⑤-9

 気が付くと夜の海をあてもなく漂っていた。喉を切られた感覚を思い出して吐きそうになったが、不思議と痛みはもうない。ここはどこだろう。自分は……死んでしまったのだろうか。しかしこの光景には覚えがあった。真っ暗な世界で一人、ふわふわと彷徨っていて、目を凝らすと、そこに光が――


 起きて。貴方がいる場所は暗闇ではないわ。


 控えめで柔らかな光。そこから、妙齢の女性の声が聞こえた。


 ごめんなさい。貴方に託すしかないのです。起きて、あの子を助けて。私の、一番大事な――


(誰……?)

 それを確かめる前にあの時と同じ白いノイズが迫ってきて、意識が途切れてしまった。


 ごうごうとか、パチパチとか、そんな音がする。まずは聴覚が正常に機能し始めて、次に重たい瞼をどうにかして開く。ぼやけた視界が次第にくっきりとしていき、自分が地面に横たわっていることを理解した。

「ごほっ……かはっ……!」

 大きく咳き込んで喉の詰まりを吐き出した。口に手をやり、そこにべっとりと付いた血にぎょっとする。口の中に錆びの味が広がって思わず顔をしかめた。

 上半身を起こし顔を上げるとそこには、現実離れした光景が広がっていた。空を覆う長大な白龍の咆哮が水流を作り出し木々を薙ぎ倒していた。その横ではまるで山のような水塊が暴れ回っており、その水塊――透明な巨人は何かを捕まえようと巨大な手をそこかしこに振り下ろしている。さらに森の上空では、全長二メートルはありそうな白毛の蛾の大群が押し寄せ、陶器を思わせるような白縹しろはなだ色の翅を羽ばたかせ鱗粉を巻き散らしていた。

 そして、その幻のような存在の中心に、荒れ狂う炎を纏った黒い獣がいた。その獣は白龍の咆哮を躱して頭に跳び付き牙を立て、聖なる龍を踏みにじっていく。そしてすぐに身を翻して水の巨人に火炎を浴びせ、身体の一部を蒸発させた。そうかと思えば空から火球を降らせ、神の使いらしい純白の蛾を次々に焼き殺した。獣の勢いは止まらなかった。その琥珀色の瞳は暗い陰を宿し、災厄を振り撒いていた。

「……気が付いたかい」

 空を見上げて呆然としていると、横から年季の入った声が掛かった。潔乃はそちらに顔を向ける。そこには天里と、そして黄金色を背負った神獣がいた。

「あまさとさん、こがねぜさん……」

「傷の具合はどうだい。回復しているはずだが。黄金背の力があって良かったよ」

 黄金背がこちらを見つめて目を細めた。若々しく滑らかな栗色の体毛が輝いていた。そうだ、御加護だ。黄金背さんの御加護があったから私は――

 ふと、下からきゅーん……きゅーん……とか細い鳴き声が聞こえた。下を向くと猧子の三兄弟がいて、潔乃の脚に縋り付いていた。動物とは思えないくらい豊かな感情を宿した瞳が揺れている。心配してくれたんだ。潔乃は無理矢理笑みを作って、彼らの頭を順番に撫でた。

「さて、これからどうしようかね。儂の結界もそう長くはもたんだろう。玄狐の、破壊の力が強過ぎる。黄金の癒しを以てしても再生が間に合わん。あの異常な力はなんだ。蛟の時と同じなのか? 説明しろ、氷蓮」

 天里が背後に目をやった。潔乃もその視線を追い掛ける。そこには、春枝に抑え込まれている氷蓮がいた。腕を後ろ手に掴まれ組み敷かれている。

「……ふふふ、あはははは!」堪えきれないといった様子で、氷蓮が笑い声を上げた。

「やっと、やっと叶ったわ! まさかこんなに上手くいくなんて! 気分がいいから全部教えてあげる。玄狐をこの女の前へ引き摺りだすために山猿をけしかけたのはこの私よ」

 氷蓮が恍惚とした表情を浮かべて潔乃を見た。その悍ましい笑みに、これまでの氷のような美しさの面影は微塵も感じられなかった。潔乃が気を失っていた恐らくは短い時間で、一気に老けてしまったように見える。実際に、少しずつ身体の表面が、

「貴様……初めから狙いは彦一だったのだな。どこでその手段を手に入れた。やはり聚華楼か? あそこには一体何がある」

「あそこはわたしの商売処よ。道具を用意してくれたのは全部仙君せんくん。彼の研究のためにお金がたくさん必要だったの。……アハッ、少女の肉体に群がるジジイどもがわたしに何をしてきたか、教えてあげましょうか?」

 檜林から、燃えている車輪のような物体が高速で転がってきた。数は十にも及ぶ。そして、決して広くはない奥社の境内を出鱈目に走り回っているそれらに、ぶつかっていくものがあった。先端に向けて緋色に染まっていくグラデーションの白い猫、灰褐色の体毛を風になびかせ勇ましく地を駆ける二頭の大狼――

(火車ちゃん、ジーナさん、イオシフさん……)

 車輪――輪入道が巨大なトラバサミに挟まれ絶叫した。その鋭利な罠はすぐに麻袋に形を変え輪入道を包み込み、それを遠くへ放り投げた。

(みこまちゃんも……)

「彦一を元に戻す方法があるはずだ。知らないのならその仙君とやらの居場所を教えろ」

「今更なにをしたって無駄よ。もうあいつを止められる手段なんてありはしない。みんな仲良く玄狐の炎に焼かれて死ぬの」

 氷蓮はクスクスと笑いながら、息苦しそうに浅い呼吸をしていた。辺り一面が火の海だ。だが潔乃たちは結界で守られていた。すぐそばに颯真もいる。倒れてはいるが、胸が上下に動いているのが分かる。無事なようだ。

 潔乃は改めて神々の争いを見据えた。血の足りないふらふらとした頭が、これからやるべきことをむしろ一つに絞らせた。私は為すべきことを知っている。いや、

「この時を四百年以上待ったわ。怨霊になってずうっと、この世界を彷徨いながらね。そして十八年前、玄狐の封印が解かれたことを風のうわさで聞いたの。やっと殺せる――いえ、死ねるの間違いね。そう思って玄狐の様子をこっそり見に行ったら、あいつ、のうのうと生きてやがったのよ。生意気そうなガキに慕われて、居場所もあって、愛されて生きてた。許せなかったわ」

「……それで復讐のために計画を立てたと」

「そうよ。最初はあのガキを殺そうと思ったんだけど、周りの連中に隙が無いから無理だったわ。わたしはなんの力もない弱小の怨霊だから。それで竜人の――仙君の存在を知って彼に協力をお願いしているうちに、そこの小娘が現れた。すぐに利用しようと思ったわ。この子が弱みになることは分かっていたから」

「我々の目を欺くためにこの子を……」

「もっと言うとね、わたしは玄狐を殺したいんじゃないの。だけ」

 ぐしゃりと何かか潰れるような音がした後、氷蓮が立ち上がった。春枝が掴んでいた腕が千切れ、地面にへばり付いていた。それはみぞれのように溶けて大地に透明な染みを作った。春枝が再び氷蓮を捕らえようとしたが、今度は氷蓮の右膝から下が溶けて離れ、倒れ込んでしまった。両腕と右足の関節から先を無くし、それでも彼女は這い擦って前へ進んだ。潔乃も天里も春枝も、その様子をただ呆然と見つめていた。彼女の痛ましい姿に、潔乃はある冬の日の光景を思い出していた。春を迎える前に崩れて消えた雪だるま。泥と塵に汚れた最期。その姿を、彼女に重ねていた。

「もう……おしまい……わたし、は、これ以上、もたない」

「好き勝手言うだけ言って消えるつもりかい」

「フフ……こがねぜでも、治せないわよ……わたしはいきてなんか、いないんだから」氷蓮がぎこちない動きで潔乃に顔を向けた。

「あんたが玄狐を強くし、そして弱くしたの。あいつを救いたいなら……あんたの力で、なんとかしてみせなさい」

 そう言って氷蓮は結界の外へと出て行ってしまった。熱風が渦巻く高温の大気が、彼女の形を崩していく。這う度に身体が地面に削り取られ失われていった。氷蓮は力尽きて、前進することをやめた。

「おとう……さま……おかあ……さま……いま……おそばに……」

 ずしりとした重たい足音が響いた。煤で汚れた灰人形がぎこちない動作でゆっくりと氷蓮に近付いてきた。彼はその身を折り曲げ、氷蓮に覆い被さった。

「なにをしているの……もう、むいみよ……はなれなさい」

 氷蓮の命令は通らなかった。灰人形は彼女を囲い、辛抱強く灼熱の炎から守っていた。

「……ばかね……もういちど……やかれるなんて……」

 黒い炎が吹き荒び潔乃の視界を一時遮断した。次に視界が開けた時にはもう、氷蓮の姿はなかった。バラバラに崩れた灰色の塊が、無造作に散らばっているだけだった。

 しばらく無言でその残骸を見つめていると、突然目の前に嵐が降ってきた。

「すみません、遅れました」

 竜巻のような風のうねりが散って、そこから姿を見せたのは、白黒の装束に身を包んだ濡羽色の翼の持ち主だった。

「大橋殿」

「ひゃあ、これはすごい光景だ。みなさん無事ですか?」

「人形使いは死んだ。彦一はあの有様だ。止める術を探さねばならん」

「とりあえず弱らせる必要がありますね。それにしても厄介な日を選んでくれたなあ。玄狐の力が一番高まる時を狙ってたんですねえ」

 厄介だと言いながらも大橋の表情に焦りは見られなかった。いつも通りの朗らかな佇まい。しかしその手には、無骨な黒漆の剣が握られていた。

「よォお……ひこいちィ……テメエ、オレとの約束すっぽかしてなァに一人で楽しんでやがる」

 そこへ、不気味な気配と共に背後から粘着質の低い声が聞こえた。振り返るとそこに深紫色の泥のような液体が広がっており、それが次々と隆起し無数の人型を形成していた。泥が滴り落ち中心にいる人物が姿を現した。緋縅ひおどしの鎧を身に着けた白髪の初老の男だった。瘦せ型で人相が悪く、目が据わっている。

「勝政……」

「あまさとォ……しばらくぶりだなア……」

「お前さん地縛霊じゃなかったのかい」

「理屈っぽいテメエに教えてやる。呪縛なんてモンは気合で何とかなるのよオ」

「……不確定要素が飛び込んできおった、忌々しい」

 露骨に不機嫌さを表出しつつも天里から敵意は感じられない。古い付き合いだとは聞いていた。腐れ縁というやつだろうか。とにかく、心強い援軍が来てくれたことに潔乃は胸中で感謝した。そして、緊張で高鳴る鼓動を必死に抑え、皆に向かって呼び掛けた。

「私に、考えがあります。みなさんには、私を信じて、協力してほしいんです」

 その場にいる全員の視線が潔乃に集中した。

「私……私が……玄狐の心臓を――討ちます」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る