第28話 『本当』の母親

 それから、数日後。


 ピンポーン。


 インターホンが鳴り、香織かおりが玄関の扉を開けると、


「はーいっ。どちら様で――」

「管理人さん……っ!!」

「!? こ、琴美ことみちゃん!?」


 部屋に訪ねてきたのは、数日前に来たばかりの琴美だった。


「ど、どうしたの?」

「あの……あの……ママは……っ」

「!! とっ、とりあえず上がって!」




「はいっ」

「あ、ありがとうございます…………ぷはぁ」


 余程よほど、喉が渇いていたのか、琴美はコップの中の麦茶を一気に飲み干した。


「それで、どうして急にここに?」


 香織が尋ねると、空になったコップをローテーブルの上に置いた。


「ママ……お兄ちゃんから急に連絡が来なくなって……電話しても出ないし……さっき部屋の前まで行ったけど……『大丈夫だから』って……」


 その声は震えていて……今にも泣き出しそうなほど、目を潤ませていた。


 その表情は心配と不安に覆いつくされていて……心が痛む。


「実は……私もよくわからないの」

「そう……ですか……」


 琴美が帰った次の日、朝から顔色が悪かったため心配していたら、お昼をすぎた頃に真が帰ってきた。


 どうやら、授業中に気分が悪くなって保健室で休んでいたが、熱があったため早退してきたらしい。


 本人は大丈夫だと言い張っていたが、そう言うときは大抵の場合、大丈夫ではない。


 その次の日から、真は体調不良を理由に学校を休んでいた。


 このことを琴美に話すと、驚いたように目を見開いた。


「え!? あのママが?」


 信じられないと表情が語っている。


 琴美ちゃん曰く、まことちゃんからはなにも聞かされていなかったらしい。


「うん……。てっきり、琴美ちゃんには言ってると思ってたけど」

「初耳です……っ。どうしてそんな大事なことを……言ってくれれば、すぐに駆けつけたのに……」

「きっと、心配をかけたくなかったんだよ。真ちゃん、自分が辛くても他の人に頼らずに我慢しようとするから……」


 だから、ここ数日、学校を休んでいる真のことが心配で、様子を見ようとインターホンを鳴らしたのだが。


『大丈夫ですから、一人にしてください……』


 と、精一杯の消え入りそうな声だけが返ってきた。


 その日はそのまま帰ったが、その後も何度か訪ねたものの、スマホに『大丈夫ですから』の一言だけが送られてきたのだった。


 そして、それから数日が経って居ても立っても居られず、マスターキーで入ろうとも考えた。しかし、理由なしに使うのは、さすがにアウトだ。


 そんなときに、琴美が訪ねてきたという。


「あっ。もしかして、また黙って来たの?」

「! い、いえっ、今回はちゃんと言ってきましたよ。こっちに来るためのお金も出してもらいましたから」

「……ホントかな〜?」

「……ほんとは、また勝手に行こうとしたんですけど、バレちゃって……」

「それはそうだよっ。この前も、お父様が心配されてたんでしょ?」

「はっ、はい……。でも、事情を説明したら許してくれました」


 後で知ったことだが、また黙って行っていたら、今年のお小遣いはなしになっていたらしい。


 危ない、危ない。


「とっ、とにかく、もう一度ママのところに…――」

「ねぇ、琴美ちゃん……」


 香織が呼び止めると、動き出そうとした足をピタッとを止めた。


「? なんです……か……」


 二人の瞳は、交差したまま離れない。


「教えてくれないかな? どうして、真ちゃんのことを『ママ』って呼ぶの?」

「!! それは……」

「私……真ちゃんのこと、知らなすぎる。真ちゃんが、今なにで苦しんでいるのか……わかってあげることもできない……」

「…………」

「あのとき……私は、そばにいてもなにもできなかった」

「? あのとき……?」


 ……。


 …………。


 ………………。


 香織は、買い物に行った日にあったことを説明した。


「そんなことが……」

「あの男の人が誰なのかはわからないけど。あのときの真ちゃんは、正直普通じゃなかった」


 どういう関係なのかは、正直わからない。


「琴美ちゃんは、なにか知ってる?」

「いえ、わたしにはなにも……」

「そっかー……」


 手掛かりはなしか……。


「……っ。わかりました……」


 琴美は一度深呼吸をして、改めて香織の顔を見た。


「お話……します。ほんとは、誰にも話すつもりはなかったんですけど……」

「……っ!! いいの……?」

「はい……」


 琴美は一拍置いてから、ゆっくりと口を開けた。


「わたしがお兄ちゃんを『ママ』って呼ぶのは………………『本当』の母が、突然いなくなったからです」

「え――」




 物心ついた頃、わたしには、本当の『母親』がいた。


 背が高くて、いつもシャンプーのいい香りがする。


 それくらいの記憶しかない。


 ママなら、もっと『母親』のことを知っているのかもしれない。けれど、突然居なくなった日から今日まで、一度も聞いたことはない。


 だって、毎日のように泣き叫ぶわたしに、こう言ったのだから――。


『今日から、僕が琴美のママだっ!』


 私は、この言葉に救われた。


 でも、お兄ちゃんにとってこの言葉は……相当な覚悟が必要だったはず……っ。


 わたしは成長するにつれて、今までママがどれだけ大変だったのかを、徐々にわかるようになっていって…――。


 だから、漫画でよく見る『思春期』がなかったのかもしれない。




 ――間違っても……ママに向かって『ウザい』なんて言えるわけないから……。

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