①-5

 建物の内外は新しく清潔で、比較的最近建てられたものだと分かる。会議や研修をする部屋が設けられ宿泊もできるので色々と便利に使われているそうだ。そんな説明を受けながら奥へ進んでいくと、他の部屋より高い位置に作られた大広間のような場所に着いた。春枝が先に段差を上がり「お招きいたしました」と言って襖を開ける。孝二郎に中へ入るよう促され潔乃は緊張した面持ちで広間へと足を踏み入れた。

 部屋の奥へ視線を向けると、小柄な老女が座布団の上で正座をしている姿が見えた。俯いた顔に乱れた白髪がかかり影を落としている。皺が深く刻まれた厳しい顔付きに泰然とした貫録を感じる。老女は顔を上げて閉じていた目を見開いた。

「……来たね」

 経文を読むような重くしわがれた声が耳に届く。すると、それまで無言だった彦一が口を開いた。

「天里、霧葉の連中とは連絡が取れたか」

「ああ……既に狒々ひひが動いているよ。やはり辺境の若猿共の仕業らしい」

 〝猿〟という言葉にびくりと反応してしまう。先程の襲撃の話だろうか。ぎこちない動きで老女の前まで歩みを進めると「座ろ」と孝二郎に促された。座布団が前列に一枚後列に二枚用意されており、潔乃が前、彦一と孝二郎が後ろに座った。いつの間にか春枝が用意した茶を運び潔乃の前に置くと、彼女も老女の横で腰を下ろし膝を正して座った。老女は彦一と孝二郎に視線をやり「どこまで説明したんだい」と尋ねた。

「何も」

「全然!」

「……はあ。お前さんよくこやつらに着いてきたね」

 老女は溜息を吐いて顔をしかめた。呆れられたような気がするが自分でも成り行きのままここまで来てしまったので軽率な行動だった自覚はある。でも、何かをせずにはいられなかったというのが正直な気持ちだった。

「まずは自己紹介でもしておこうかね。儂の名は天里。人間に見えるだろうが人間じゃないよ。お前さんたちの言うところの神ってやつだね」

 御神木の化身だという孝二郎の言葉を思い出す。御神木というからには大きな姿形を想像していたが目の前の老女は腰の曲がった細身の、普通の人間にしか見えなかった。千里先を見通す力があるというが具体的に何が見えるのかどう見えるのか、上手く想像ができない。

「我々は尊神講社そんじんこうしゃという団体に所属していてお上から木蘇地域の治安維持を任されている。中央地区の代表でもあるね。治安維持と言っても物の怪の類を取り締まるのが主で、まあ難しいことは考えず怪異専門の警察組織とでも思ってくれればいい」

「警察ってか猟師っぽいよな。獣狩りよくやってるし」

 背後から孝二郎が補足する声が聞こえる。

「そうだね。実際猟友会とも協力関係にある。……さてここからが本題だが、伊澄潔乃さん。心して聞いてほしい。お前さんは特別な魂を持って生まれた特別な人間だ。国の重要な保護・観察対象であり生まれた時から我々がお前さんを保護する役割を担ってきた」

「特別な魂……?」

「そうだ。魂の強さは魂力こんりょくという指標で測られる。これは言い換えると全ての生き物に備わる生命力、気力のことだね。その魂力が高いおよそ七から二十くらいの年齢の人間たちが保護対象になるんだが、お前さんはその中でもずば抜けて魂力が高い。本来なら松元の組織の管轄だがお前さんの場合魂力が高過ぎるから、想定外の危険に対処するために我々が担当することになったんだ。彦一をお前さんと同じ高校に入学させたのもそのためだね」

 天里の言葉を頭の中で一生懸命反芻する。言葉そのものの意味は分かるのに理解が追い付かない。私が特別な人間? 一般の家庭に生まれてごく平凡な暮らしを送ってきた私が、どうして。

 信じられない話だが今はとにかく素直に説明を聞こうと押し黙った。天里は続けて「魂力が高いとどうなるかというと……悪さをする物の怪がいることはお前さんも分かるね。怖がらせるつもりはないが、まあ誤魔化しても仕方ないから正直に話そうか」と前置きをした。一拍置いてから、眉間に寄った皺をさらに深くして口を開いた。

「物の怪が高い魂力を得るために、魂の宿ったお前さんの心臓を喰らいに来る危険性がある」

 寒気のするような緊張が顔を強張らせ、潔乃の眼に恐怖の色が浮かんだ。嫌な予感はずっとしていた。しかし杞憂であってほしいという願いはあっさり砕かれ、現実として突きつけられる。心臓を喰らう……ということはやっぱり、あの時八柳君が助けてくれなかったら私は――

「……知らないままの方が良かったんだろうがね。我々も正体を明かすつもりはなかった。だがそんなことも言ってられない状況になっちまったからねえ……」

 部屋中に重苦しい沈黙が張り詰めた。潔乃は俯いたまま何も言えないでいた。指先の感覚が薄い気がする。自分の手を確認して無意識に痛いほどこぶしを握り締めていたせいだと気付いた。

「伊澄さん」

 彦一の声が静まり返った空気を破るように凛と響いた。

「大丈夫だから」

 短く、感情を乗せない一言だった。でもどうしてか、救われたような気がした。今まさにこの瞬間に誰かに――彦一に言ってほしい言葉だった。

「……そうそう。こいつ反則だろってくらい強いし他の講社の連中も含めてこれまでたくさんの子たちを守ってきたからさ。簡単には信用できないかもしれないけど、伊澄ちゃんが安心して暮らせるように俺たち頑張るから」

 孝二郎もトーンを落とした柔らかな声色で潔乃を励ました。からからに喉が渇き引き攣って返事をしようと思っても声にならない。潔乃はコクリと小さく頷いた。

「警戒するに越したことはないが必要以上に恐れることはないよ。さて、これからの話をしようじゃないか。物の怪に狙われるといってもそれがずっと続くわけではない。厄年という言葉は知っているかい?」

「なんとなくは……」

「厄年ってのは気の流れが乱れて災難を招く年のことさ。人生には厄年が三回あると言われているがお前さんの場合は今年が一番危ない。何故かを説明する前に……魂力と信心しんじんの話をしようかね」

「ばーちゃん急ぎすぎだろー。ちょっと休憩しねえ?」

 孝二郎が足を崩して駄々をこねる子供のように体を揺らした。「やっぱりお菓子を用意した方が良かったですかねえ」と春枝がとぼけるように呟く。

「私、大丈夫です。このまま話を聞いてもいいですか?」

「いや少し休もうか。一度に色んな事を言われても分かりにくいだろう。茶でも飲むといい。質問があれば聞くがどうだね?」

 休憩するよう促されて潔乃は用意されたお茶に口をつけた。渇いた喉に水分が染み渡り息がしやすくなったような気がする。潔乃は顔を上げて躊躇いがちに口を開いた。

「あの、私がなにか恐ろしいものに狙われている……という話は分かりました。でもそれなら、私の家族や友達はどうなりますか? 私のせいでみんなが危ない目に合うかもしれないと思ったら、心配で……」

「……そこは安心しとくれ。彼らには既に松元の関係団体が付いている。お前さんとは違ってこの一年限定だけどね」

「そう、ですか……良かった……」

 目の前が少し明るくなったような気持ちでほっと胸を撫で下ろすと、天里が「優しい子だね、あんたは」と言って僅かに口角を上げた。褒められるとは思っていなかったので慌ててしまう。すると、会話が途切れたタイミングで春枝が立ち上がろうとした。

「お茶請けをご用意しますね」

「あ、大丈夫です! この時間に頂いたら夕飯食べられなくなるので」

「夕飯! 夕飯かあ……いいなあ」

 ハハッと、孝二郎が突然吹き出した。驚いて後ろへ振り返ると孝二郎が口を手で覆って肩をぴくぴくと震わせていた。笑いを堪えている。今の会話の中のどこに笑える要素があったのだろう?

「いやー……ごめんごめん。笑うつもりはなかったんだけど、自分が危険な状況に晒されてるって話を聞いた後に夕飯のことを考えられるのっていいなあと思ってさ」

 相当ツボに入ったようでクク……と喉を鳴らしている。褒められた時よりも恥ずかしくて顔に熱が集まるのが分かった。そんなに笑わなくても……と、孝二郎のことを少し恨めしく思った。

「実際良い心がけだよ。日常生活を今まで通り普通に送ることが一番の対処法だからね。物の怪の類を見ようとしてはいけない。それじゃあ話を続けようか」

 話の流れを元に戻すと、天里は先程言い掛けた〝魂力と信心〟の説明を始めた。

「信心というのは説明が難しいんだけどね、単なる信仰心とは違って……神や霊的なものを認識する能力とでも言えるかね。人ならざるものは人に認識されなければそもそも干渉することができないんだ」

 人間は魂力の高低と信心の深度で大まかに四区分に別けられるらしい。魂力が高く信心が深い者は非常に稀な存在で、孝二郎のように神職の血縁に多いため対処がしやすいという。また、魂力が低い者は信心の深度に関係なく狙われる可能性も低いため保護の対象外だそうだ(現代人はほぼ信心が無いので大抵はこれに当てはまる)。

「そこにいる孝二郎なんぞは信仰心は全くないが、生まれてからずっと我々と共にあるから一般の人間には見えない物を認識する能力が高いんだ。しかも然るべき訓練を受けているから危険に対処もできる」

 ちゃんと敬ってるってーと孝二郎が茶々を入れた。

 ここで問題なのが魂力が高く信心が浅い者で、彼らは講社の保護・観察対象になる。信心が浅いため本来は物の怪からの干渉を受けないが、厄年の間は本人の心持ちに関係なく信心の深度が乱れて物の怪が干渉できるようになってしまう。十代後半を境に魂力が落ちていくので自然と支障がなくなっていくが、故にここに該当する子供が一番危ない。潔乃はこの区分に当てはまる。

「何かがおかしいと感じても、徹底的に無視しなさい。目を合わせると危険だよ。特に大禍時おおまがときと呼ばれる日没後の時間帯は物の怪の活動が活発になる。お前さんは夜出歩くような子供じゃないだろうが、意識して自宅に籠りなさい。とにかく普段通りの生活を送るんだ。まあそのために我々の存在を隠す必要があったんだが、今日の襲撃で予定が狂ったね」

 天里は深い溜息を吐いて訝し気な表情を浮かべた。

「あんなこと滅多に起こるもんじゃないんだがね……彦一を付けていて良かったよ。百五十年程前までは物の怪と人間の衝突は多かったが、徐々に減ってきてここ三十年くらい大きな事件はなかった。言い訳に聞こえるかもしれんが……恐ろしい思いをさせて悪かったよ」

 不意に謝られ戸惑いながらも潔乃は首を横に振った。天里は悪くない、というより誰かのせいだとは思わなかった。確かに怖い思いはしたが誰も責める気にはなれない。

「あの猿、たぶん深山みやま地区の若猿だと思うけど、切り取った空間に人間を攫うなんて高度な術を彼らが使えるとは思えない。よく調べた方がいい」

 彦一がおもむろに口を開いて天里に向かって意見を述べた。

「そうだね。それも含めてこの子を襲った猿たちのことは今調べさせている。何か分かったらお前さんに知らせるからこの子に教えてやりな」と言った後、天里は潔乃に顔を向け「……ああ言い忘れていたが、お前さんの護衛は主に彦一が担当する。神が人一人に付くのはかなり特例なんだが年格好を考えると適任だからね」と補足した。

 〝神〟という言葉にぴくりと身体が反応した。瞬く間に緊張で身体が強張る。潔乃は身を乗り出してずっと聞きたかったことを言葉にした。

「あ、あの、八年前……私ここで不思議な場所へ迷い込んだんですけど、それって……」

「あれは物の怪の仕業じゃないよ。あの場所は幽世かくりよと呼ばれる神域で、正確にはあの世とこの世を繋ぐ狭間の世界なんだが……祭りの時は境界が曖昧になって稀に魂力の高い子供が迷い込んでしまうことがある。神隠しってやつさ。あの時も彦一がお前さんを助けに入ったね」

 心臓が痛いくらい高鳴った。ほとんどそうだと予測はしていたが、それが確信に変わった。

「じゃあ、あの時の黒い狐は、やっぱり……」

「おや、それも説明してなかったのかい。相変わらず言葉の足りない男だね」

 天里が呆れたというように肩をすぼめて声を投げた。

「その獣は玄狐げんこと呼ばれる火の神だよ。そこですましている彦一の本来の姿さ」

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