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 翌日、寮の同期たちは皆朝早く出社するため、早い時間に来る必要はないと言われてはいたが、彼らに合わせる形で僕もまた始業の一時間以上前に会社に到着した。

 カフェは確か七時からやっていたと思い出し、行ってみる。

「おはようございます」

 カウンター内では光田が一人で作業していた。他に客がいなかったので僕は昨日の礼を言おうと近づいていった。

「アイスコーヒーのMをお願いします。あの、昨日はありがとうございました」

「アイスコーヒーのMですね。こちらからお出しするのでお待ちください」

 淡々と返してきた光田が差し出してきたのは、やはりLサイズだった。

「おまけですか?」

 礼を無視されたため、確認を取る。

「迷惑ですか?」

 と、光田は僕が予想していなかった問いを返してきた。

「いえ。嬉しいです。ありがとうございます」

「桐生さんには内緒にしておいてください。自分にもおまけしろと煩いから」

 光田が肩を竦め、ふふ、と笑う。今までとは違う愛想のよさに戸惑いはしたが、無愛想なのは桐生限定なのかもしれないと気づいた。

「内緒にしておきます。気づかれそうですが……」

「あの人、鋭いですよね。髪切った? とかいろんな人に声をかけてるし。チャラいですよね」

 他に客がいないからか、光田が会話をしかけてくる。悪口めいたことを言っているが、多分彼女は桐生を意識しているのだ。好意を抱いているんじゃないかと思う。それなら、と昨日聞いたことを教えることにした。

「今は彼女いないって言ってましたよ」

「別にどうでもいいですけど。そんなこと」

 途端に光田が憮然とした顔となる。

「百六十円です。社員証、かざしてください」

「あ、すみません。ありがとうございました」

 それでも支払いはMサイズにしてくれたことに感謝をしつつ支払いを済ませ、職場へと向かった。

 地下三階の執務室に入ると、昨日大門が言っていたとおり、中には誰もいなかった。パソコンを立ち上げ、メールをチェックすると、同期会のお知らせが来ていた他は研修の案内くらいで、仕事関連のメールは一通も届いていなかった。

『普通』の部署に配属されたら、取引先や社内関連部署からのメールが毎朝山のように届いているのではないだろうか。海外とは時差があるから、夜中のうちにも届くだろうし。しかしこの部署の表向きの仕事は社内の雑務なので、読まねばならないメールは来ない。確かに朝来てもやることはないんだなと思いはしたが、無駄に時間を過ごすのもなんなので、社則を読み込むことにした。コンプライアンス違反を摘発するには、まずは社内のルールに精通する必要があると考えたのだ。

 昨日頭に叩き込んだ接待費関連を復習したあとに、経理規定に進む。伝票認証権限について理解しようと手元のメモに書き写していると、ドアが開き大門が出社してきた。

「おはよう。早いね」

「おはようございます。新人は皆寮を早く出るので」

 昨日『早く来る必要はない』と言われていたのにと、我ながら言い訳めいたことを告げると、大門には「そんなに気を遣わなくていいよ」と苦笑されてしまった。

「十時半過ぎに、事務用品の補充をするまでは好きにしていてくれていい。ああ、社則を読んでるのか。勉強熱心だね」

 いいことだ、と微笑むと大門は自席につき、パソコンを立ち上げて画面に集中し始めた。僕も再び社則を熟読し、伝票の認証者についてのルールを一つ一つ頭に入れていく。

 桐生は始業の二分前に音楽を聴きながら登場し、三条は予告どおり十時に出勤してきた。化粧と服装で女性はああも変わるのかと、つい、まじまじと顔を見てしまい、気づいた彼女に睨まれる。

 十時半になったので、事務用品の入ったワゴンを引き、荷物用エレベーターに乗り込んだ。

「新人さん? 桐生君から引き継いだのかい?」

 今日も清掃の女性とエレベーターが一緒になった。桐生にするように親しげに声をかけてくれる彼女たちとのお喋りもまた、情報収集の一環ということだろう。桐生のようなスキルはないが、誠意を込めればきっと道は開けると信じ、まずは自己紹介、と、

「宗正です。よろしくお願いします!」

 と一人一人に挨拶をし、元気がいいねと褒められたことに安堵した。

 しかしフロアでの情報収集はまったくできなかった。桐生は自分から周りの事務職に声をかけたり、逆にかけられたりと会話が絶えなかったが、僕が一人で事務用品を補充していても誰も声をかけてくれる人はいない。同情的な視線を遠くから浴びせてくるといったパターンが多い気がした。『遠くから』というのは多分、かかわりあいにはなりたくないということだろう。問題のある新人だから総務三課に配属になったのではという目で見られているのをひしひしと感じつつ、昨日より随分と早い時間にフロアを回り終えて地下三階に戻ると、桐生が明るく声をかけてきた。

「どうだった?」

「……上手くできませんでした」

 会話を交わしたのは昨日の法務の同期くらいだった。それも「寮に入ったんだって?」という程度の短いものだ。

「手早く終えたじゃない。補充はできたんだろ?」

 桐生が意外そうに問うてくるのに、

「誰とも話ができなくて」

 と俯くと、ぷっと噴き出す声が響いてきた。

「当たり前じゃん。今日、一人で回る初日でしょ? 俺は約一年、やってたんだよ。会話するようになるまで、結構かかったんだから」

「そうなんですか」

「そうだよ。少しずつフロアの皆と関係を構築していったんだ。それを昨日今日でやろうなんて、百年早いよ」

「た、確かに」

「いや、百年は待てないから」

 納得していた僕の傍で、大門が苦笑してみせる。

「桐生君が下地を作ってくれているから、ひと月もかからないと思うよ」

 加えてそんなフォローをしてくれた彼が「さて」と僕らに声をかける。

「会議に入りたいんだけど、いいかな?」

「はい」

「もうすぐ昼だし、午後にしましょうよ」

 桐生はごねたが大門は彼を無視し、壁面キャビネットに向かっていった。ぶつくさ言いながらも桐生が彼に続き、その後ろに僕もつく。地下三階の総務三課の部屋に入る社員はほとんどいない。備品を借りに来る人たちも、備品置き場での引き渡しになるのでこの部屋に足を踏み入れることはないのだが、それでもこんな秘密基地のような場所を作る必要があったのかと、キャビネット奥の秘密会議室のテーブルにつきながら密かに首を傾げた。

「用心するに越したことはないからね。ここは社内の監視カメラも入っていない。僕たちが設置したカメラは入っているけどね」

 本当に大門は僕の思考を完全に読む。昨日、考えていることが顔に出ると言われたが、そこまで出ているだろうかと思わず頬を触ってしまった。

「我々の仕事はそれだけ極秘ということだよ。言っただろう? 知っている人間はごく限られていると」

「課員と総務三課を作った人、ですよね」

 そう聞いた、と確認してから、そういえばその『作った人』は誰なんだろうという疑問を今更持つ。

「誰が作ったんですか?」

「それはまたおいおい」

 しかし聞いても誤魔化されてしまい、ますます疑問を抱くことになった。普通に考えたら社長とか? それとも総務を管轄している役員か? なぜ、教えてもらえないのか。からかわれているわけではなさそうだが、と大門を見るも、きっと理由を聞きたいのはわかるだろうに、彼にはスルーされてしまった。

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