④-10

「彦一!」

 名前を呼ばれ、目を見開いた。混濁した意識が次第に覚醒していって、身体の感覚が正常に戻っていく。目の前の世界には色があった。自分がいるのは白い世界などではなかった。ここが現実のはずだ。それで俺は今、一体何をしている。

「もういい。もう死んでいる」

 イオシフの感情を抑えた低い声が耳に届いた。玄狐は口に咥えた塊を離した。それはべちゃりと粘着質な音を立てて地面に張り付いた。玄狐は急速に力を失いその身を黒炎で焼くと、人間の姿へと戻った。

「……っ……はあっ……はあっ……」

 彦一は脱力して地面に膝と手を付いた。生温い血の感覚。不快な臭いに吐き気がする。そこはぐちゃぐちゃになった肉塊の中心だった。元の形が分からないくらい損壊しているが、恐らく二体分の大黒蛟の死骸だろうということは想像に容易かった。

 ジーナが屈んで彦一の肩に手をやった。けれど声を掛けることはしなかった。彦一は冷静になって辺りを見回す。一面が焦土と化して視界が嫌に開けていた。半径数百メートルが焼野原だ。間違いなく罪のない物の怪や動物たちも巻き添えになって多くの命を散らしただろう。

「……彦一、お疲れ様。帰ろう」

 背中をさすられた。腕を掴まれて身体を起こされた。そこから先のことはよく覚えていない。ただ目の前が真っ暗で、どこへ進んでいるのか分からなかった。


 自分の思考を辿って、悪寒が走った。俺は何を考えていた? 破壊そのものに愉悦を感じていたのか? 無抵抗な相手を執拗に踏み躙った。命を冒涜して弄んだ。あそこまでする必要はなかったのに、どうして止められなかったんだ。

 思えば戦闘が始まった時から何かがおかしかった。冷静さを欠いて暗い感情に呑まれていた。彦一は自分の立場を今一度よく考えた。俺は何のために戦っている。天里は皮肉屋なところがあって分かり辛いが、土地神として木蘇を治め人々の暮らしを守るという矜持を抱いているのを確かに感じる。イオシフとジーナは恩返し、みこまは一族の誇りのために。では俺はなんだ。俺の場合はそんな積極的な理由じゃない。ただの、のためだ。


 彼の心は虚ろだった。化け物を打ち倒したとて満たされるものは何もなかった。灰色の世界で独り、虚空に向かって贖罪を続けるだけの生が、永遠に在るだけだった。

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