逃避行

七々瀬霖雨

逃避行

 コンビニの前で水を飲んでいた君が、私にこう言ったのは唐突なことだ。

「そろそろ行くか」

 うん、と私は頷く。せっかく買ったアイスは冷たすぎて食べられなかった。口をつけていないそれを君は一口で食べてしまうから、自腹なのにな、と少し恨めしく思う。

 ただし立ち上がるときだけ貴方は格好良いナイトになってくれる。伸ばされた手を掴むと、貴方は私を引き上げてくれた。しゃがみこんでいた私は見事に立ち上がる。そろそろ舞台も第二部の始まりだ。きっと勿論、主役は私たち。

 月のない夜道を、ぶらぶらと二人きりで歩いていく。隣の車道にも人はいなくて、まるきりそこは私たちだけの世界だった。


 そろそろ良いかな、というようなタイミングで、君はいつも、普段と違って優しく口を開く。

 その言葉が、私たちの関係の全てだ。


「今日はどこまで逃げようか?」


 私たちは、逃げ続けている。

 遠い遠い場所からずっと、二人きりで。


 追われているのは君だけど、私はその途中で合流した、いわば仲間キャラ、みたいなものだろうか。とはいえ私も追われてはいる。一緒に逃げはじめたのは随分前だ。

 そんな仲間に、私は指をさす。

「なら、今日はあそこまで」

 夜空の中でくっきりと浮かぶ塔のようなビル。青いイルミネーションがちらちらと光っていた。

「了解」

 とにかく、光の中へ行きたかった。

 暗闇の果てのような夜道を歩いていく。君は私に時々話しかけては笑って、満ち足りたみたいな顔をした。

「ね」

「ん?」

「もう少し、遠いほうが良かった?」

 ……心配だった。私たちが満ち足りているわけがない。

「……ん―、まあ……」

 君は何も考えていないように、ペットボトルを額に当てる。

「いいんじゃない。俺らはとにかく、みつからなければ――逃げ切れたらそれでいいんだ」

「そうだよね」

「全くだよ」

 小さく笑ったその時、ふと、迫ってくるような静かな足音がした。私たちのものじゃない足音――

「まずい」

「嘘?」

「逃げるぞ」

囁いた直後、君は私の手を取った。そのまま走り出し、私も引きずられて走る。

 怖いもの見たさで振り返ると、私たちを追いかけてくる黒い影が見えた。こちらに向かってひた走ってくる。ぞっとして、慌てて貴方の頭を見つめる。

「振り返んなよ」

 ぎゅっと強く手首を握られた。

「怖がらなくていいから!」


 変わらず人気のない細い路地裏で、私はへたり込んでいた。あいつはもういない。振り切れたようだ。

 貴方は少し離れた所でぽつんと光る自動販売機の前に立っている。ごとんと重い落下音がした。君はいつも、私より早く立ち直る。

「ん」

 戻ってきた貴方は私の額に冷たい缶を押し付けた。煤けて黒くなったラベルを見れば、有名だったサイダーの名前がうっすらと残っていた。

 何も言わずプルタブを引き上げる。炭酸は苦手だけど無理矢理あおった。喉の奥が炭酸で焼けそうに痛くなる。貴方はというと自分の分を一口飲んで、私をそっと見下ろしている。

「そろそろ、帰るか?」

 毎夜、この言葉には痛みが走る。結局、あのビルまでは辿り着けなかった。

「もうちょっとだけ」

 喉の痛みにすがって、私は小さく否定する。貴方の言葉の痛みを、夢を。

 貴方はずっと、私のそばにいてくれた。


 まだ。

 今帰ったら、みえてしまう。本当のことが。たとえばこれが夢だとして、私の信じているものが、目が覚めれば消えてしまうと解ってしまうかもしれない。

 だから、痛いくらいに願っている。追いつかれないように、ずっと、逃げ続けられるように。


 ゴールなんかなくていい。逃げ切れることもきっとない。


 だから、夜が明けたのだ。

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