最終話 俺たちはまだ未孵化

 希求章。書店に並んでいるその文字を眺め、ふっと笑む。


 正社員になって4年後、俺はとうとう小説家デビューを果たした。朝陽のようにベストセラーとまでは行かなかったものの、デビュー作はそこそこ売れ重版もされている。それから2年経つ今でも、俺はありがたいことに小説家として生きることができていた。著作もコンスタントに出せており、現在は4冊の『希求章』の本が世に出回っている。


 いまだにコンビニの正社員は続けていて、何やかんや大学を出ていたのがよかったのだろうか、そろそろ本社勤務の話も出てきたところだ。いまだ華々しい活躍はできていないが、今はその未来を信じ切れる。


 俺は絶対、本屋に何十冊も平積みされるような小説家になるんだ。


「やっぱり、ここにいたのか。探した──わけでもないが、ずっと同じところに突っ立ってるのも妙だぞ」


 決意を新たにしているところを、朝陽が声をかけてくる。待ち合わせにしていた駅前からほど近い本屋で暇潰ししていたのだが、長くなりすぎたらしい。


 朝陽は俺が羨むような大出世を遂げていて、今何十冊も平積みされているのは朝陽の本だ。誰もが知っている賞を2年連続で受賞し、印税は今や億にまで上っているらしい。……が、そのうちのかなりの金額を親孝行に当てているのだから立派である。


「それもそうだけど、やっぱり感慨深いんだよなぁ」

「一理ある……。それはそうと、飲みに行こうぜ」


 言い訳を口にすると、ワンクッション置いてから話題をずらされた。ぜひ接客にほしいコミュニケーション能力だ、と思いつつ書店を出る。

 涼しい夏の夕方の空気が身体を包み込み、クーラーで冷え切った身体をほぐしてゆく。


「……ん」


 ちょうど女子高生が書店から出てきて、何となく目をやると──手には、俺の本が握られていた。

 手首には書店の袋がかけられている。万引きではなさそうだ。ならどうして取り出す、と目線で追う。すると、近くのベンチに座って俺の本を読み始めたではないか。


『ありがとう』


 心が震える。話したい、けれど急に話しかけたら不審者と思われるかもしれない。必死に喋ってみたい衝動を抑え、心の中で感謝を告げる。

 嬉し涙で視界が歪んだ。30を過ぎてから涙腺がゆるくなった気がする。すぐ感動して泣いてしまうのだ。


「よかったな」

 小さな声で朝陽が言う。俺はそれに頷いて、夢を口にした。


「俺、もっとこういう光景が見たい。だから──日本一の小説家に、なるよ」


 朝陽は苦笑してから、真剣な眼差しで答えた。


「俺だって負ける気はないからな」

「おっ、言ったな。あとで大逆転されても知らねぇぞ?」


 言って、笑い合う。そうやって張り合ってくれなければ面白くない。


 俺たちは友人であり、ライバルであり、成長中どころか孵化もしていない、夢を見ている卵なのだから。

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俺たちはまだ未孵化 夏希纏 @Dreams_punish_me

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