⑤-6

 霊峰・龍麟岳を拝する龍麟教最大の祭典が、厳冬を迎える十二月二十四日に斎行される。その祭名を「大御神火祭だいごじんかさい」と言う。

 御神火祭は冬の間閉鎖されている円窟神社奥社で執り行われ、龍麟教の信徒が百万本の祈願斎木を宵の時間帯に焚き上げる秘祭である。午後十時頃、中社にたいまつを手にした信徒が集まり奥社参道を通って祭場に向かう。祭場には丹念に積み上げられた斎木と祭壇が設けられ、御神体である御神輿が据え置かれる。そして大教殿から御神火が奉納され、斎木に点火される。

 大教殿の御神火に御神徳を宿すのは玄狐の役目だ。何百年も守られ続けてきた火祭に、主祭神が欠席する訳にはいかない。彦一は京都から木蘇へ呼び戻されていた。

「ちょうど今日終業式だろ? 久しぶりに学校行って来いよ」

 道場に籠って座りながら弓の手入れをしていると、朝食を終えた孝二郎が顔を見せに来た。孝二郎も彦一もこの数か月間すれ違いで家を留守にしがちで、顔を合わせたのはおよそ二か月ぶりだった。聚華楼潜入調査から九日経った今も彦一は碌に食事を取っておらず、朝食の場にも参加しなかった。休んでいる時間が勿体無かった。もう少しで犯人に辿り着けそうなのに、後一歩届かない。そのもどかしさに苛立ちが募っていた。

「必要ない。もう学校に行くつもりはない」

「成績表取りに行けよ。課題も新しいの貰ってきてさ」

「意味ないだろ、そんなことしても」

 木蘇が襲撃されて厳戒態勢が敷かれて以降、学校には行っていなかった。別に退学しても構わなかったが孝二郎の反対があって一応在籍はしている。しかし出席日数は足りないし単位の代わりとして特別に出された課題類も溜め込んでいるのでこのままだと留年は不可避だろう。自分の人生に学歴など必要ない。全て終わったら、学校は辞めるつもりでいる。

「お前伊澄ちゃんには会ってるか? こんな状況で、不安に思ってるだろ。側にいてやれよ」

「……」

 彦一は呆れ顔で自分を見下ろす孝二郎へ視線を向けた。髪型で上手く隠しているが、側頭部に傷跡が残っている。今後何十年と消えない傷跡だろう。人間は脆い。俺が代わりに傷付けば良かったのに。

「優秀な護衛役が投入されたんだ。俺である必要はなくなった。それより俺はこの一連の事件の元凶を」

「本物の馬鹿だなお前は。優秀だとかなんとかって、そんなの伊澄ちゃんにとっては重要じゃねえんだよ。あの子に必要なのはお前なんだよ」

「……そんなこと、なんでお前に分かる」

「聞いてねえけど分かんだよ。そうやってすまして気付かないふりするのはもうよせ。鈍いお前だって勘付いてんだろ? 伊澄ちゃんはお前のこと」

「いい加減にしてくれ」

 朝の冷え切った空気に、強く重い声が響いた。声は微かに震えていた。怒りとも悲しみとも受け取れる響きだった。

「仮にそうだとして、俺に何ができるって言うんだ。あの娘の人生に深く関われって言うのか? 俺はだ。ごく普通の女の子に影響を与えていいはずがない」

「……そんなの、お前のせいじゃ」

「俺のせいじゃない? 何度言えば分かる。そんな風に割り切れるはずないだろう。全部覚えてるんだ、も、も。あれは確かに俺の意志だった。目の前の人間が憎くて仕方がなかった。いつまたあんな風に暴走するか――俺は二度とこの世に出て来てはいけない存在だったんだ」

「じゃああの時、また岩戸の奥に封じられた方が良かったって言うのか? 今までのことも全部無駄だったのか? 俺のことも?」

「起こしてくれなんて頼んでない」

 殴られる、と思って身構えた。取っ組み合いの喧嘩は孝二郎が十代の頃に何度かした。掴み掛られることを想定して目を瞑っていたが、いくら待っても相手の反応は返ってこなかった。

「……」

 見上げるとそこには、瞳に何の光も宿さずにただ口を結んでいる孝二郎の白い顔があった。彫像のように生気のない表情に、深い失望が見て取れた。怒りを期待していたのに。彦一は目を見張った。

「……悪かったよ」

 聞いたことのないくらい冷たい声色で孝二郎が呟いた。そのまま踵を返して戸口の方へ去る。扉が閉まる音がして、道場に再び静寂が訪れた。

 殴ってほしくて孝二郎を利用しようとした。俺は何をしている。もうぐちゃぐちゃだ。こんなにも自分の感情の発露を制御できないことなど、今までなかった。上手くいかない歯痒さを兄弟にぶつけてしまった。情けなさで頭の中がさらに掻き乱される。

 言い過ぎた。今度顔を合わせたらちゃんと謝ろう。

 いつか来るはずの「また今度」を信じて疑わないくらいには、彦一にも甘えがあったのかもしれなかった。


 終業式が終わり教室で教師の挨拶を聞いた後、二学期最後の会は解散となった。教室を出て行く生徒たちは、友人とふざけ合いながらどこかホッとした笑みを浮かべていた。冬休みが始まる前の浮かれた雰囲気が、校舎を包み込んでいた。

 颯真は校庭の隅で部員と雑談をしていた。この後部活のミーティングがあるからだ。この馬鹿みたいに寒い冬空の下に生徒を集める決断をした顧問の常識を疑った。部室がないとはいえ外に集合させるか普通。空き教室を借りるなりなんなりしてほしい。

 しばらくすると女子の話し声が聞こえてきて、颯真はそちらに目をやった。上半身だけ厚着してもこもこに膨れた女子部員たちが歩いてくる様子が見えた。中心に潔乃がいた。暖かそうなマフラーと紺色のダッフルコートに、他の女子生徒より少し長い膝丈のスカート。すらりと伸びた脚が寒そうで、でも冷気に晒された白い肌が綺麗で思わず見惚れてしまい、颯真は慌てて目を逸らした。

 ミーティングはつつがなく終わり、あっという間に解散になった。冬休みの間も体調や事故に気を付けて過ごせとかそういう話。颯真はミーティング中、上の空だった。この後潔乃に二人で話せないか事前に連絡してある。伝えたいことがあった。今日言わなければもうタイミングがない。

 女子部員と会話をしている潔乃を少し離れた場所で待った。心臓が高鳴って手に嫌な汗が滲んでくる。颯真は気持ちを落ち着けるために深呼吸しながら顔を上げた。すると、体育館へ続く渡り廊下に一人の男子生徒が出てきたのが見えた。近い場所にいるがこちらの存在には気付いていないようだ。彼は何かを探すようにきょろきょろと視線を巡らせ、ある一点を捉えた時、能面みたいな仏頂面を不意に綻ばせた。

(あ――……)

 視線の先に潔乃がいた。彼女の周りを囲んでいる女子たちは全く眼中にない。ただ潔乃だけを見つめて、穏やかに微笑んでいた。

(やっぱりそうか……)

 久しぶりに学校へ来たと思ったら目的はそれか。何を考えているか分からない、という印象が百八十度ひっくり返った。こんなにも分かりやすいじゃないか。

(邪魔はさせない)

 颯真は黒髪長身の同級生に敵愾心を燃やして、ポケットに突っ込んだ手を強く握り締めていた。


「あのさ、八柳君、三学期は来られると良いね!」

 部活のミーティングが終わった後、玄関に戻ると仁奈や美夜子がいた。仁奈が励ますような口振りで彦一のことに言及し、潔乃の肩に手を置いた。二人にはこの数か月間ずっと心配を掛けている。何でもないように振舞おうとするのに、気を抜くと沈んだ表情を見せてしまっていた。

「……うん、家のこと、落ち着くといいよね」

 彦一は「家の手伝いが忙しいから学校を休んでいる」ことになっている。結局終業式に顔を出さなかった。ホームルームにも出席していない。もう、毎日を一緒に過ごした日々は二度と戻ってこないのだろうか。……来年はもしかしたら、私はここにいないかもしれないから。

 仁奈たちと笑顔で別れてから、入れ違いに颯真が玄関口へ入ってきた。話があると呼び出されたのだが、外は寒いのでひとまず校舎内へ戻ってきた。生徒たちが去った後の誰も居ない昇降口ホールで、潔乃は彼を迎えた。

「今日も寒いね。雪降るかもしれないね。明日はホワイトクリスマスになるかな?」

「……」

「えっと……それで、話って何?」

 どうしてか口数が少なく深刻そうな表情をしている颯真に、潔乃は困ってしまった。いつも子供みたいに無邪気に笑っているから。自分に対してこんな風に真剣な顔を見せるのは初めてだった。

「……伊澄ってなんかさ、雰囲気変わったよな」しばらく沈黙が続いてから、颯真が口を開いた。

「そうかな? どこら辺が?」

「なんていうか、髪の毛とか綺麗にしてるし、大人っぽくなったような気がする」

「ほんとにっ?」

 予想外のことを指摘されて思わず距離を詰める。驚いて颯真は仰け反ってしまった。潔乃は慌てて一歩後ろに下がり、気まずそうにへらりと笑った。

 貯めていたアルバイト代で高価なヘアミルクを買って髪の手入れをしていた。颯真が気付いたということは男の子でも分かるくらいの変化があったということだ。潔乃は途端に嬉しくなって、しかし一瞬後には気落ちしてしまった。こんなことをしていたって、一番褒めてもらいたい人は自分のことを見てくれない。

「ははは……ごめんね急に。褒めてくれてありがとね。話の邪魔しちゃった。それから……何?」

「あ、いや、その……つまり……予定を、聞きたくて」

「予定?」

「……明日のクリスマスさ、空いてる?」

「えっ」

「二人でどっか遊びにいかね?」

「え、ええっと……ご、ごめん、明日は神社の……お祭の、本祭があるんだ。私手伝いに呼ばれてて……」

「終わってからでいいからちょっと時間取れないかな」

「……急にどうしたの……?」

「急じゃない。俺はずっと前から伊澄と二人で出かけたかったよ」

 顔に苦悩を浮かべて颯真が近付いてきた。潔乃は狼狽えて後退りをしたが、ホールに置かれたソファーにぶつかってそれ以上は逃げられなかった。颯真の只ならぬ雰囲気に、咄嗟に嘘を吐いてしまった。本当は手伝いなどに呼ばれていない。

「まだ俺のことただの友達としか思えないか? 身長だって伸びたし大会で成績も残した。そりゃあ俺より凄い奴なんてたくさんいるけど、俺、伊澄に釣り合うような男になりたくて今まで頑張ってきて」

「し、柴君、落ち着いて……」

「伊澄が俺のこと何とも思ってないの分かってたけど、それでも男の中じゃ俺が一番伊澄と仲良いって自信あったから、いつか絶対って、そんな風に思ってて」

「ちょっと、待って、」

「俺……中学の頃から、ずっと好きだったんだ、伊澄のこと。俺と付き合ってほしい」

 颯真が真っ直ぐに目を合わせて、頬を赤く上気させて、一生懸命に言葉を紡ぐ。前のめりなって訴えてくる相手の迫力に気圧されてしまっていた。こんなに身長差があっただろうか。中学の頃は自分の方が大きかったのに。潔乃は顔を赤くさせて俯いた。冗談……な訳がない。どうして今まで気付かなかったんだろう。周りから茶化されても二人して「ただの友達」だなんて宣言してきて……でもそれが、颯真にとっては違っていたのだ。ずっと辛い思いを、私がさせていたんだ。

(どうしよう、どうしよう)

 何を言えば颯真を傷付けずに済むのか、潔乃には分からなかった。颯真の気持ちに応えられない理由が明確にあるのに、それを口に出すのが躊躇われて、潔乃は固まってしまった。

「俺じゃ、だめか? ……他に好きな奴が、いるのか?」

「……」

 その時だった。ギィ、と木製の板が軋む音が聞こえて、下駄箱の陰から一人の男子生徒が姿を現した。

「……ごめん。聞くつもりはなかったんだけど、聞こえてしまった」

 彼の姿を目にして、息が止まった。なんで。どうして。今日も学校に来ていなかったはずだ。よりによってなんで今ここに。隠れていた? きっと下駄箱の近くに私がいたからだ。避けられていたんだ。

「ひこ……ち、くん……」

 声が掠れて上手く言葉が出てこない。焦りと緊迫感とで心臓が痛いほど強く鼓動していた。

「八柳っ……! お前、何しに来たんだよ!」何故か喧嘩腰の颯真に潔乃は血の気が引いてしまった。

「柴君っ、なんでそんな言い方」

「邪魔しに来たのかっ? お前伊澄を散々心配させといて今更っ」

「待って、落ち着いて柴君っ。私は大丈夫だからっ……彦一君は悪くないからっ……!」

「……っ! 伊澄、この際だからはっきりさせてくれ! 伊澄は八柳のことっ――」

「やめて! それ以上言わないで……っ!」

「……伊澄さん、」

 抑揚のない低い声が響いた。ほとんど泣きそうになりながらも必死に保っていた緊張の糸が、さらに張り詰めた気がした。嫌な予感がする。この先の言葉を聞きたくない。お願い、それ以上続けないで――

「応援する。お似合いだと、思う」

 無感情な冷たい響きだった。潔乃の眼から大粒の涙が零れ落ちて、床に点々と染みを作った。

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