日出づる國の吸血鬼

緋熊緑青

序編 現れたるは吸血鬼

第1話 吸血鬼、海より来たる

 どうどう、どどう。

 黒い海に白い波の縁が現れては消える。

四方八方から聞こえる荒波の音に五郎は頭を揺さぶられる。

 日はとっぷりと暮れ、辺りは漆黒で覆われかけていた。明かりは自分らの後方、柴浜村の人家の灯と舟に乗る人が持つ松明しかない。

 はやく、はやく帰らなければ。

 五郎を含めた舟の上の六人の気持ちは一つだった。柴浜村から海に出る者には掟がある。

 一つ、沖合の双子岩から先へは行ってはならない。

 二つ、日が沈み月が出る前には村へ戻らねばならない。

 三つ、もし掟を破ったとして、海から声をかけられても振り向いてはならない。

 日暮れを迎えて寒風が吹いてくる、しかし別の理由で五郎は寒くなっていた。

 五郎は村の漁師中では年若い方だ。そしていささか臆病の気があり、同じく年若く無鉄砲な奴の杜撰そうな計画に真正面から断る気概がなかった。

 聞けば、沖合に異国の船が沈んだから貨物を引き揚げて金の足しにしようという話だ。

 この海の双子岩から先、異国へと繋がるはずの海から来る船は必ず沈んでしまう。五郎の知る限り、十は沈んでいる。そしてその逆も然り、双子岩から先へ行き過ぎると舟が沈む。

 「黒い手が舟をがしりと掴むんだ」年老いて漁に出ることのなくなった老人が言っていた。

 試す度量などなかったはずなのに、若者どもの勢いに任され双子岩まで来てしまった。明るいうちでは他の漁師に見つかってしまうからと人気のない浜から隠れての出発したらこんな時間になってしまっていた。


「源吉、はよう」


 海に先に潜っていた弥助が舟上に向けて声をかける。心なしか震えていて、弥助も時間がかかりすぎたことに内心焦っているのだろう。


「待て待て、そんなにでかいのか」


 嬉々として服を脱ぐ源吉だけが呑気だった。源吉とその取り巻きはどうも掟を重視していないと見ていたが源吉だけが信じていないだけかもしれない。

 ざぷん、と源吉が海に潜る。舟には五郎以外三人おり皆怯えた目で海面を、見えない筈の水平線を見回していた。

 普通なら一人で抱えられるくらいの木箱が関の山だが、三人も駆り出すとなるとかなりの大物なのかもしれない。普通なら大物を期待したいところだが、今の五郎達は恐怖が心を支配してきており期待は露ほども無かった。

 すこし経った頃、源吉達三人は水面へ上がってきた。縄に長細く黒い箱をくくりつけ、舟へと引き揚げた。

 箱の背は五郎の背よりも長く細長い。またかなり頑丈なのか、傷はひとつもついていなかった。


「これだけか」

「あとは屑じゃ、戻るぞ」


 源吉の声で舟は反転して村に戻り始めた。出発した方向へ戻らないのか、と弥助と口論になっていたが、源吉以外の全員は村の真正面に着こう、最も短い距離で帰ろうと口を揃えて反論していた。

 五郎だけは引き揚げられた黒い箱に気を取られていた。


(あれは、異国の棺桶じゃないか…?)


 五郎は柴浜村の外から来る行商人と話をするのが好きであった。特に最近来るようになった商人からはこの国の英雄である剣聖イザヨイが何かを成しただの、それによってこのヤマト国の外から色んなものが入るようになっただの明るい噂を聞いた。そんなことを耳にしたものだからこんな無謀なことをしてしまったのかもしれないと今更ながら反省している。

 昨日には商人がおそらく外の国のものであろう文献を見せてくれ、その中には今この舟に乗っている黒い箱があった。そしてそれは死体を埋めるための棺桶だとも。

 途端、体の芯が震え上がった。棺桶に開けられた痕跡がないということは中にはまだいるかもしれないということだ。死人と隣り合わせに海を進むこの異様さに、五郎は吐き気を覚えたが無理やり押し留めた。

 どうどう、どどう。

 まだ岸には着かない。行きよりも早い速度で舟を漕いでいるはずなのに、まだ着かない。

 荒波が頬へ打ち付けられる。磯の匂いが鼻を満たす。濡れた手が後ろから引っ張っているような感覚になりそうで頭を振り乱しかける。


「なんで、進まねえんだ!」


 舟にいる全員が異様さに気付いた。双子岩から離れて進んでいる筈なのに、距離が離れた感覚がない。

 櫂を乱暴に漕ぐ者もいるが段々と舟は速度を落とし、ぴたりと止まってしまった。

 まるで大きな何かが舟を掴んでいるように。

 先頭の弥助が持っていた松明が揺らぐ。誰も声を上げず、後ろを、双子岩のある方向を向いた。

 どどう、どどう。

 そこには山があった。いや山と見紛う巨大な真っ黒い何かがいた。

 口はなく耳もない。目は松明よりも明るいが瞳がない。どこを見ているか分からない筈なのに、こちらを見下ろしていると五郎は直感的に感じた。


「海坊主だ…!」


 五郎が呟くが早いか、舟の上にいた男達は悲鳴をあげていた。


「掟は本当だったんだ!化け物だ!」

「嫌だ!死にたくねぇ!おっかぁ!」

「俺ぁ泳いで逃げるぞ!宝なんて置いて行け!」


 方々から泣き、叫び、焦りの声が聞こえ、舟にうずくまる者、海へ飛び込む者、目を覆い喚く者がいた。

 五郎も棺桶にしがみついたままその理解できぬ様相を見つめることしかできなかった。

 ゆっくりと化け物の体の横の水面が持ち上がる。十本ほどに枝分かれし、先が蛸のようにうねるそれを直感的に五郎は海坊主の手だと認識した。

 あの手でこの舟を水面に叩きつけるつもりなのだ。

 そんなことをされたらここにいる誰もがひとたまりもない。この舟は転覆し、全員が海に投げ出されて藻屑か化物の餌になるのだろう。

 誰もが掟を破ったが故に海の化け物、海坊主に殺されることを確信していた。

 一人を除いては。


「おい、うるさいぞ」


 五郎の聞き覚えのない声がすぐ近くで聞こえた。いや、近くというより己がしがみつく棺桶の中から。

 ごとり、と重い音を立てて棺桶の上蓋がずれていく。それに気付いているのは五郎しかいない。

蓋が開ききるとむくり、と影が立ち上がる。

 影は形を成し、輪郭が引かれて男になった。

 朝焼けより紅い瞳が燻る松明の灯で照らされ、針のように鋭く煌めく銀の髪が揺れる。

 ここまで美しく怖い男を五郎は見たことがなかった。

 異国の服なのだろう白く袖の長い上衣は海風に靡き、黒く長細い袴は夜の闇に溶けて、側から見れば幽霊と見紛ってもおかしくなかった。

 筋骨は均整が取れ、海の男である源吉や五郎とは異なる体つきをしている。男らしい筋張った腕や首が見えるといえどその細身故に柳のような儚さと妖艶さがちらついた。

 いよいよ五郎が只者でないと確信したのはその男の顔であった。

 彫りの深い顔と長いまつ毛、薄い唇に儚さを感じるものの爛々とした赤い眼に毒花のような触れ難さを感じてしまう。

 たった数秒の間にこの状況を忘れるほどの思いが五郎の中を駆け巡った。


「なんだ…!?化け物がもう一人…!」


 五郎の思案を打ち切ったのは舟に乗っていた別の男の叫ぶ声だった。

 そう見紛うのも無理はない、突如舟に降り立ったその姿はこの世ならざる生物、幽鬼にも見える。


「おいお前」

「えっ」


 五郎は自分に声がかけられたと思わず呑気な返答をしてしまった。

 銀髪の幽鬼は目を細め軽く頷く。舟は大きく揺れ、立つことは困難なのにまるで意に介さず陸地に根を張るような頑強さで棺桶の側に立ち続ける男は口を開く。


「あれを倒して欲しいか」


 薄い唇が横に伸び、弧を描く。笑っているとやっと気づいたのは彼がこちらに首を伸ばしていたおかげだ。

 面食らって何も言えずにいたが、五郎には全く理解が追いついていなかった。彼の突然の出現及び様相の異様さに気を取られ現実じゃないもののように逃避しかけていたのもある。

 倒して欲しいか、と聞いてくるということは倒せるほどの実力を有しているということなのだろうか。あの海坊主を。背丈は我々を優に越し、この舟を掴めるほどの手を持つ化け物を。

 側から見れば怪しさしかなく確信に至る証拠もなかった。この男が化け物を倒せるのか、そもそもこの男は五郎たちに協力してくれる理由は何なのか。しかし五郎の藁にも縋る気持ちが優った。今ここでどういうことか問いただしても、海坊主が穏やかに聞いてくれる保証は全くないのだ。

 荒波にかき消されないよう喉を振り絞り五郎は答えた。


「どうか、お願い致します……!」


 聞こえたかどうかはわからない、しかしにこりと笑みを浮かべたように見えた男の顔は突然闇に溶けた。

 否、舟の上空へ高く跳躍していた。

 それまで男を凝視していたであろう海坊主は突然姿を消したことに驚いたのか巨大を身震いさせた。その余波で舟はもっと揺れを増し、何人かが叫び声と共に海に投げ出されたようだった。五郎は恐ろしくて後ろを振り返ることができず、目を伏せ体を丸くさせることしかできない。

 オォォ…!

 海坊主は言葉にできない音を発する。それは痺れを切らした獣のようにも、敵を恐れて威嚇するようにも聞こえる。


「だからうるさいと言っているんだ」


 荒れ狂う波の音と海坊主の吠え声で耳が使い物にならなくなると思っていた矢先、五郎の耳に鋭くそしてはっきりと声が聞こえた。


 その声に瞼を開けると先ほどの銀髪の男が海坊主の腕らしき部位に斬りかかっていた。

 いや、違う。彼の振り下ろした右脚が刃の如く鋭くなっている。黒曜石の小刀のように煌めき触れるもの全て削ぎ落とす予感を裏切らず、ずぱりと腕は切り落とされた。

 海坊主は痛みに苦しむような声を上げる。身体を今一度大きく振るわせるが、これ以上の抵抗をしたくないのかじりじりと後退し、海へと消えていった。

 姿を消した海坊主と入れ替わるように振り乱した髪のような波はだんだんと落ち着きを取り戻し始めた。


「助かった、のか……」


 どれくらい経ったのか分からない。波がやっと水平に戻りつつある頃、源吉が恐る恐る声を出した。

 童のように涙と鼻水を垂らした屈強な男どもが顔を続々と上げ周りを見渡し始める。

 海に落とされたであろう男達も仲間に手を貸してもらって舟上に引き上げられていた。五郎は周りをゆっくりと見渡した。

 何も、いない。

 大山のような海坊主も銀と赤の幽鬼もそこにはいない。

 海岸の村のあるところは夜も更けてきた筈なのに火を焚いたのか明るさがあった。おそらくこの海の騒ぎと若衆がいないことに悪い予感を覚えたのか、必死に探しているのかもしれない。帰ったら掟を破ったことについて村長にとっぷりと説教を聞かされるのであろう。憂鬱ではあるが、五体満足でここに生きていることに安心感を覚えている今では五郎にとっては些細なことであった。

 ぎしり、と五郎の横に重いものが載ったような軋みが伝わる。ゆっくりと目を向けると彼がいた。

 銀髪は村の明かりを反射し金にも見える。赤い眼は煌々と輝き、五郎を見下ろしている。


「さて、貴様の願いを聞いた。次は俺の番だ」


 謝礼を言いたいのに五郎はその姿に恐怖して何も言えない。

 男の口には鋭い牙がちらつき、背筋がざわりと逆立つ。

 口を開くよりも先に男の声が滔々と続いた。


「お前の血をよこせ」


 風よりも早く、稲妻よりも鋭く、男の姿は消えた。

 途端鋭い痛みが五郎を襲い、世界がひっくり返った。

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