④-11

 木蘇川の中流に寝覚谷という名勝がある。白く大きな花崗岩が重なり合い、急流がその下深くへ流れ落ちている。箱の様に直線的な花崗岩が並ぶ光景は、自然のものとは思えない不可思議な印象を見る者に与える。普段は美しいエメラルドグリーンの水流と白い岩肌が作り出す特徴的な景観を見に来る観光客で溢れている場所だが、大雨警報が出されている現在、寝覚谷は人間では到底寄り付けない荒くれた環境と化していた。

 そこに一人、谷を見下ろす者がいた。暗闇と同化しているかと見紛うような黒色の装束と、艶のある濡羽色の翼の持ち主――鞍午の烏天狗、大橋だ。

 大橋は真剣な眼差しで谷全体の様子を窺っていた。普段と違って眼鏡を掛けていないため鋭い印象を受ける。大橋の視力は烏天狗の中でも突出して高く人間の十倍以上はある。それ故普段は周りに合わせて特殊な眼鏡で視力を矯正しているのだった。

 どぷん、と、川が大きく波打った。流木や瓦礫の類ではなく、生物の気配がする。激流の中を平然と進むような化け物が鳴りを潜めている。大橋は厳しい顔つきで川面を睨んだ。

 水面を激しく揺らして川底から巨大な物体が迫り上がってきた。乱れた水流が花崗岩にぶつかり荒々しい音を立てる。まず黒い斑模様のある暗褐色のぶよぶよとした皮膚が見えた。身体の大部分が水面から出ると、大きく扁平な頭を持つ生物だということが分かる。顔が横半分に裂けて見えるほどの存在感のある口。胴は長く手足は短い。その形態からして、オオサンショウウオと見て間違いない。全長は推定二十メートル程なので当然一般的なオオサンショウウオではないのだが。

荒御魂あらみたまかあ。ようけ栄養貰ろたんやねえ」

 大橋は岩の上から飛び立った。ばさばさと濡羽色の翼を羽ばたかせ降下していく。そして岩場に這い上がってきていた怪物の頭上で停空した。彼の手には錫杖の代わりに三鈷柄剣さんこづかけんと呼ばれる黒漆の剣が握られていた。銘は無く重ねの厚い剛剣である。両刃造もろはづくりという刀身の両側に刃を付けた造りで、剣故に反りがない。大橋は戦闘の際、場合によっては敵を突いたり叩いたりするので湾刀よりも厚みのある直刀を好んで使用していた。

 ぬらぬらとした不気味な生き物がこちらに気付いて見上げてくる。大橋は剣を振り上げた。すると、およそ八十センチメートルの刀身の周りに、シュウシュウと音を立てて風が巻き起こった。風は激しさを増して吹き荒れ大橋の髪や衣服をはためかせる。まるで嵐を纏っているかのようだった。

 オオサンショウウオがその大きな口をぱっくりと開けた。それから大橋目がけて飛び掛かろうと短い手足を折り曲げた時だった。突如暴風が吹き抜けた。大橋が振り下ろした剣から放たれた風が竜巻の様に渦巻いて、化け物の口内をズタズタに切り裂いた。風はそのまま頭を突き破って、自然に消滅していった。事切れた巨体がゆっくりと傾き川面にその身を打ち付ける。オオサンショウウオは大量の飛沫しぶきを巻き散らした後、水底へと沈んでいった。一度ああなってしまったら元には戻れまい。一思いに葬ってやるのがせめてもの情けだ。

(これは想像以上に難儀するなあ)

 大橋は顔色一つ変えずに、今後の事を思案した。物の怪が荒御魂に変異すること自体は稀にあることだ。それが人為的に引き起こされていることが問題なのだ。荒御魂とは魂力の高い神霊の類が、魂の負の側面を何らかの原因で暴走させた状態のことを言う。始末したオオサンショウウオは下等な物の怪であり本来は荒御魂に変異する器にない。それを無理矢理に肥えさせて凶暴化させるなんて……そんな事象は長年生きてきた中で、書物で見たかあるいは噂程度でしか耳にした事がなかった。

(いったん本山に戻らんとあかんわ)

 大橋は剣を携えて谷間を飛翔した。ひとまず今は上流から流れてくる敵を一掃することに専念しよう。玄狐の抜けた穴を埋めるために京から派遣されたのだから、少しは仕事をしないと給料泥棒になってしまう。

 水面にぽつぽつと暗い影が浮かび上がってきた。大橋は剣を構えて、水中に潜む敵の群れへと向かっていった。


「おかえりなさい!」

 透き通った明るい声に意識を呼び戻される。気が付くと参集殿の玄関にいた。髪から滴り落ちる雫を拭うこともせず、彦一はその場に立ち尽くしていた。

 廊下の奥からぱたぱたと足音を響かせて年齢の割に大人びた少女が駆けてきた。すらりとした長身の、そこにいるだけで場が華やぐような、美しい少女だ。まるで彼女の姿を初めて目にしたかのように、思わず見惚れてしまった。

(無事だった……)

 身体中から毒気が抜けたみたいに、胸の辺りを覆った靄が晴れていった。この娘の声が聞きたかった。顔を見て安心したかった。離れてから半日も経っていないのにもう懐かしい感じがする。

「潔乃~疲れたよ~! アタシ久しぶりに頑張っちゃった!」

「ジーナさんおかえりなさい! お疲れ様でしたっ……! タオル使ってください、あっ、イオシフさん待って! 上着預かりますよ!」

「ああ」

「風呂沸いてるー? 全身びしょ濡れでやんなっちゃうよまったく」

「もちろん沸いてますよ! 着替え用意しておくので入っちゃってください」

 三人のやり取りをぼんやりと眺める。何でもない掛け合いが何故か貴重なもののように感じられた。久々に大規模な物の怪狩りをしたせいなのかまだ気持ちが軍場いくさばにあって、上手く頭を切り替えられない。

「彦一君っ!」

 ジーナたちがこの場を去った後、今度は自分に声が掛かった。潔乃が頬を紅潮させて瞳を微かに潤ませながらこちらを見つめてくる。彦一はその視線を正面から受け止められず目を背けた。

「おかえりなさいっ……無事でよかった……」

 無理に笑って泣きそうな声でそんな風に呟くものだから、気の利いた返答の一つや二つ、してやりたかった。けれど胸がぎゅうと締め付けられるだけで何の言葉も出てこない。声の出し方を忘れてしまった。彼女を安心させてあげられない自分を不甲斐なく思った。

「彦一君怪我してっ……!」

 今度は青ざめた表情をして彦一の左脇腹辺りを見つめてくる。血が滲んで制服の白いシャツを汚していた。そう言えば自分は制服を着ていた。昼前まで勉強をしていたのだ、まるで普通の高校生みたいに。

「……こんなのすぐ」

 治る、と言い掛けて、ああこれを言ったらまたこの娘を悲しませるんだろうなと思って、言葉を詰まらせた。それなのに、鈍った頭が続く言葉を勝手に吐き出してしまった。

「……治る、けど、いたい」

 不意に手を取られた。彦一の右手を潔乃の両手がぎゅうと包み込む。彼女からぬくもりが伝わって、その時初めて自分の手が死人のように冷えていることに気が付いた。

「ありがとう……みんなを守ってくれて、ありがとう……」

 今度こそ涙が溢れ落ちて彼女の頬を濡らした。そんな場合ではないのに、玻璃のように輝く涙を、綺麗だと思った。潔乃は自分の顔を隠すように握ったままの彦一の手を額に当てた。しばらくそうしていた。彦一は悲しいくらい無感情な表情で彼女の噛みしめるような嗚咽を聞いていた。どうして泣いてくれるんだろう。俺は君に思ってもらうだけの価値がある男などではないのに。

「彦一君は、木蘇の守り神様だね」と言って彼女は笑った。

「……俺は守り神なんかじゃない……」

 彦一は握られた手を引っ込めた。血と泥で汚れた手だ。触れられる前に振り払わなけばならなかった。彦一は彼女を穢してしまったことを深く悔いた。

 困惑する潔乃の横を俯いたまま通り抜けた。今の自分を彼女に見られたくなかった。彦一は自分を引き止める声を背中で拒絶して、廊下の奥へと逃げるように去っていった。


 守ってあげるつもりでいた。でも実際、救われているのはむしろ自分の方だ。

 登下校を共にして他愛もない話をして勉強して買い食いして弁当まで作ってもらって。決して与えられるはずのなかった平穏な「普通の高校生」の日常を体験できたのは、あの娘が俺を受け入れてくれたからだ。身内以外で人間とここまで深く関わったことはなかった。楽しかった。仕事の一部だと言い聞かせて、この数か月間を、心のどこかで楽しんでいた。

(化け物のくせに人間の真似事をして……)

 玄狐は気性が荒く、凶暴で、残忍な神だ。黒い炎は厄災の力だ。あの娘はありがとうと言って笑ってくれた。俺にその笑顔を向けられる資格なんてない。口元を鮮血で濡らした姿を見たら彼女は二度とあんな風に笑い掛けてはくれないだろう。そう思うと、が確かに痛んだ。

 これ以上一緒にはいられない。本性を隠したままこれまでの生活を続けることなどできない。きっと彼女は幸福な人生を送る。俺はその手伝いをしよう。進学して、就職して、相応しい相手を見つけて、それから――

 彦一は暗い廊下の壁にもたれ掛かった。そのまま壁に沿ってずりずりと頽れる。どこにも行けない自分の生をこんなにも虚しく感じたことはなかった。自分が想像したあの娘の未来に自分がいないことが、何故だか無性に悲しかった。

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