④-13

 大黒蛟との戦いがあった、その日の深夜。大橋の報告を聞いた後、彦一は月陰の間で天里と言葉を交わしていた。壁にもたれて力なく足を投げ出している。既に傷は完治しているが、その顔には生気が感じられなかった。

「中央会に報告するのか」

「当然するさ。神話級の化け物が目覚めさせられたんだ。第一報を入れた時から中央会も本山も大混乱だよ。今頃対策本部でも立てて唸ってるんじゃないかね」

「そうじゃない。……玄狐の暴走のことだ」

「暴走? なんのことだい。大規模な掃討作戦に伴って戦闘区域を焼いただけだ。詰められはするだろうが文句なんぞ言わせないよ」

「天里……俺は……」

「悔やむんじゃない。ああしなければお前さんがやられていた」

 蝋燭の灯りがじりりと揺れた。彦一は頼りないその揺らぎを何となしに眺めていた。吹けば忽ち消えてしまう火だ。永遠に燃え続けることのない、ありふれた火。

「……儂は、あの子に謝らねばならん」

 長い沈黙を破る様に天里が口を開いた。蝋燭の控えめな灯りの下で書き物をしている背中へ、彦一は視線を向けた。

「木蘇を護る者として、同時多発的に災害が発生するのを防ぎたかった。そのためにあの子をここへ招き入れた。彼女が蛟を引き付けてくれれば対処がしやすいだろうと。要は、あの子に囮になってもらおうと考えた訳だ」

「彼女は最初からそのつもりだったよ」

 筆を持った右腕の動きが止まった。

「具体的には言わなかったけど、いざという時は自分を使ってほしいって、俺に」

「……どうしてそこまで……」

 彦一は何も答えなかった。その代わりにこれからのことを天里に問うた。

「今後、どうなる」

「……敵の能力が想定よりも高い。今まで通りとはいかないね。こんな山奥の木蘇を切り崩す労を割く理由も分からん。高十の目を掻い潜る力があるなら松元なんぞはとうに敵の庭だろう。それについては先刻高十から知らせが入った。明日の夕刻に着くようにお前さんは勝政かつまさのところへ向かってくれ」

「……分かった」

「敵の狙いはなんだ? あの子が目的ではないのか? 何故我々を疲弊させた後に追撃してこない。他に企みがあると考えた方が合点がいくね。高い魂力を有する子供たちはあの子以外にも全国各地にいる。いくら彼女が貴重な心臓を持っているにしても彼女一人に狙いを定める利点がない。言い方は悪いが、もっと接触しやすい子供を狩る方が効率が良いはずだ。しかしそんな異変が各地で起きているという報告もない。その上、物の怪による本能的な襲撃ならまだしも、人間がたった一人の魂力を得てどうしようと言うんだ。術士が関わっているとしたら本山や中央、全国の講社を敵に回す危険性と見合わない。他に中央に匹敵するような勢力があって本山に裏切者や内通者がいるのか? そもそも五月の襲撃と今回の件はまた別のものであの子とは関係がないのか? いやあるいは――」

 そのまま天里はぶつぶつと独り言を呟きながら考え込んでしまった。木蘇地域が襲われたことで単純にあの娘を護衛していればいいという話ではなくなってしまった。これはいつでも木蘇を壊滅させられるぞという敵の宣戦布告なのだろうか。何故このような強大な力を持つ者が今まで隠れていられたのか。一体何が起きている。疑問は尽きないが、ともかく水面下で何者かが暗躍していることは確かだ。

 彦一は天里の丸まった背中を見つめた。一番聞きたいことをまだ聞けていない。

「……あの娘は、伊澄さんは、どうなる」

「ふむ……しばらくはこのまま我々の預かりだろうが、こうも事態が深刻になってくると上が何か要求してくるだろうね。権限を返上せよ、などと言って」

「途中で放り出すのか」

「諸々の問題を考えると、我々だけでは手に負えない。京へ護送することになるかもしれない」

「敵が京にいる可能性があるのにか?」

「こうなったらどこにいても変わらん。それなら情報が集まる場所の方がいい。大橋殿が安全な場所を手引きしてくれるだろう。鞍午なんかは相応しいと思うがね」

「家族や友人から離して、不自由を強いるのか」

「……命には変えられん」

「敵を見つけ出せばいいんだな」

 彦一の声が静かに夜の闇を震わせた。感情を乗せない冷淡な声だった。

「敵対者を全員探し出して、俺が殺す」

「……強い言葉を使うな。本物の獣になっちまうよ」

 それ以上交わす言葉はなかった。彦一は黙って月陰の間を後にする。疲労感は残っていたが、休みたくはなかった。どうせ眠らなくても済む身体だ。このまま夜の内にここを出て高十へ向かおう。今から行けばあいつの時間に間に合うかもしれない。

 水分を含んだ冷ややかな風が彦一の頬を撫でる。中秋の月が耿々と冴えわたっていた。彦一の瞳に、暗い陰が落ちていた。

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