⑤-10

 場の空気が静まり返った。皆、潔乃の真意を測りかね様子見をしている。

「どういうつもりだい」天里が最初に口を開いた。

「彦一君を助けるために玄狐を倒さなくちゃいけません。だから龍神様たちが引き付けてくれている間に、みなさんで玄狐の動きを止めてほしいんです。そうしたら私が……心臓を討ちます」

「……いつどこで知ったのか分からんがね、そんなことをしても玄狐は死なんし、彦一は助からん。玄狐の魂が一時的に神域へ還るだけだ」

「いいえ、彦一君は死なせません。私が、絶対に。そのために天里さんには、御霊移みたまうつしの儀式の準備をしてもらいたいんです」

「⁉  何故それを……⁉」

「私の魂を使ってください。……早くしないと、全部焼けてしまう前に」

「ならん! あれは禁忌の儀式だ。お前さんが代わりに命を落とすことになるよ」

「私なら大丈夫です。説明は後でするから、お願い、天里さん」

 潔乃は決して引かなかった。しかし天里は苦渋の表情を浮かべ、首を縦に振ることはなかった。

「なんだかよく分からねえが、オレはあの黒狐を止めりゃあいいんだな? ……ククッ、久々の大捕り物じゃねエか。楽しくなってきやがった」

「……伊澄さん、死んじゃだめですよ。彦一くんも必ず助けてください。また三人で境内を掃除したり休憩時間に朴葉巻ほおばまき食べたりしましょうね。では俺は、行きます」

 勝政と大橋がそれぞれ手にした得物を構えた。太刀と剣、両方とも攻撃的な武器だ。衝突すれば彼らも玄狐も無事では済まされないだろう。それでも戦ってもらわなければ。成功させなければ。自分が協力をお願いしたのだから、責任を取るのは自分だ。潔乃は緊張感で圧し潰されそうになりながらも懸命に目の前の惨状を正視した。龍神やダイダラ坊が食い止めてはくれているが、森は焼かれ百万の斎木は火柱となって空へ燃え上がっている。地には力尽きた輪入道や純白の蛾の死骸が横たわり、誰のものとも分からない血痕があちこちに飛び散っていた。大蛾が次々に玄狐へ鱗粉を浴びせ、翅を焼かれていく。玄狐の動きが一時鈍くなるが、すぐに力を取り戻し暴れ始める。

(お願い……もうやめて……)

 玄狐が口から火炎を巻き散らした時だった。上空から竜巻が降ってきて炎を巻き込みながら玄狐へ襲い掛かった。玄狐は跳び退こうとしたがどうしてかその場で固まっている。足元を見ると、深紫の粘液が絡みついて玄狐を縛り付けていた。粘液が人間の手のようなものを形成し、どこかへ引き摺り込もうとしているように見えた。

「……!」

 玄狐が唸った。風の刃が立体的に襲い掛かり前後左右から玄狐の身体を切り刻んでいく。玄狐はすぐに再生しようとしたが、粘液が傷口に入り込みそれを阻止した。ぐちゃぐちゃと音を立てて玄狐の血を吸い取っている。その苦痛に吠えた玄狐が、粘性の手を力任せに引き千切った。しかし逃げた先に大橋が待ち構えており、玄狐の頭に向けて剣を振り下ろした。それを玄狐が牙で凌ぐ。お互い引かずにしばらく睨み合った後、大橋が上空へ素早く退いた。それを追おうと玄狐が頭を上げた時、空を切り裂いた刀の一振りが玄狐の鼻先を掠めた。人の形をした影が左右から次々に斬りかかりまるで波のように押し寄せる。玄狐は跳び退いて影の強襲を躱そうとしたが、狭められた退路に一直線に突っ込んでくるものがあった。黒炎を追い散らし緋色の残像が走る。勝政の太刀の切先が玄狐の喉に届こうとした時、間一髪玄狐がその刃を口で受け止めた。しかし捌ききれず、刀は口内を斬り裂き頬から飛び出している。

 拮抗し、膠着状態になったところにすかさず大橋が二手目の斬撃を加える。風を纏った刀身は玄狐の全長程もある巨大な刃となった。胴が割け玄狐が苦しみ悶える。そこへ龍神の頭が飛び込んできた。玄狐の胴に噛み付き彼を組み伏せる。

「伊澄さん!」

 大橋が叫んだ。潔乃は玄狐の気配をずっと頭の中で追い掛けていた。大橋の合図と共に、輝石に込めた力を解き放った。玄狐は龍神に押し潰され深紫の手に絡み取られ剣や刀で前足を釘付けにされている。その周りに、光の粒が拡散した。粒子はやがて光の槍となって落下し、玄狐の胸を貫いた。

 グォオオオオ――ッ!

 総身の怒りを籠めたような雄叫びがその場に轟いた。玄狐の身体からこれまでにない規模の黒炎が噴出し、龍神が堪らず仰け反った。炎の嵐が深紫の手と大橋たちを吹き飛ばし、勝政は散り大橋はその身を木に打ち付けた。玄狐が起き上がった。瞳を暗くぎらつかせ地面から火柱を上げながら、ゆっくりとこちらへ歩みを進めてくる。

(効かなかった……⁉)

 胸の傷口からジュウジュウと音を立てて煙が上がっている。潔乃は血の気の引いた表情でそれを見つめていた。仕留められなかった。全部の力を籠めたのに。玄狐の歩みを止めようと思いもう一度光を拡散させたが、容易く振り払われてしまった。

 結界の前で玄狐が止まった。高い位置からこちらを覗き込んでくる。普段の不思議な穏やかさを湛えた瞳の面影はそこにはなかった。獰猛な眼光だ。憎しみで暗く濁っている。

「彦一君! 目を覚ましてっ……! もう誰も傷付けないでっ……!」

 玄狐の口が開いた。喉の奥が橙色に灯り始めた。春枝が潔乃の前に出て、彼女を庇う様に背に隠した。

 その時だった。口内の灯りが突然飛散した。続けて玄狐がえずきだし、叫び声と共に喀血した。そして足を折り曲げ、その場に蹲った。

「彦一っ!」天里の悲痛な叫び声がこだました。「まさか自分でっ……」

 潔乃は再び輝石に力を溜め始める。この機会を逃す訳にはいかない。今度こそ玄狐を殺さなければ。彦一君を――取り戻すために。

 光の槍が頭上に現れた。立ち上がろうとして前足を震わせている玄狐と、目が合った。潔乃はその視線を正面から受け止めながら、槍を放った。

 ――――ッッ!

 心臓を貫かれた獣が、断末魔の叫び声を上げながら、地に伏せた。それはまるで地獄の底から響くような荒々しい慟哭だった。玄狐の身体が燃え上がる。やがてその炎は勢いを失い、宙に搔き消えていった。焼け跡に黒髪の青年が倒れていた。

「彦一君!」

 潔乃は前のめりになって立ち上がり、彦一に駆け寄った。力の抜けた重たい身体をどうにかして仰向かせる。口に耳を近付けた。息をしていない。胸に耳を当てた。心臓も、動いていなかった。

「彦一!」

 どこからか悲愴感を伴った低い声が聞こえた。慌てたような足音と共に孝二郎が駆け付けた。彼は彦一の手を取って縋り付くように握り締めた。

「伊澄ちゃんっ、頼む、彦一をっ……!」

 顔面を象牙の彫像のように蒼白にさせて、孝二郎が訴えてきた。いつもの余裕のある彼とは違い声が震えている。天里や黄金背や春枝、ジーナたちも集まってきた。大橋と勝政もいる。龍神らもその様子を上から見守っている。

「天里さん! お願いっ……!」

「っ……!」天里が唇を噛みしめた。

「……今からお前さんの魂を引き剥がす。離れたと感じたら、彦一に口から移すんだ。その頃合いは儂にも分からん。お前さんの感覚だけが頼りだ」

「やってみます」

「御霊移しは古来の神の御業だ。成功するかどうかは」

「私ならできます。信じて」

「……」

 天里は煩悶とした表情を崩さぬまま、潔乃の背中に手を当てた。そして経文を読むように、淡々とした低い声で何かを唱え始めた。背に触れた手からじわじわと身体が温まってくる。胸の中心が沸騰するように熱くなった。全身が炉になったようだ。吐く息が熱く喉が焼き切れそうになった。

(大丈夫……できる)

 潔乃が彦一を覗き込むように覆い被さった。そして彦一の薄く開いた唇に口付けをした。しばらくそのままでいた。ぎゅうと目を瞑って、自分の命を分け与えるように、熱を差し出していた。

 真っ暗な世界に、白い光が差し込んできた。またあの光だ。光に導かれるように意識の中で手を差し出した。手のひらに灯ったそれを両手で包み込むと、ドクドクと小さく、でも確かに、鼓動を感じた。


(――あなたでしょう、いつも私を助けてくれたのは。今度は私が役割を果たす番。絶対に助けてみせるから――あなたと私の、大切な――)


 潔乃は手の中の灯に祈った。意識が、深い場所へと落ちていった。

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