⑤-2

 浮き城城主高十勝政たかとおかつまさからの報告は、不可解なものであるらしかった。勝政は戦国時代の猛将で、死後も数多の部下の亡霊と共に高十城に縛られている地縛霊だという。大禍時にしか姿を現さない特殊な悪霊で、天里とは古い因縁があると聞いた。好戦的で享楽的だが悪霊の類に造詣が深く、常に自身や多くの部下の力を使って物の怪の動向に目を光らせているらしい。

 そんな亡霊の主から、大洪水の日に緊急の知らせが入った。勝政曰く〝弱くて厄介な怨霊の類〟の侵入を感知したという。下位の怨霊など無数に存在する。だが、天里や彦一には判別がつかないくらいの、奇妙な特徴を持った怨霊が勝政の目に留まった。その一報を受けて以降、潔乃は木蘇への訪問を制限されている。故にこの二か月以上の間、天里や孝二郎たちに会えていない。……それに、護衛役であるはずの彦一にも。

(みんな今頃なにしてるんだろう……)

 潔乃はベッドに寝転がってお気に入りのぬいぐるみを抱き締めた。子供の頃に買ってもらった銀狐のぬいぐるみだ。所々ほつれてはいるが修復しつつ定期的に洗っているのでまだかなり綺麗な方だと思う。

 横になった潔乃の上に火車が乗ってきた。身体の上でぐるりと一回りした後に潔乃の腹の上で足踏みを始めた。体重十キロはある獣に腹をふみふみとされて息が詰まった。好きな時に実体化できるようで潔乃と寝る時はわざわざ重みを感じさせてくる。首には潔乃があげた赤いリボンが付けられている。気を許してくれたのかはたまた嫌がらせなのかは分からないが、潔乃が眠る時は必ず火車も側で眠る。潔乃は火車の温かくて柔らかな身体を撫でた。彦一が離れてからずっと、彼女が護衛の役割を果たしてくれていた。

(今どこにいるの……彦一君……)

 大洪水の翌日から彦一の姿を見ていない。授業にも出ていない。連絡も取れない。彼が何をしているのか誰からも教えてもらえなかった。ここ数か月で京都から有力な陰陽術士が次々と松元入りしているという話は聞いた。彼らが警備してるので安心していいという説明を受けたが、潔乃にとってはそんなこと、どうでも良かった。


 母屋から続く石畳の小道の先に、寂れた離れがひっそりと佇んでいた。古い土蔵を先代の時に改装したもので、離れの中には湿気た畳の匂いと共に静寂が広がっていた。古びた調度品や掛け軸、埃を被った本や古文書などが、その空間に風格と歴史を感じさせる。天井近くにある唯一の窓は小さく、外の光がかすかに差し込んではいるが、それは暗い室内を温かく照らしてくれるようなものではなかった。閉ざされた空間が時間の経過を曖昧にさせるような錯覚を生んでいた。

 そんな薄暗く寂しい部屋の隅に、なお一層濃い影が落ちていた。壁にもたれ力なく足を投げ出している年齢不詳の男だった。ともすると死人と見間違えてしまう程その風貌はみすぼらしく、乱れた長い黒髪が俯いた彼の顔をほとんど隠してしまっている。色褪せた麻の着物には焦げたような跡があり、はだけた衣服から覗く肌も土や埃で汚れてしまっているが、それでもなお艶と張りが感じ取れるため、彼がまだ十代後半の若者であることが分かる。

 声を掛けても青年の反応はない。呼吸はしているが俯いた彼の表情からは生気が感じられない。封印が解かれてから二十日間、状態が一向に変わらなかった。


『いやだっ! やめろよ! 連れて行くな!』


 戸口の向こうから少年らしい高らかな声が聞こえた。複数の気配と共に軽そうな足音がばたつく様が耳に届く。足音は一つだ。気配の正体は恐らく監督官の引き連れた式神の類だろう。

 少年の声が聞こえた瞬間、若者が項垂れた頭を上げた。獣のように鼻をひくつかせ、蔵の出入り口の方へと顔を向ける。鎖骨辺りまで伸びた長い髪がはらりと流れて顔の半分が露わになった。薄くかさついた唇が少しだけ弧を描いた。深い琥珀色の瞳に、微かに光が宿っていた。

 ガサリと古ぼけた重たい音がして戸が開いた。黒い装束を纏った人形達がぞろぞろと一様な動きで、まるで一体の存在のようにして部屋に入ってくる。足音もなく静かに整列する様は、まさしく亡霊そのものだった。


『出ていけ! このっ……! ばけものっ!』


 少年は激しく抵抗し、声を荒げて叫んだ。恵まれた容姿の中性的な少年だ。小柄で線が細く、その顔立ちは十歳そこそこの少年とは思えないくらい整っており、輝かしい美貌が見る者全てを惹き付ける程だった。

 黒装束の集団が青年を取り囲んだ。その佇まいには不気味さと儀式的な重厚さが交錯していた。少年が集団を掻き別けて青年の前に立ち、集団と対峙した。青年を守る様に両手を広げる。


『連れて行かないで! なんで勝手に悪者扱いするんだ! ひこにぃは人を傷付けたりなんかしないっ……!』


 先程までの威勢の良さは消え、涙交じりの声で少年は訴えた。広げた両手が不安そうに震えている。すると突然、黒髪の青年が立ち上がった。少年を抱え背中に隠し、式神の群れを鋭い眼光で睨みつけた。牙を剥き出しにして低い唸り声を上げている。


『やめるんだ』


 事の成り行きを見守っていた老婆が突如として口を開いた。威厳の備わった掠れた声が険悪な空気を制した。

 老婆は迷っていた。青年の処遇について考えていた。人間にとっては途方もない時間を隔てた今、青年が背負った罪を彼自身が清算できるのか。新たな生を歩むことに彼は耐えられるのか。それとももう一度暗く冷たい洞の中に閉じ込める事が、彼にとっては最善の選択なのか――

(憐れだよ……今頃になって再びまみえることがあろうとはね)

 老婆が歩き始めると、集団が道を開けた。幼子を庇う心優しき青年を目の前にして、老婆は眩しそうに目を細めた。あの時、儂はこの子に何もしてやれなかった。今度こそ、彼を救ってやりたい。方法を探さねば。この子のを解けるとしたらそれは――


 言い争っているような男女の声が耳に届いて、天里は目を開けた。彼女は中社月陰の間に居た。古びた土蔵の中ではなかった。少し休んでいる間に昔の記憶が呼び起こされたようだ。

「俺は反対だ。この件が終わったらあの娘は普通の生活に戻る」

「普通の生活、ですか。もうそんなこと言っていられる段階ではないような気がいたしますが」

「力には責任が伴う。使い方を誤ればあの娘自身を破滅へ導くことになるぞ。適切な訓練も受けないままに力を振るえばどうなるか」

「彼女は毎日修練を積んでいますよ。とても一生懸命です。よっぽど彦一さんに認められたいんでしょうね」

 月陰の間の扉ががらりと開いて、彦一と春枝が入ってくる。春枝は涼し気な表情を崩さないが、彦一の方を見ると、珍しく気が立っているのか不機嫌そうに目元を険しくさせていた。

「天里」彦一が苛立ちを隠しもせずにこちらを睨みつけてきた。

「何故伊澄さんに輝石を渡した。何故それを俺に教えなかった」

「お前さんが知ろうとしなかったからだね」

「なんだその無責任な物言いは。力を手に入れればあの娘が何をするか、天里も分かっているだろう。彼女に荷を背負わせるつもりか。あの娘ならきっと、危険な目に合っても周りに迷惑を掛けないように一人で対処しようとするだろう。もしかしたら他の保護対象も守ろうとするかもしれない。絶対に他人のために無理をする。伊澄さんはそういう人だ」

 怒っているような焦っているような、そんな表情だ。いつもより早口で捲し立てる彦一が余計に不憫に思えた。そこまで彼女のことを大切に思っているのなら、何故側にいてやらない。

「とにかく、あの娘にはこちらの世界に深入りしてほしくない」

「本人がそれを望んでもですか?」

「駄目だ。伊澄さんを日常の生活に戻すのが俺たちの役目だろう」

「……彼女が同年代の子より聡明で判断力もあることは彦一さんもお判りでしょう。何をそんなに怖がっているのです」

「怖がる? どういう意味だ」

「……出過ぎた真似をいたしました。私の口からは、これ以上は」

 口を噤んだ春枝をさらに問い詰めようとする彦一を、天里が声を投げて制止した。

「もう止めな。この続きはまた後にしよう。今は大橋殿の報告を聞くぞ」

 天里はそう言って二人を窘めた。そして、先程から三人のやり取りを静観していた大橋の方へ目を向けた。彼はピリついた雰囲気を意に介さず、やんわりと微笑んでいた。

「久しぶりですねえ、彦一くん」張り詰めた空気に場違いな柔らかい声がその場に響いた。

「……それで、調査の方は」

「せっかちだなあ。世間話でもしましょうよ。天里さんから聞きましたが、木蘇の復興もだいぶ進んでるみたいですねえ」

「そんな時間はない」

「おや。これは聞いていたより重症だ。君があちこち駆け回っていたのは知っていますがね、そんなに思い詰めた態度じゃあ連れて行ってあげられませんよ」

 大橋はにっこりと笑って、立ったままの彦一に座るよう促した。笑い皺が目元に深く刻まれていた。

「本山の様子はどうだい」天里が尋ねた。

「及び腰ですね。最低限の協力はしてくれましたが、結局一番厄介なところが残っちゃったなあ。俺は今日それを伝えに来ました。彦一くんに、潜入調査を依頼したい。これまでの調査で唯一意識的に避けられていた場所、京都祇園地下歓楽街――聚華楼じゅかろうへと、俺と一緒に来てもらいます」

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