シビトバナ

橘つばさ

第1話


 アイリス記念総合病院の精神科医である遊佐隆道(ゆさ たかみち)は、医師として二十年近く、さまざまな患者と接してきた。「些細なことで不安になって、一日に何度も同じ確認をしてしまう」という三十代の男性や、「近所の人からずっと監視されているように感じる」とおびえる五十代の主婦。「夜になるとわけもなく悲しくなり、涙が止まらなくなる」と嘆く二十代の女性など、心に不安や恐怖を抱えている患者は、老若男女を問わず、数多い。

 先日も、整形外科の医師から、「右足関節骨折で入院中の十七歳の女性患者に人形偏愛の兆候が見られるのだが、カウンセリングを勧めるべきだろうか」という相談があった。

「こころ」にきたす症状と、その症状が起こるようになるキッカケは、患者によって千差万別だ。だからこそ、精神科医には患者との丁寧な対話が求められる。

「それじゃあ、今日もお話を聞かせてもらえるかな?」

 ガラスのテーブル越しに、遊佐は患者に話しかけた。遊佐の背後には、青と白のアイリスを描いた絵が額装されている。この病院のシンボルでもあるアイリスの青い花には「信念」という花言葉が、白い花には「思いやり」という花言葉がある。けっして枯れることのない絵の中の二色のアイリスは、遊佐が抱き続けようと決めた「信念」と「思いやり」が、どんなときでも消えはしないことを意味していた。

 そんなことには微塵も気づいていないだろう、「少年」と「青年」のはざまにあるような年頃の患者が、まっすぐ遊佐を見つめる。イスに座ったまま両足を肩幅程度に開き、両手の平は太ももに添えられていた。その体からは緊張も不安も感じられず、むしろリラックスしているようにさえ見える。

「学校は、どうだった?」

「変わったことはありません」

 遊佐の質問に、患者は間髪をいれずに無表情で答えた。

「クラスメイトたちは、相変わらず僕を無視します。たまにチラチラ、こっちを見ている気配は感じますが、話しかけてくる人はいません。いつものことですけど。先生たちも同じです。学校の誰にも、僕の姿が見えていないんじゃないかと思います」

「『姿が見えていない』、か。具体的に、どういうときに、そう感じる?」

「授業中に、生徒を指名して答えさせることって、あるじゃないですか。ああいうのって、だいたいの先生が、その日の日付と同じ出席番号の人に答えさせたりするんです。でも、今日は十二日で、僕の出席番号も十二番なんですけど、一度も指名されなかったんですよ。昨日はちゃんと、十一番の生徒が指名されてたのに、今日は十番と二番とか、そういう感じです。先生たちも、僕を避けるんです。僕のことを見たくないんです。試しに手を挙げてみても当てられなかったので、本当に僕のことが見えていないんじゃないかと考えてしまいます。僕は存在していないも同然です」

 淡々と語る間、患者の表情は大きく変わらない。まばたきは最小限で、体が揺れたりもしていない。動揺も不安も感じられない目の前の患者は、落ち着きすぎるほどに落ち着いていた。精神科を訪ねてくる患者としては珍しいパターンだ。

 そう思った遊佐の前で、患者はふと、ため息をついた。

「低能なやつらのすることでも、まるで自分が存在していないみたいに振る舞われるのは、おもしろくないです。低能だから、僕のことを理解できないのは仕方ないのかもしれないけど。でも、だったらそんなやつら最初から必要ないと思うんです」

「『必要ない』というのは?」

 患者が少しだけ早口になったのを、遊佐は聞き逃さない。長年の経験から、患者が伝えたいことは、ここにあるのではないかと察知した遊佐は、相手の瞳をのぞきこむようにして尋ねた。

 すると、若い患者は遊佐の瞳をじっと見つめ返して、答えた。

「低能は、社会のゴミです。僕のことを怖がるばかりで理解しようともしないクズたちは、排除されてもいいと思います。あいつらが死んでも、どうせ誰も困らない」

 初めて、患者の顔に表情らしきものが浮かんだ。「軽蔑」と「怒り」を混ぜて薄めたような、かすかな表情。その表面を、うすら寒さを感じさせる冷笑がおおっている。

「そう思いませんか、先生?」と静かに同意を求められた遊佐は、「なるほど。きみの考えはよくわかったよ」とだけ返した。患者も、とくに不満げな様子は見せない。 実年齢のわりに、奇妙なほど冷静な患者だった。

「話してくれて、ありがとう。よかったら、また来てくれるかな?」

「べつに、いいですよ。先生は話が通じるから。学校の低能なやつらとは違ってね」

 ふん、と軽く鼻だけで笑って、患者は遊佐の前から去った。


 次の患者は、ガラスのテーブルをはさんで座った遊佐に対し、終始右肩を向けたまま、右足を左のひざあたりにのせて、イライラと貧乏揺すりを繰り返していた。相手に体の正面を向けることなく、かたくなに足を組んでいるのは、警戒心や拒絶、防御意識の表れだ。上に組んだ右足のつま先が遊佐のいるほうとは反対のほうに向いているのも、遊佐の前から立ち去りたいという本能の表れだろう。

 簡単な分析を終えた遊佐は、穏やかな口調で患者に話しかけた。

「久しぶりだね。その後、調子はどうかな?」

「前にも言っただろ。アンタに話すことなんてねぇよ。話してもムダだ。どーせ、何も変わらねぇんだから」

「そう言わずに、とりあえず話してみないかい? ほら、コーヒーでも飲んで。コーヒーが好みじゃないなら、何か別の──」

「うるせぇな、意味ねぇっつってんだろ!」

 牙をむくように声を荒らげた患者が、右の拳をダンッとガラステーブルに打ちつけた。遊佐は驚くこともなく、「おやおや。怪我はないかな? コーヒーは、かからなかったかい?」と、笑顔で相手に問いかける。

 その笑顔に毒気を抜かれたように、患者は拳をひっこめると、「チッ……」と忌々しげに舌打ちしてそっぽを向いた。ガラステーブルの上には、カップから少しだけ跳ねて飛び出たコーヒーが、黒い水滴になってひとりぼっちだ。

「……胸糞わりぃ。ムシャクシャすることばっかりだ」

 やがて、患者は苦々しそうに吐き捨てた。

「学校に居場所なんてねぇし、家に帰ったら帰ったで親がうるせぇし、どいつもこいつもマジでムカつくんだよ。かたっぱしからブッ壊してやりてぇ」

「そう思って、どうしたの?」

 尋ねた遊佐を、患者がちらりと一瞥する。「べつに」と前置きしてから、患者は悪びれる様子もなく告白した。

「万引きくらい、フツーじゃん。あんなことで憂さ晴らしにもなんねーけど、やんないよりはマシ」

「今までに、どれくらい万引きしたのかな?」

「知らねーよ、いちいち覚えてねぇ。……でも、こないだはアイツに邪魔された」

 そうつぶやいて、患者は不満げに顔をしかめた。足を組んだまま、貧乏揺すりがひどくなる。イスのひじかけにひじを立て、頰杖をつくのかと思いきや、親指の爪をガリ、ガリッ、と噛み始めた。

「あの野郎、ビビりのクセに出しゃばりやがって……。『うるせぇんだよ、邪魔すんな!』って怒鳴ってやったら、すぐ消えちまったけどな」

「そうだったんだね。それで結局、万引きは成功したのかな?」

「アイツが出しゃばってきたせいで萎(な)えちまったから、やめたよ。マジふざけんなって感じ。自分ひとりじゃ何もできねぇビビり野郎が俺に説教とか、マジうけるわ。俺が怒鳴り返したときも、ブルブル震えてたし。だったら最初っから出てくんなっつーの。……てか、俺もう帰っていい? タルいんだけど」

 ガリガリ、イライラと、爪を噛みながら貧乏揺すりを続ける患者に潮時を感じて、遊佐は「わかった」とうなずくことにした。


 三人目の患者の様子は、これまでの二人とまったく違っていた。

「あー、遊佐センセー久しぶりじゃん! 『また来てね』って言われたから呼ばれるの待ってたのに、なかなか順番回ってこないんだもん。もぉ待ちくたびれちゃったよー」

 ハイテンションな少女を前に、遊佐は「待たせてごめんね」と微笑を浮かべた。そんな遊佐をよそに、立ち上がった少女はクルクルとその場で回り始める。もしもスカートをはいていたら、きれいにすそが広がっていたに違いない。

 会うのは今日で二度目のこの患者は、初めて会ったときも同じくらいの躁(そう)状態だった。精神科を受診するのは、自分を追いつめている人や、鬱(うつ)状態にある人が多く、彼女のように底抜けの笑顔は、まず見た記憶がない。

 精神科の患者として異質といえば異質な彼女に、しかし、遊佐は朗らかな笑顔を向けた。

「まずは座ってくれるかな、瑞希(みずき)さん。話は、それからゆっくり聞かせてもらうから」

 遊佐がゆっくり呼びかけると、瑞希と呼ばれた少女はクルクル回るのをやめて、遊佐が指し示したイスに「はーい」と腰かけた。ちょこんと浅く座り、そろえたひざに両手を添える。背筋はすっと伸びていた。昨日やってきたパーソナリティ障害の患者とも、統合失調症の患者とも、やはり根本的に違う。

「今日はなんのお話するの? 遊佐センセ」

「そうだなぁ。前回少しだけ話してくれた、女優になりたいっていう夢の続きを聞きたいな」

 遊佐が水を向けると、瑞希はぱあっと笑顔を輝かせた。「覚えててくれたんだ! 嬉しい!」と、両腕を遊佐に差し向けるように広げ、ふたたびイスから立ち上がらんばかりだ。彼女の前に相対した患者が、「低能なやつらは死んでも困らない」と淡々と語る少年と、終始イラ立ちと敵対心を全身からあふれされている少年だったから、どうしても「落差」を感じてしまう。

 しかし、そんな遊佐の心情などおかまいなしに、少女は歌うように話し始めた。

「あたし、将来は絶対、女優になるの。演技はもちろん、歌もダンスもできる女優に!」

「それはすごい」

「ねね、センセ! あたし、女優になれると思う? なれるよね? だってあたし、顔もかわいいし、スタイルもいいし、パーフェクトだもん! 女の子たちから嫉妬されるくらいなんだから! 男子も、大人の男の人も、あたしのことチラチラ見てるのわかってるんだ。センセーも、あたしのことカワイイって思う?」

「はは、そうだね……」

「あらら、センセー照れちゃった。ごめんごめん。あ、お詫びにサイン書いてあげよっか! あたし、そのうち絶対有名な女優になるから、今のうちにサインもらっとけば高く売れるよ!」

 サイン。それはいいかもしれない。思わず舞い込んだチャンスに、遊佐は素早く反応した。

「そうだね。せっかくだから、もらっておこうかな。もったいなくて、売れなくなっちゃうかもしれないけど」

「えぇー? お人好しだなぁ、センセーは」

 クスクスと笑う少女は、やはり嬉しそうだった。

 遊佐が差し出したスケッチブックに、少女は大きくペンを走らせた。「佐倉みずき」と、女の子らしい丸っこい字が、白い紙に躍る。「はいっ!」と差し出されたスケッチブックを受け取った遊佐は、やはり、男の子の書く字とは印象がぜんぜん違うなと思った。

「ほんとはもっと芸能人っぽく、文字を崩して、わちゃわちゃーってした感じのサインを書けたらカッコいいなって思うんだけど、まだ作れてないんだよね。だから、なんかフツーに名前書いただけみたいな感じだけど、ゴメンね?」

「かまわないよ。これは女優『佐倉みずき』の、初期のサインということだね。ますますレアじゃないか」

 遊佐がそう返すと、少女はいっそう嬉しそうに顔をほころばせた。

 機嫌のよさそうな少女に、遊佐は次の話題を振ることにした。

「そういえば、瑞希さんには弟さんがいるんだよね。弟さんは、お姉さんが女優を目指すことを、どう思っているのかな?」

 その質問を受け取った少女の頰が、唇が、ぴくりと震える。その唇の両端がすぐさま持ち上がって、少女の顔に大輪の笑みを咲かせた。

「弟も、あたしが女優になること応援してくれてるよ。『お姉ちゃんは僕よりもいろんな才能に恵まれてて、同級生からも大人からも好かれてる。だからきっと最高の女優になれるよ』って。『お母さんも、お姉ちゃんに一番期待してるよ』って」

 少女は大きな身振り手振りをつけながら、口早にそう語った。紅潮した頰も、光を宿した瞳も、軽やかに弾む声も、彼女が希望を抱いてここに立っていることを遊佐に証明する。

「そうなんだね。それはよかった」

 ひとつひとつの事象を丁寧に受け止めて、遊佐は静かにこたえた。

「ところで、ココアはどうかな? 前回、『コーヒーは苦手。ココアがいい』と話してくれたから、用意しておいたんだ」

「えっ、センセー優しい! 飲む飲む!」

 遊佐が用意したホットココアを、んく、んく……と、少女はのどを鳴らしながらおいしそうに飲んだ。その様子も、年相応の少女となんら変わらなかった。


 四人目の患者は、ひどくおびえた様子で、視線が少しも定まらなかった。イスに座って遊佐と対面したものの、ひざの上で組んだ両手はもじもじ、そわそわと、所在なさそうに動きっぱなしだ。両肩も、畏縮したように縮こまっている。やはり、ひとつ前の佐倉瑞希との「落差」が激しい。

「大丈夫だよ。落ち着いて」

 遊佐が身振りをつけながらゆっくりと声をかけると、少年はおどおどしながらも、ようやく視線を遊佐に定めた。遊佐が勧めたコーヒーに砂糖をたっぷり入れてから口をつけ、人心地ついたように息を吐く。それから、遊佐に向かっておずおずと、こう尋ねた。

「みんな、なんて言ってましたか?」

「少年」と「青年」のはざまにあるような年頃の患者から尋ねられて、遊佐は慎重に口を開いた。

「みんなと、お話しさせてもらったよ。やっぱり、間違いないね。きみの中には、きみ以外にも三人の人格が存在しているみたいだ」

 そう言って、スケッチブックに躍る「佐倉みずき」の女の子らしいサインを、遊佐は指先でなぞった。

 今、遊佐の前に座っているのは、気弱そうな十五歳の男子中学生だ。そして、最初に遊佐が対面した患者も、次に会話した患者も、先ほどまでハイテンションで笑っていた少女も、全員が、今、遊佐の目の前にいる男子中学生の中にいる。

 ──解離性同一性障害。かつては多重人格障害と呼ばれた精神障害で、一人の人間の中にまったく異なる人格が複数存在し、それらが交代で現れる状態のことをいう。

 十五歳の中学生、佐倉一翔(かずと)の中には、彼以外にも三つの人格が存在する。

 一人目の人格は、一翔が学校にいるときに頻繁に現れる。感情をうかがわせない無表情を顔に貼りつけ、冷静を通り越して冷徹な目で周囲を観察する彼は、自分のことを忌避(きひ)する周囲に対して「クズたち」「社会のゴミ」というレッテルを与え、「あいつらが死んでも誰も困らない」と切り捨てる。自分以外の人間に対して「軽蔑」と「怒り」、そしてある種の「あきらめ」を抱えた青年だ。

 二人目の人格は、一翔の心にたまったストレスが限界を迎えたときに、まるで感情が爆発するように現れる。万引きやラクガキなどの犯罪行為に及んだこともあり、このまま放置しておけば、いっそう重い犯罪に手を染めてしまう可能性もある、危険な人格だ。

「だけど彼、この前は一翔くんに万引きを邪魔されたと言っていたよ。そのときのことは、憶(おぼ)えているかな?」

 遊佐が尋ねると、一翔がゆっくりと両目を持ち上げた。やがて、その口から「はい……」と蚊の鳴くような声がこぼれる。いつの間に欠けたのかわからないツメの先をいじりながら、一翔は語った。

「ぼんやりとですけど、憶えてます……。三日くらい前だったと思うんですけど、学校からの帰りに、あいつが僕を押しのけて出てきて、『万引きでもするか』って言いだしたので、させちゃいけないと思って、必死に止めようとしたんです。そしたらあいつに『うるせぇんだよ、邪魔すんな!』って怒鳴られて、そのあとは憶えてません……。情けないですよね……怒鳴られただけで、ひっこんじゃうなんて……。それに、万引きしようとしたのは別の人格だけど、人から見れば、僕がやろうとしたことだし……」

 イスに座ってますます小さくなってしまった一翔に、遊佐はゆっくりと、言い聞かせるように声をかけた。

「一翔くんが立ち向かってくれたから、そのとき、彼は万引きを断念したんだよ。きみが、彼の犯罪行為を未然に防いだんだ。がんばったね」

 遊佐の言葉に、一翔の表情がぐらりと揺れる。両目が今にも決壊して、涙があふれそうだ。それを隠すようにあわてて両手で顔をおおって、一翔は「はい……」と、うめくようにうなずいた。

 一翔が落ち着くのを待ってから、遊佐は、本題ともいえる「一翔の心の深淵」に手を伸ばす。

「それから、一翔くんの中にある三人目の人格──佐倉瑞希さんとも、話ができたよ」

 一翔がぴくりと、ひざの上で指先を震わせる。それをぎゅっと握りしめて、一翔は、不安げに尋ねた。

「それで……姉は、なんて言ってましたか?」

 佐倉一翔の中にある三人目の人格、佐倉瑞希は、一翔の実の姉だった。

 どうして、実の姉が別人格として一翔の中に存在するのか。それこそが、佐倉一翔が解離性同一性障害になった、すべての原因につながっていた。


   *


 瑞希は、一翔の十歳上の姉だった。手足が長く、活発で、歌とダンスが大好きな瑞希は、いつも家族の中心で楽しそうに歌ったり踊ったりしていた。加えて、色白で容姿端麗だった瑞希は、大人たちから「将来は女優さんだね」「きっと美人に育つ」という期待を一身に受けて育った。瑞希本人も早いうちから女優になることを夢見るようになり、歌とダンスに、ますます磨きをかけていった。

 そんな姉が死んだのは、彼女が十五歳、一翔が五歳のときだった。

 そして、姉が死ぬ原因を作ったのが、一翔だった。

 当時、一翔は保育園の年中だった。いつもは母が一翔を送り迎えしていたが、その日は、母のパート先で遅番の同僚に急な欠勤が出て、かわりに母が勤務時間を延長しなければならなくなった。そのため、中学生だった瑞希が一翔を保育園へ迎えに行くことになった。

 帰り道、一翔は姉と一緒に歌いながら上機嫌だった。だからこそ、道路をはさんだ反対側にある公園で、保育園のお友だちが楽しそうに遊んでいる声に、反応してしまった。

 ──ちーくんと、りょうちゃんだ! ぼくもいっしょにあそぶ!

 一翔はまっすぐ公園だけを見て、駆け出した。

 公園は、道路をはさんだ反対側。目の前は、横断歩道から離れた直線道路。運の悪いことに、一翔が飛び出した場所は路上駐車中の宅配業者のトラックの陰になっていて、スピードにのって道路を直進してくる反対車線の車からは完全に死角になる位置だった。

 トラックの陰から一翔が道路に飛び出すのと、一翔に向かって直進してきた車が急ブレーキをかけるのと、瑞希が悲鳴まじりの声を上げるのと、いったい、どれが一番早かったのか。

 ── 一翔、危ないッ!

 一翔が憶えているのは、姉のそんな悲鳴が聞こえたのとほとんど同時に体を突き飛ばされて、路面に激しく転がったことと、そのせいですりむいたひざと手の平が、焼けるように熱く、痛かったことだ。

 どんっという鈍い音は、自分の耳で聞いた音だったのか、あとで脳が勝手に補完した効果音なのか、よくわからない。

 ただ、何が起こったのかわからないまま、ひざと手の平の痛みにべそをかきながら体を起こして振り返った五歳の一翔は、見てしまった。固い路面に手足を投げ出すようにしてぐったりと横たわった、姉の姿を。姉の体の下にじわりじわりと広がってゆく、赤い水たまりを。

 姉のうつろな目が、こちらを向いたまま止まってしまっている、その様を。

 ──お、ねぇちゃん……?

 どうしたのー、一翔。

 すごい! 上手にできたねぇ、一翔!

 一翔、お姉ちゃんと一緒に歌おっか!

 もー、泣かないの。大丈夫、一翔ならできるよ。

 一翔、一翔、一翔。お姉ちゃんの、大事な弟。

 ──おねぇちゃん……おねえちゃん……っ!

 何度呼んでも、姉はこたえてくれなかった。こちらを見ているのに、その目に一翔の姿は映っていなかった。ただ、保育園で使った絵の具とはぜんぜん違う、見たことないくらい真っ赤な水たまりが、ひたり、ひたりと一翔のほうに広がってくる。

 遅れて押し寄せてきた恐怖に全身を震わせて、一翔は絶叫した。涙で視界がつぶれ、のどが裂けそうになるくらい、喚き続けた。ひざと手の平の痛みは、とっくに感じなくなっていた。そして、あのはつらつとした声が、もう二度と自分の名前を呼んでくれないことを、一翔は知った。

 行けずに終わった公園には、瑞希の体を染め上げたのと同じ色の彼岸花が咲き乱れ、まるで、風の中で歌うように揺れていた。


 瑞希が死んだことを、両親はひどく嘆き悲しんだ。利発で器量のいい瑞希は、両親にとって自慢の娘だったのだ。その美しい愛娘は車にはねられ、地面に叩きつけられた衝撃で、全身傷だらけになり、顔にも大きなあざが残った。死に化粧をしても隠しきれないほど痛々しい姿になった娘を目の前にして、両親の中で何かが壊れた。

「どうして、あの子が死ななきゃいけないの? たった十五歳よ? まだまだこれからだったのに……あの子なら、きっときれいな女優になれたのに……。一翔が道路に飛び出しさえしなければ、瑞希は死ななかったのに!」

 面と向かって言われたわけではない。それでも、夜中に母が泣きながら父にすがりついて放ったその言葉は、たまたまトイレに起き出していた一翔の心臓をえぐった。母自身、かつては女優になることを夢見ていたが、叶えられなかったという人だ。自分の夢を娘に託したい気持ちが強かったのだろう。

 瑞希の死後、心のバランスを欠いた母はパートにも行かず、一翔を保育園に連れて行くこともできなくなり、一日中、家の中で鬱々と過ごすようになった。家事はおろそかになり、まともな食事をとらなくなり、結果、一翔にも食事を与えなくなった。当然、風呂や着替えなどの世話に手が回るはずもない。

 そんな母親を、父親は「まだそっとしておく必要がある」と判断したらしく、とりたてて注意することも、病院へ連れて行くこともなかった。今思えば、変わってしまった妻を、ただ見て見ぬふりしていただけだったのかもしれない。

 自分だって、父親としてつらいんだ。それでも仕事にだけは行っているんだから、それ以上のことを求めないでくれ。毎朝仕事に向かう父の背中は、誰にともなく、そう訴えていた。

 父は、仕事帰りにいろいろ食べるものを買ってきてくれたので、一翔がひもじい思いをすることはなかった。しかし、五歳の子どもは食べ物以上に、母の愛情を求めていた。だからある日、抜け殻のようになってしまった母に近づき、絵本を読んでとせがんだ。以前ならにっこり微笑んで読み聞かせをしてくれたのに、そのときの母は、一翔のほうを見向きもしなかった。

 それでも母の体を揺すってせがんでいると、ようやく、母の目が一翔のほうを向いた。その瞬間、一翔は冷水を浴びせられたように硬直した。

久しぶりに自分のほうを向いた母の目は、あの日、道路に倒れて動かなくなった姉と、まったく同じだった。

 ──ねぇ。どうして、あなたが生きてるの?

 うつろな瞳の母は、おびえて動けない一翔を眺めて、そう尋ねた。

 ──お姉ちゃんは、あなたのせいで死んじゃったのよ。あんなにかわいくて、いい子だったのに、あなたが悪い子だから死んじゃったの。お母さんに、瑞希を返してよ。一翔が、瑞希と代わってよ。

 母の言葉は、やわい五歳の子どもの心をやすやすと貫き、そのままけっして抜けない呪いとなった。

 母が一翔に直接手を上げたことはない。ただ、言葉はときとして肉体的な暴力以上に人を傷つける。無気力な母の口から放たれた言葉と、こちらを見ているようで見ていない瞳、そして継続する育児放棄(ネグレクト)で、一翔の心は少しずつ、けれど確実に壊れていった。

 ──ぼくは、お母さんから大切にされてないんだ。お母さんは、おねえちゃんのほうが好きだったから。だから、おねえちゃんのかわりにぼくが死んじゃえばよかったって思ってる。おねえちゃんを死なせちゃったぼくのことを、お母さんはもうきらいなんだ。

 一翔の心はぼろぼろと、強い雨風にさらされた家が外壁から少しずつはがれていくように崩れてゆき──その崩壊から自分を守るために、一翔は、心の中に架空の人格を創りだした。

 母親から放置され、父親からも腫れ物のように扱われ、そして周囲からは「あの子のせいでお姉さんが死んじゃったらしいよ」という好奇の視線を向けられる。子どもにとってはあまりに強烈すぎる孤独に耐えるために生み出された新たな人格は、一翔を白い目で眺め、迫害する周囲の人間たちをひとまとめに「クズで低能」とさげすみ、「みんな死ねばいい」という静かな狂気を抱えるようになった。

 しかし、さげすむだけでは、孤独な一翔の心にたまるばかりの鬱屈とした感情を解放することはできない。その発散のために新たに生み出されたのが、周囲に対して攻撃的で、犯罪にも躊躇なく手を染めてしまう、もうひとつの人格だった。

 それだけではない。自身の不注意で姉の死を招き、母に「瑞希を返して」と泣かれ、そして何より、姉の絶命を目の前にしたことで計り知れないショックを受けていた幼心は、自分の心の中に成長した姉を生かすようになった。

 それが、佐倉一翔に宿る三人目の人格、「佐倉瑞希」である。


   *


「さっき、お姉さんの人格が出てきたときに書いてもらったものなんだけど」

 そう言って、遊佐は一翔にスケッチブックを差し出した。そこには、女の子らしい丸文字で「佐倉みずき」と書かれている。それをまじまじと見つめた一翔は、困惑顔になって言った。

「僕の字じゃありません」

「そうだね。一翔くんに書いてもらった字とは、似ても似つかない。これも、解離性同一性障害の特徴だよ。違う人格になると、性格や言葉づかいだけでなく、筆跡や味覚やクセも変わる場合があるんだ。一翔くんは、コーヒーには砂糖をたっぷり入れて飲むけど、お姉さんはコーヒーを嫌って、ココアしか口にしない。完全に別の人格が存在しているということだよ」

「あぁ、ココアも飲んでいたんですね……。どうりで、お腹がちゃぷちゃぷしていると思いました」

 気丈に振る舞おうとしたのか、一翔が冗談めいた言葉を口にする。しかし、その顔には不安がこびりついたままだった。

 先生、と、やがて一翔の血色の薄い唇が、そうっと遊佐を呼んだ。

「やっぱり僕は、治療することになるんでしょうか」

「そうだね。解離性同一性障害は自然に消失することはないから、生活に支障が出ている場合は治療することになるよ。具体的には、一翔くんの中にある複数の人格をひとつに統合するための精神療法を行っていくことになるんだけど……その過程で、きみにはほかの人格と向き合ってもらうことになるし、つらい記憶を思い出させてしまうことにもなるかもしれない」

 それを聞いた一翔の表情が、かすかにゆがむ。目の前で姉が亡くなったときの光景や、「あなたのせいで」と自分を責める母親の声が、フラッシュバックしたのだろう。その苦痛を少しでも取り除いてあげたいと、遊佐が口を開きかけたときだった。

「僕が、危ない状態なのは、わかっているつもりです」

 学生服の太もも部分を両手でギュッと握りしめて、うめくように一翔が言った。

「でも僕、こんなこと言うとヘンなのかもしれないですけど……自分の中に、姉がいるのを感じるんです。僕が小さいころに優しかった、歌とダンスが大好きな姉が、今でも僕の中で生きているような気がするんです」

 遊佐は、すぐには返事ができなかった。

 解離性同一性障害の患者で、主人格と別人格がとくに問題も起こさず、共存しているという例は世界的に見て存在する。しかし、別人格が憑依しているときに犯罪を起こしてしまったという例もある。佐倉一翔の場合、陽気で活発な姉の人格は無害であったとしても、残る二つの人格が気がかりだった。

 すると、そんな遊佐の気がかりを読み取ったかのようなタイミングで、一翔が続けた。

「姉以外の二人が消えることは、べつにいいんです。あの二人が消えてしまったら、生きづらくなるのかもしれないけど……でも、一人はまた万引きしようとしてたし、やっぱりあの二人は危ない人格かもしれないから、治療して消したほうがいいんだろうなって思います。だけど、姉だけは、守りたいんです。十年前のあの日、姉が僕を守ってくれたみたいに。たしかに、今ここにいるのは僕が創りだしたニセモノの姉かもしれないけど、それでもいいんです。僕はただ──姉が死ぬところは、もう二度と、見たくないんです」

 今度こそ、遊佐は黙り込んだ。主人格とひとつの別人格だけを残して解離性同一性障害を治療する方法など、遊佐は聞いたことがない。そもそも、そんなことが可能なのかどうかもわからなかった。

「遊佐センセ」と、呼ばれて顔を上げてから、遊佐ははっとした。今の呼び方は、佐倉一翔のものではない。

「あたしたちはもう、二人で一人なんだよ?」

 目の前にあった表情は、佐倉一翔とはまるで別人。それは、一翔の体を借りた、一人の少女だった。

「あたしが死んじゃったあと、一翔はたくさん、つらい目に遭ったの。それをなんとか乗り越えられたのは、あたしが一緒にいたからなんだよ? あたしを無理やり引き離そうとしたら、弟が壊れちゃう。そんなかわいそうなこと、しないであげてよ」

 お願い、と、手を合わせてこちらを見つめてくる瞳は、室内灯を映して潤んでいる。突然の入れ替わりに一瞬ひるんだ遊佐だったが、すぐに気持ちを取り直した。

「これからのことは、一翔くんともう少し話をさせてもらいたいと思っているよ。今日のところは、これでおしまいだから、もう一度、一翔くんと代わってもらえるかな? 次に来てもらう日を決めておきたいんだ」

 遊佐がそう語りかけると、瑞希は「ふぅん……」とつぶやいてから、目を閉じた。

 三秒後、すっとまぶたを持ち上げた相手を見て、遊佐は、瑞希から一翔に戻ったことを確認する。それから次の来院予定を決め、できるかぎりにこやかに、一翔を送り出した。

「ありがとうございました、先生」

「お大事に。もし不安なことがあったら、いつでも連絡をくれていいからね」

 ぺこりと頭を下げた一翔が、遊佐の前から姿を消す。デスクに戻った遊佐はイスの背もたれに体重を預けると、眉間をほぐしながら低くうなった。

 解離性同一性障害は、遊佐の経験上でも珍しい症例だ。少ない症例の中でも、やはり人格統一するのが一般的な治療法で、「ひとつの人格とだけ共存したい」という一翔の希望を叶えられるのかどうか、今は予想もできない。仮に、そんなことが可能だとして、姉の人格を一翔の中に残すことが一翔のためになるのかも、判断の難しいところだ。

 そこでふと、最後にもう一度、佐倉一翔と入れ替わった佐倉瑞希が遊佐に見せた表情を思い出した。「あたしを引き離したら弟が壊れちゃう。そんなことしないで」と、手を合わせて懇願してきた彼女の瞳はうるうると震えていて、本当に、大切な弟の身を案じているようだった。それくらい、遊佐の心に訴えかけてくるものがあった。

「亡くなっていなければ、今ごろ本当に女優になっていたかもしれないな」

 何気なくつぶやいて──三秒後、遊佐は、がばっと上半身を跳ね上げるように跳び起きた。まさかというざわめきを胸に感じながら、直近の記憶を巻き戻す。

 万引きをもくろんだ過激な人格から瑞希に代わって、前回同様に陽気な彼女と会話した。サインも一翔の筆跡ではなかったから、あのとき遊佐が会話したのは間違いなく、一翔が形成した別人格たる佐倉瑞希だ。そのあと、遊佐の呼びかけに応じて、別人格の瑞希から主人格の一翔へと戻った。そして、「姉だけは守りたい」という一翔と会話していた途中で唐突に瑞希が再度出現し、また一翔に代わってもらって、彼を送り出したわけだが──

 ──自分が送り出した「彼」は、本当に佐倉一翔だったのだろうか?

 もっと言えば、どこからどこまでが佐倉瑞希で、どこからどこまでが佐倉一翔だったのか?

 言動や筆跡、好みやクセ、それ以外のありとあらゆる細かな違いから、遊佐は主人格と別人格を区別していた。そのはずだった。しかし、「夢は女優になること」と笑う少女にとって、実の弟を演じることなど、たやすいのではないのか。もしも彼女が、遊佐の目を本気であざむこうとしていたのだとしたら、遊佐はそれに気づくことができただろうか。

「まさか……」

 背後の壁に飾られた青と白のアイリスの絵は、正解を教えてはくれない。


 アイリス記念総合病院を出た佐倉一翔は、その場でくるるっと回って、空を仰いだ。すがすがしく晴れていた青空に、西から夕暮れが迫っている。青とオレンジが絶妙に混ざり合って、そのはざまには黄金の帯ができていた。

「はぁー、きれいな色。踊りたくなっちゃうなっ」

 空に向かって喜色満面と両手を伸ばし、ステップを踏みながら鼻歌を口ずさむ。軽快に踊っているようでもあり、強引に踊らせているようでも、踊らされているようでもあるその足もとには、あの世とこの世のはざまに咲くといわれる真っ赤な彼岸花が一輪、風に揺れていた。

「終わらせたりなんて、絶対にしないんだから」

 それは、「少年」とも「青年」とも、そして「少女」とも区別のできない、不思議な歌声だった。


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シビトバナ 橘つばさ @yuuki_p

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