【短編】色がない世界

お茶の間ぽんこ

色がない世界

 ある夜、交わり後の会話。


「ねぇ、ゆうと。私たち、その、そろそろ一緒になっても、いいんじゃないかなって」


 横で寝ている真理が言葉を紡いでそう言った。


 漠然と分かっていたが僕たちも三十歳に近い。身を固めたくなる彼女の気持ちも十分理解できる。だが、僕の方から言葉にする気にはなれなかった。


 真理とは同じ会社で知り合ってかれこれ三年ほど付き合っている。


 正直、真理のことを本気で愛していない。かといって別れる理由もない。


「そうしようか」


 考えた挙句、僕はその一言で済ませた。結婚することについてどうでも良かった。


 周りから「人生に無頓着すぎる」と文句を言われても仕方がないだろう。


「ほんと⁉ 私、嬉しい。ねえねえ、今から計画立てようよ。結婚式会場とか新婚旅行とかさ」


 真理が子供のように僕の体の上に乗り出して無邪気に甘えてきた。


——ハネムーンという言葉はね


 目の前の真理は僕には映らず、彼女の言葉だけが耳に残って相田先輩との夜を思い出した。




 特別な夜、先輩との睦言。


「ハネムーンという言葉はね、お洒落な響きに聞こえて素敵な意味があると思うじゃない?でもそんな高尚なものじゃないのよ」


 横に座って裸で煙草をふかす相田先輩が語りかけてきた。


「ハネムーンって、新婚旅行のことですよね?」


「そう。この言葉は二つ由来があるとされているの。一つは『蜜月』、つまりHoney Moonっていうものよ。女王蜂が多くの卵を産むように新婚夫婦が子宝に恵まれるために、新婚後一か月ぐらい精力剤として蜂蜜酒を新郎に飲ませたらしいのよ」


「それは民族的風習っぽくて良いじゃないですか」


「けれど、女王蜂って数多のオスバチと交尾しているのよ。これって浮気性ってことじゃない?」


「確かに、そうですね」


「まあ、ポリアモリーに理解があるんだったら問題ないけれど」


 彼女が笑って灰皿に燃え殻をそっと落とす。


「他の由来は何ですか?」


「もう一つの方は、新婚夫婦は甘い蜜のように幸せに満ちることもあれば、満月が欠けてしまうように関係が拗れてしまうこともあるっていう比喩的由来ね」


「随分とリアルですね」


「でも、これって当たり前のことを言っているだけじゃない? 幸せの起伏は恒久的にあるわけなんだから」


 相田先輩は火を消して吸い殻を捨てる。


 このように彼女はいつも興味深い知識を披露してくれた。


 相田先輩と出会ったのは地元にある大学の文芸サークルだった。


 彼女は中性的で、髪はショートヘア、身なりもシャツにジーパンというお洒落に気を遣わない人だった。


 唯一女性らしいというか、彼女の右手首には青と白で彩られたレトロチックなブレスレットが嵌められていて、特別なものなのか訊ねると「見た目で相田佳奈子であるっていうアイデンティティを示したくてね。ただ服装を派手にするのだったら下品で低俗だから、ワンポイントで象徴するのよ」と答えた。


 変わり者に見えるだろうが、部員や学部内での交流は良好で寧ろ人気者であった。


 相田先輩は人を惹きつけるような語りをする。決してコメディアンのように話が巧いというわけではない。ただ、相手に適した話し方にその都度合わせているのだろうか、とにかく相田先輩と関わった人たちは皆魅了されていくのだ。


 もちろん、相田先輩のことが好きな男は少なくなかった。しかし、彼女に告白して成功したという話は耳に入ってこなかったので悉く振られているのだろう。


 それでも僕は自分の気持ちが抑えきれず相田先輩に告白した。


 彼女は少し間をおいて「立川くんが好きな人は人違いかもしれないけれど、それでも良ければ構わないわ」と答えた。僕は意味を咀嚼できなかったが、その瞬間世界が鮮明に彩られた。


 相田先輩と付き合ってすることは全て一回きりで終わった。映画鑑賞も、旅行も、デートも、性交も。その中で相田先輩は僕に恋愛感情を抱いていないことは痛いほど理解した。彼女は風速という概念が存在しないくらい弱い恋風にしか当てられていないのだろう。


 しかし、僕は脳が彼女の存在なしでは機能しないくらいに、麻薬のように、彼女の全てに魅せられていった。


 ある時、相田先輩から一切の連絡が途絶えた。彼女の親友、家族に行方を尋ねても誰も知らなかった。相田先輩は失踪したのである。


 僕は彼女のことが忘れられず、事あるごとに相田先輩のことを思い出していた。




 真理と婚約した翌日、いつも通り丸の内にある会社に出勤した。真理が同僚たちに一早く結婚することになったと言いふらしたので周りからしつこく絡まれた。


 僕はそんな同僚たちに辟易して、せめてランチぐらいは一人で食べたいと考え、会社から一キロほど離れた喫茶店で食事をとることにした。


「立川くん?」


 喫茶店に向かっている途中、後ろから聞き覚えがある女性の声に呼び止められた。


 同僚だと厄介だなとうんざりしながら振り向くと、そこには大学時代の先輩、飯塚さんがいた。


 飯塚さんは僕と同じサークルに所属していて、相田先輩と親友と呼べる関係性である人だった。


 彼女はサバサバしているというか、歯に衣着せぬ物言いで男勝りな人だった(男はあまり近寄ってこなかった)。僕は相田先輩と恋仲だったし、飯塚さんはサークルの先輩にあたるので必然的に関わりがあった。


「立川くんだよね! いやー久しぶり! まさかこんなところでばったり会うとはね」


 僕と飯塚さんは一緒にランチをとることになった。


 向い合せの席に座り、各々ランチセットを注文する。


「飯塚さんもここら辺に就職していたんですね」


「そうそう、転職を繰り返して今は丸の内OLをしているわ」


「楽しそうで何よりです」


「何言ってんのよ! 毎日仕事に忙殺される日々よ。全く大和魂だの御託を並べて残業してなんぼの日本社会には呆れたものだわ」


 飯塚さんは出されたブレンドコーヒーに角砂糖を入れながら不満を垂れた。


「立川くんこそ最近楽しくやってる?」


「会社で今付き合っている彼女と結婚するとかの噂が面倒だったので避難してきたところです」


「君も楽しそうじゃない。というか立川くん、結婚するんだね」


「えぇまあ。成り行きというか」


「成り行きって何よ。まあ結婚式には私もちゃんと呼んでよね」


 僕は飯塚さんにも良い人が見つかったのか訊こうと思ったが、もしかすると地雷かもしれないと思い踏みとどまって、ただ静かに頭を縦に振った。


 少しばかりの沈黙が流れ、飯塚さんは不自然に問いかけてきた。


「今の彼女も、佳奈子と似た子?」


「…いえ、真逆なんじゃないかな。でもとても良い子ですよ」


「そう、それは良かった」


「…相田先輩はその後、どうしているか知っていますか?」


 僕はかねてから気になっていた疑問を投げかけた。


「佳奈子については知らないわね、あれから五年も経っているのに全く情報が入ってこないわ」


「そうですか」


「…もしかして、まだ相田先輩のことを想っているの?」


「想っていない、と言ったら噓になります」


「…そっか」


 飯塚さんはコーヒーを啜り一息ついた後、こう告げた。


「佳奈子、ひょっとするとこの世にいないかもね」


 少しは頭をよぎったことではあったが相田先輩の親友である飯塚さんの口から出されることで、その可能性が高まったような気がした。


「どういうことですか」僕は動揺を隠さずに言った。


「既に死んでいるかもしれないという言葉通りの意味よ」


「どうして死んでいる可能性があるんですか」


「佳奈子は大学の時からそういう兆候があったのよ」


「はっきり言ってください」


 僕はイライラしていた。別に飯塚さんが悪いわけではないのに、まるで彼女が相田先輩に危害を加えたかのように。


「…まあもう時間が経っているし、君も一応はよりどころがあるみたいだし」


 飯塚さんは残りのコーヒーを飲み干した。


「佳奈子はね、空っぽな自分に絶望して生きていたのよ。私たちが普段見えるものは面白かったり感動させられたり、色づいた世界じゃない? でも、佳奈子の見る世界はモノクロで無機質なものでしかなかった…抽象的すぎたわね、


 言っている意味が半分くらいしか分からなかったが、自分が相田先輩の知らない一面に困惑していたことは理解できた。


「ですが、そんなように見えませんでしたよ。興味を持てない方だったら僕と付き合おうと思わないんじゃ…」


 相田先輩との思い出がフラッシュバックして言葉を最後まで口にできなかった。


「そう。佳奈子は本質的には何にも興味がないけれど、それを認めることができなくて自分にとって興味があることを探したわ。立川くんと付き合おうと思ったのもその一環でしかなかった。皆が見ている佳奈子は『演じている』佳奈子だったの。彼女自身も偽りの自分を演じることで自分の本質から目を背けようとしたけれど、限界がきたってことじゃないかしら」


 僕が見ていた相田先輩が「演じている」相田先輩であると知って全て腑に落ちた気がした。


「だったら相田先輩は…」


「自殺しているかもしれないし、まだ自分を探しているかもね」


 飯塚さんは落ち着いた様子でそう答えた。彼女の態度は冷酷なようにも見えた。


「佳奈子は立川くんに対して悪いことをしたと言っていたわ。だから失踪という形をとったのも、君を絶望させないためじゃないかな。佳奈子のことを想っているのなら、佳奈子のことを忘れてあげるのが彼女にとって救いなんじゃないかしら」


 飯塚さんはそう言い終えると二人分の勘定を置いて静かにその場を去った。


 僕は一人席に残り、ただ相田先輩のことばかりを考えた。

 


 

 会社や真理に適当な理由をつけて少しばかり休暇を貰うことにした。


 休みの間は実家に帰って飯塚さんに告げられた話を咀嚼することにした。


 ただあてもなく地元の土地を徘徊する。


 しかし、それだけで相田先輩との記憶が蘇った。


 思い出に浸る度にその時に見ていた相田先輩は本当の彼女ではない事実が覆いかぶさるので、自傷行為といっても過言ではなかった。


 相田先輩は本当にこの世にはいないのだろうか。


 もし、この世にまだいるのなら、一体どこにいるのだろうか。


 横断歩道の赤信号で足止めを食らい、そんな意味のないことを考えてしまう。


 こんなところにいるはずもないのに、相田先輩がいないか探している自分がいる。

信号機が青色を示した。


 僕は足元の白線に目を向けながら歩を進める。


 すれ違う人の腕が目に入る。


 青と白で彩られた古びたブレスレットを身に付けていた。


 はっとして振り返り、すれ違った人の後ろ姿を見た。


 主張のない服装に、後ろ姿では性別の判断がつかない中性的な様相。


「相田先輩!」


 僕は思わず大きな声を出した。


 もし、相田先輩だったら。そんな期待が鼓動を早める。


 ブレスレットを身に付けた人は足を止めなかった。


「人違いよ」


 彼女はただそう呟いて去っていったのだった。

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