最終話

 文化祭は二日間行われるのだが、二日目には体育館で歌唱大会なるものが開催される。各部活の出し物の合間に行われるこの大会は、専らクラスの中心人物たちの内輪ノリで形成されており、私には本来何も関係のない行事である。


 そう、関係がない……はずなのだが。


「トリを飾るのは一組、春原皐月さんです!」


 大仰な司会に促されて、春原皐月がステージに立つ。私は体育館の端でそれを眺めていた。今日になって突然、この大会を見にきてほしいと彼女から連絡があったのだ。今日は特にすることもなかったため、こうして足を運んだのだが、場違いな気がして落ち着かなかった。


 体育館に設置された椅子はほとんどが埋まっている。私は座る気もなれず、立って彼女の歌を聞くことにした。


 彼女が歌っているのは流行りのラブソングだ。彼女らしいと思いつつ、私は入り口の扉近くの壁に体を預けた。


 彼女の声が脳を揺らす。

 考えてみればこの数ヶ月、体験したことのない出来事の連続だった。四月の段階では、住む世界が違うと思っていた春原皐月とここまで深く関わることになるなんて思っていなかった。


 文化祭だって、去年はほとんど見て回らなかった。ちょっとだけ屋台を見たりしたが、後は桜と紬と一緒に学校を抜け出してカラオケに行ったり、ファミレスに行ったりしていたのだ。


 縁とは不思議なものである。

 彼女との縁がなければ、今の私はもっと違う存在になっていただろう。

 彼女と出会って良かったのか、悪かったのか。それは結局わからないままだが、良い思い出ができたことは確かだ。


 私は笑った。ステージに立つ彼女は数ヶ月前思っていたように、住む世界が違う人間に見えた。いや、実際住む世界は違うのだろう。私と彼女は真逆の人間で、一緒にはいられないのだ。


 そんな彼女の歌声が胸に響いて、鼓動が少し早くなるのを感じた。私は歌が終わると同時に、体育館を後にしようとした。だが、足が動かない。ひんやりした何かが私の足に絡みついていて、動けないのだ。


 見えざるものだ。

 今日もまだ存在していたらしい。ポケットからスマホを取り出そうとすると、彼女の声が聞こえてきた。


「まだ時間があるみたいなので、少し話をしたいと思います」


 どこかわざとらしい声色で、彼女は話していた。私は思わず彼女の方に目を向けた。その時、青い瞳に私が映ったような気がした。


「私には、好きな人がいます」


 マイクで大きくなった声が、鼓膜を揺らす。私は目を瞬かせた。名前を出されはしないだろうかとヒヤヒヤする私に、彼女は微笑む。


 体育館がにわかにざわめきだした。

 こういうシチュエーションを、彼女から借りた少女漫画の中で見たことがある。まさか、彼女がここまで大胆なことをするとは思ってもみなかった。


「その人は普通でいることにこだわっていて、そのせいで苦しんでいます」


 私はポケットに入れた手を、どうしてもこれ以上動かせずにいた。


「だけど、私は思います」


 透き通った声である。その声は、前からずっと変わっていない。私は目を瞑った。他の人の声が聞こえなくなるくらい、私は彼女の声に集中し始めた。


「あなたは本当は、普通になるのが夢なんじゃなくて、穏やかに生きることが夢なんだって」


 私の夢。

 私は普通に憧れた。自分の常識を否定されず、ただ親しい人たちと笑い合えるような、そんな生活がしたかった。だから私は自分を捨てて普通に合わせるようになったのだ。そうして自分のことがわからなくなっていく中で、普通の定義すら曖昧になっていった。


 幸せになりたいがために普通を目指していたはずが、普通そのものが目的になり、その普通すらも見失い、私は何者でもなくなったのだ。


 そんな私に何かを見出して、彼女は私に好意を向けるようになった。


「私ならその夢を叶えられる。一緒に笑って、一緒に泣いて……愛を育める」


 普通でなくなるのは、怖い。足元から世界が崩れ落ちていくような感覚だ。その恐怖だけで、身動きが取れなくなってしまうのだ。


「世界がどう変わっても、他の人とどれだけ仲良くなっても……それでも、愛を育むならあなたとがいい」


 真摯な言葉だった。その言葉に嘘はないと、私は本能で感じた。かつて信用できなかった彼女の言葉がすんなりと胸に落ちて、簡単に信じられる。

 それくらい、私は彼女が好きになっているのだろうか。


「私を信じてほしい。何があっても私はあなたと一緒にいるし、あなたがこれから先どうなったって、それが本気なら肯定する」


 彼女の声はどこまでもまっすぐだ。これが彼女の本当の言葉なのだと思うと、胸が痛くなるような、熱くなるような感じがした。


「だから、私と一緒に生きて! 以上です!」


 私は目を開けた。割れんばかりの拍手が響いて、歓声が上がる。私はそれに紛れるようにしてスマホのライトをつけて、見えざるものを振り払った。その勢いのまま、私は体育館から飛び出した。


 その後、自分が何をしていたのかはあまりよく覚えていない。

 気付けば私は空き教室にいて、窓の外はすっかり茜色に染まっていた。ちょうど校内にアナウンスが響いて、文化祭の終わりを告げてくる。私はぼんやりと窓の外を眺めた。見慣れない人々が波のようになって校内を歩いている。その景色は、どこか非現実的で綺麗なものに見えた。


 思わず笑った瞬間、背後の扉が開く音が聞こえた。振り返らずにいると、こちらに足音が近づいてくる。


「卯月、ここにいたんだ」


 やはり、来たのは彼女らしい。文化祭の日に、何にも使われていない空き教室にくる人間なんて、彼女くらいだろう。


 彼女は私の隣まで歩いてきて、私に顔を向けてきた。

 ふわりと、柑橘類のような匂いがした。


「懐かしいね、ここ」


 彼女は小さな声で言う。


「ん?」

「手紙で卯月を呼び出したの、この教室だよ」

「……そっか」


 無意識のうちに足を運んだのがこの教室だったと考えると、私もこの教室に何か特別性を見出しているのかもしれない。


 見渡してみても、教室内があの頃と変わっているのかそうでないのかはわからない。ただ、ここから全てが始まったのだと思うと、どうにも懐かしい心地になった。


「ねえ。返事、聞いてもいい?」


 少し緊張した面持ちで、彼女は言う。


「……春原さんには、前に言ったでしょ。私は普通でいられればそれでいいし、それが全てなの」

「でも、私と一緒にいてくれてる」


 私は返答に窮した。私の行動は矛盾しているように見えるだろう。普通普通と言いながら、普通でない彼女と付き合っているのは事実なのだ。


「……卯月。私は、ずっとお父さんが世界の全てだった」


 彼女は私の手を取った。何かにつけてスキンシップをとりたがるのは、彼女の癖だ。


「あの頃は自分が変わるなんて思ってなかったし、お父さんさえいればいいと思ってた」


 私は何も言わなかった。


「卯月と会ってそれが変わった。お父さんのことを忘れたわけじゃない。心もまだ痛いけど……でも、それ以上に、卯月が好き。一緒にいたい。……卯月にも、そうなってほしい」


 全てがわざとらしかった頃とは比べ物にならないほど、真剣で嘘偽りのない言葉のように聞こえる。


「……春原さんの好きな私は、どんな私?」


 彼女は強く私の手を握った。


「うさぎみたいで、怖がり寂しがり頑固者。……でも、私の話を真剣に聞いてくれるし、私のことをちゃんと考えてくれてる。それが私の好きな卯月」


 私の中のイメージとはかなり異なっている。だが、彼女はそれを本気で信じているのだ。それを否定するつもりはない。


「……そう」

「これは私の決めつけかもしれない。でも、卯月はそれを許してくれるでしょ?」

「春原さんが真剣に出した答えなら、否定しないよ」

「ふふ、だよね」


 彼女は子供のように幼い顔でくすくす笑う。茜色の光に照らされた彼女の顔は、絵に描かれているかのように綺麗だった。


「……卯月。私と一緒に生きて。私が、卯月を幸せにするから」

「プロポーズみたいになってるけど」


 私は目を逸らして言った。だが、そんな言葉で逃げられるほど、彼女の言葉は軽くないとわかっている。


 心臓が早鐘を打つのを感じた。いつおかしくなってしまうかもわからないのに、これ以上彼女と一緒にいていいのだろうか。そう思って、彼女の目を見る。

 澄んだ青色の瞳は、私をじっと見つめている。


「……変われるか、わからないよ」

「変われるよ。ううん、私が変える」

「傷つけるかもしれないし、期待には応えられないかもしれない」

「そんなの私も同じだよ」


 うるさく感じるほど、鼓動が強く刻まれている。心臓の位置がよくわかる。心臓が痛いくらいに動いているのを感じる。私は小さく深呼吸をした。


「一緒に生きてよ、私と。普通じゃなくなっても、私がいるから」


 普通でなくなるのは、怖い。様々な記憶がフラッシュバックして、呼吸が浅くなる。それでも、彼女の瞳を見ていると、息の仕方を思い出していく。私は息を吐いた。


「普通じゃなくなった時に、どうなるかはわからない。……でも、わかった」

「じゃあ、誓って」


 彼女は一度私から手を離して、小指を差し出してくる。それは、ひどく子供っぽい誓いだった。穏やかな笑みを浮かべた彼女を見て、私は微笑み混じりに小指を向けた。冷たいようで温かい彼女の指が、縋るように私の小指に絡んだ。


「卯月は死ぬまで私と一緒」


 死ぬまで。小指で誓うには、重すぎる誓いだ。だが、今の私はこの小指で、そんな重すぎる誓いを交わしてもいいと思ってしまう程度にはおかしくなっている。だから私は何も言わず、彼女と小指を絡めた。


「破ったらあの世まで追いかけるから。……指切った」


 彼女はにこやかに言って、私の胸に頭をくっつけた。


「怖いこと言うね」

「そう思うなら、ずっと一緒にいればいいよ」


 彼女はそれから、しばらく何も言わず私に寄りかかり続けた。やがて窓の外が暗くなり始めた頃、彼女はようやく口を開いた。


「鼓動、早くなってる。なんで?」


 彼女の息がかかって、少しくすぐったい。私はふっと笑った。


「さあ、なんでだろう」


 わざとらしく言って、私は彼女の頭を撫でた。

 私たちは少しの間黙って二人で居続けた。クラスメイトから片付けをしろと連絡が来たのを合図にして、私たちは二人で教室に戻った。





「むむむむ……。はぁ、まだ駄目かぁ」


 彼女の家にある儀式の間で、私たちは手を繋ぎながら唸っていた。星の夢が終わる時には祭壇が反応を示すらしいが、今目の前にある祭壇は全くの無反応である。


 これで何度目になるかはわからないが、私たちは最近こうして星に愛をぶつけようと試みていた。しかし、まだ成果は出ていない。星を夢から覚めさせるには、まだ愛が足りないということなのだろう。


 私はそれなりに強い感情を彼女に向けているが、この気持ちを愛と呼ぶには弱い気がするし、さもありなんというものだ。


「もっと愛を育まないとだね、これは」


 私たちは、星の夢を終わらせたいという確固たる意志があるわけではない。星の夢が終われば、皐月はクラスメイトたちともっと仲良くなれるとは思うが、それだけである。彼女の方も、星の夢が終わらなければ見られない景色があるとは言っていたものの、現状にそれなりに満足している様子である。


 星の夢が終わらないのはこういうモチベーションの低さが原因なのかもしれない。私とて、彼女と一緒にいることで満足してしまっているのは確かなのだ。


「いっそ、別の感情をぶつけてみるとかは?」

「絶対駄目。私たちの愛で夢を終わらせることに意味があるんだから」


 彼女は眉を顰めて言った。


「私たちの愛を証明するためにもね」

「何か、目的がとっ散らかってるような……」


 一応元々は、星の夢を終わらせるという目的があって愛を育もうとしていたはずだ。それが今では愛を育むことが目的になっていて、その結果として星の夢が終わるという構造になっている。とはいえ、私は別にそれでも構わないとは思う。


「細かいことはなし! とにかく、今日もどこかに行こう! 愛を育むために!」


 彼女は今日も元気が良い。本当の彼女は人よりも幼くて、押しが強くて、子供のように元気が有り余っている。私もそれなりに元気な人間だと自負しているが、時々彼女のテンションについていけなくなることがある。


「どこかって、どこ?」

「わからない。でも、一緒なら楽しくなるよ」


 彼女はそう言って、私の手を引っ張り歩き出した。これはいつものことだ。私はふっと笑って、口を開いた。


「……そうだね」


 結局、私は自分がこれからどうなるのか全く想像できていない。自分を普通だと信じられなくなった後のことはやはり怖いし、いつ死んでもいいという気持ちは変わっていないのだ。


 こんな状態で彼女と一緒にいるのが怖くはある。

 だが、彼女は他の誰でもない私を選び、私と一緒にいたいと言ってくれたのだ。そんな彼女と一緒にいれば、本当の自分をいつか思い出せるようになる気がした。


 色々、考えるべきことはある。

 私と一緒にいて本当に彼女は幸せなのか、とか、今の状態が彼女にとっていいことなのか、とか。でも、彼女は自分の中で答えを出して、私と一緒にいることを選んだ。そして、私も彼女と一緒に生きることを選んだのだ。


 だから、これから先どうなったとしても、きっと後悔することはない。


「ねえ」

「何、卯月」

「好きだよ」

「……うん。私も」


 星の夢も、私たちの悩みも、まだ続いている。それでも一緒にいたいのだ。

 一歩先を歩く彼女の小さな背中を見て、私は改めてそう思った。

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