⑤-7
ドンッという生々しい音が聞こえて、飛んでいた意識が呼び戻された。
「八柳‼ お前っ……!」
殴られてよろけた彦一に間髪入れず颯真が掴み掛かっていた。潔乃は口に手を当てハッと息を呑んだ。身体が小刻みに震えている。涙が次々に溢れてきて止まってくれない。目の前に力なく項垂れている彦一と容赦なく詰め寄る颯真がいて――とても直視などできなかった。自分のせいなのに。止めなければならないのに。折られてしまった心が潔乃の目を現実から背けさせた。
「伊澄!」
背中に颯真の悲痛な声が投げられる。それでも潔乃は振り向かず、玄関から急いで飛び出して行ってしまった。
喉が張り付いて痛い。目の奥がズキズキして呼吸も乱れて、頭の中は滅茶苦茶だ。随分長く走った後、辿り着いた先は、松元市郊外の人影も無い寒々とした川だった。河原へ下りて、橋の下に移動する。潔乃はそこで蹲って膝を抱えた。
「伊澄!」
土手の上から声がした。颯真の声だ。潔乃はびくりとして身を強張らせた。
「はあっ……はあっ……はっやっ……追いつけねえって……おれ、長距離にがて……」
颯真が息を切らせながら近付いてきた。それでも顔を上げられなかった。どんな顔をして颯真と対面すればいいのか分からなかった。
「……ごめん、俺が、急にあんなこと言ったせいで」
「……」
しばらく走って冷静になったのか、颯真は先程とは違って落ち着いた様子で話を切り出した。潔乃は顔を伏せたまま首を横に振った。
「大声出したし、怖がらせたと思う。八柳とも……喧嘩みたいになって」
「……」
「俺余裕なくて、伊澄を困らせた。それは謝るよ。ごめん。……でもさっき言ったこと、全部嘘じゃないから。俺は本気だから」
そう言って颯真は隣に座った。肩と肩が触れ合うくらいの距離だった。ギクリとした。拒絶するべきではないか。望みを持たせる方が残酷かもしれない……でも、今自分が感じている痛みを颯真にも味わわせることが、どうしてもできなかった。
颯真が潔乃の肩に触れようとした時だった。突然、雪の匂いが舞い込んできた。
「っ……!」
颯真の気配が風に攫われたかのように急速に離れた。呻き声がして潔乃は咄嗟に顔を上げた。すぐそこに二メートル半はある巨大な灰色の人形が現れ、颯真を後ろから拘束している光景が目に飛び込んできた。
「なっ、ん……」
「柴君!」
「大成功! 上出来よ、
鳥が歌うように軽やかな声がした。割けた空間から身を乗り出した少女は潔乃に視線をやると、鮮やかに紅く色付いた唇をニヤリと歪ませた。
「こんにちは。また会ったわね」
「あなたはっ……!」
潔乃が身構えた時、空間の綻びが一瞬にして拡大しその場にいる全員を飲み込んだ。
目を開けるとそこには仄暗く何もない空間が広がっていた。倒れていた身体を起こす。周囲を確認すると、だらりと力の抜けた颯真を担いだ灰人形とその隣に艶やかな黒髪の少女が立っていた。
「追手はいないみたい。良かった。ちょっとドキドキしちゃった」
この状況を楽しんでいるような弾んだ声で少女が呟く。灰人形は口が無いため喋れないのか、そもそも意志がないのか、黙って少女の隣に待機している。
「何が目的なの」潔乃は努めて冷静に問い掛けた。
「うーん、どうしようかしら。教えてあげようかな?」
「柴君は関係ないでしょ。解放して」
「いやよ。だって怖いじゃない。貴方なにか隠し持ってるわよね?」
ギクリとして思わず目を逸らしてしまった。輝石のことが気付かれている。外で使ったことなどないのに。いつも部屋の中で火車相手に練習してて……そう言えば火車の姿が見当たらない。護衛の陰陽術士たちの陰もだ。私が走って逃げてしまったから。その間に奇妙な空間に攫われてしまった。
「この子がどうなってもいいのなら、抵抗なさい。かよわーいこのわたしでも今の季節だったら人間一人を窒息させることくらいできるのよ」
少女が目の前に手を掲げると、手のひらから白い冷気が上がってきた。きらきらと輝くそれはやがて颯真の顔を包み込んだ。颯真の表情が苦しみに歪む。
「やめてっ! 分かった、言うこと聞くからっ……」
「いい子ね」
ふっと微笑んで少女は掲げた手を下げた。冷気が空気中に散っていった。
「わたしね、貴方に協力してほしいの。貴方は玄狐をおびき寄せるための、おとり」
「……! 彦一君になにをするつもりっ?」
「ひみつ」
「お願い、あの人を傷付けないでっ! 私じゃ、私じゃだめなのっ? 彦一君の代わりに私がっ……」
「……」
少女の顔から笑みがすっと消えた。人形のような白い肌に影が落ちていた。少女は潔乃に近付くと強引に顎を掴んだ。
「健気ね。きっと誰もが欲しがる高潔な魂なんでしょうね。でもわたし、あんたみたいに甘ったれた子供が一番きらい。当然に愛されて生きてきたって顔してるわ。必要なものは全部最初から持ってて、欲しいものは当たり前のように与えられて。でもね、よく考えてごらんなさい。あんた、自分の力で手に入れたものなんて何一つないじゃない。玄狐の心が欲しいんでしょう? ……フフッ。頑張って、あんた一人の力で手に入れてみなさいよ」
少女は最後に意地の悪い笑みを見せた。その直後、何もない空間が硬質な音を立てて割れた。
視界が切り替わって、潔乃は目を見開いた。岩壁に埋もれた社殿、積み上げられた斎木、斎木の奥に設置された祭壇……普段と様子が大きく変わっているが、自分は確かに、円窟神社奥社の敷地内にいた。
「お前はっ……」
しわがれた声が背後から聞こえた。振り返るとそこに天里がいた。しかし普段の威厳を湛えた表情は崩れ、目を大きく開いて青ざめていた。
「久しぶりね、天里。わたしのこと覚えてる?」
「何ということだ……」
深い息を吐きながら、消えていくような弱い声を出した。潔乃は天里の元へ駆け寄ろうとしたが、灰人形に制止されてしまった。
「天里さんっ」
「……
「あら、名前まで覚えててくれたの。記憶力がいいのね。わたしがこれから何をするつもりなのかは……役者が揃ったら教えてあげる」
潔乃は天里と、氷蓮と呼ばれた少女の両方へ視線を巡らせた。知り合いのようだが、明らかに敵対している。潔乃は隙を見ていつでも颯真を助けられるよう、懐に忍ばせた輝石を握っていた。
突然目の前の空間が蜃気楼のように揺らいだ。そこから大きな黒い獣が飛び出してきて、忽ち己の身体を焼いた。炎が人影を作り出した。
「伊澄さん!」
彦一が血相を変えてこちらに走り寄ろうとする。しかし潔乃は髪の毛を掴まれ、捕らえられてしまった。氷蓮が潔乃の喉元に手を当てる。その手は氷に覆われ、鋭いナイフのように先を尖らせていた。
「彦一君っ!」
「お前っ……!」
彦一が牙を剥き出しにして唸るような低い声を出した。喉の奥から重たい威嚇音が聞こえ全身から黒炎が噴き上がっている。逆立った髪の毛が一目で興奮状態であると分からせた。
「その娘を離せ。さもなくば殺す」
「相変わらず狂暴なのね……ねえ、わたしのことが分かる?
「……?」
彦一が怪訝な表情を見せた。何を言われているのか分からない様子だった。すると、氷蓮がスカートのポケットから手のひら程の箱を取り出し、さらにその中から透明な液体の入った筒状の物を手に取った。注射器だった。氷蓮がそれを灰人形に渡すと、彼は担いだ颯真をぞんざいに投げ捨て、のしのしと不細工な足取りで彦一に近付いた。
「この子を殺されたくなかったら、大人しく従いなさい」
「……」
「やめるんだ氷蓮。お前が何をしても玄狐を殺すことはできない。お前の復讐は果たされないとあの時説明を」
「うるさい。老いぼれは黙ってて」
天里との会話で、氷蓮の気が一瞬逸れた時だった。潔乃は輝石に込めた力を解放した。
「!」
光が弾けて無数の粒子がきらきらと辺りに降り注いだ。幻みたいな光の軌跡が宙を照らしていく。氷蓮と灰人形の身体が巨大な手に掴まれたかのように硬直した。もがいても振りほどけない。二人は見えない力に為すすべもなく縛られていた。
「このっ、小娘……!」
「彦一君逃げてっ――!」
彦一と目が合った。その瞬間喉に亀裂のような痛みが走った。熱い。息ができない。喉の奥から灼熱が込み上げてくる感覚がして――
それを最後に、潔乃の視界は暗く閉ざされてしまった。
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