも……情勢が落ち着いたらって、どういうこと?」

「ヨーロッパは変わるわよ」

 姉は断言した。

「もう大変革は始まっている。じきに世界は変貌を遂げる。そうしたらハンガリーとオーストリアの間の移動はもっと円滑になるはずだから。国境警備隊のあなたなら分かるんじゃない?」

「……そう、かも」

 僕は、オーストリアの草地を踏んだ時の感触を思い出しながら答えた。

 それから、コーヒーを一口飲んで、幸せを噛み締めた。

 姉の幸福の中に、ちゃんと僕はいた。それがとても嬉しい。


 数週間後、姉は煩雑な手続きを全て済ませてウィーンに旅立った。僕はまたブダペストまで出向いて、少ない荷物を持って列車に乗り込む姉を見送った。

 その更に数週間後、ベルリンの壁が崩壊した。鉄条網はヨーロッパ全域に渡って取り払われた。姉の予言通り、世界は一変したのだ。

 世紀の雪解けに世界が浮き足立っている中、僕はウィーンにいる姉の元へ向かった。田舎町から列車に乗って、検問所を難なく通過して、到着した駅にて姉とその恋人に出迎えられた。

 姉は恋人と二人で話している時とても幸せそうだったし、僕を見た途端に満面の笑みを浮かべて僕を歓迎した。

 僕たちは朗らかに挨拶を交わした。姉の恋人はハンガリー語が達者で、明るくて人当たりのいい性格だった。笑顔が爽やかな好青年だ。

「ヤーノシュ、前も言ったけど、あなた随分と痩せているじゃない」

 姉は言った。

「早くうちにいらっしゃい。グヤーシュを作ってあるの。こちらの肉はとても品質が良いのよ。たんと食べて」

「うん。ありがとう!」

 僕は姉たちの後について、鮮やかな色彩に溢れた見慣れぬ町を、足取り軽く歩き出した。



 おわり





 参考文献


 関榮次 著『ハンガリーの夜明け 1989年の民主革命』近代文藝社、1995年

 ヴィクター・セベスチェン 著/三浦元博・山崎博康 訳『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』白水社、2009年

 

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