3ー③

「実際、不正にかかわっているかどうかを調べるのはこれからだから。今から緊張する必要はないよ」

 大門が苦笑しつつそう言うのに、確かにそのとおりなのだろうが、と、思いながらも、僕は今更のように自分が携わるようになった仕事の重さをひしひしと感じていた。

 社員の不正を摘発する。新入社員の僕が。畏れ多いどころじゃない。さあっと血の気が引いていくのがわかる。

「青ざめちゃいましたよ。大丈夫?」

 桐生が心配そうに僕の顔を覗き込む。

「大丈夫……というか……」

 ここは『大丈夫です』と言うところだろうが、鼓動は高鳴っているし、変な汗はかいているしで、身体の不調すら感じていた。

「初日から濃かったからね。今日はゆっくり休むといい。ああ、新入社員だからといって、朝早く来る必要はないよ。始業時間に仕事が始められるようにしてくれればいいから。そもそも早朝は誰もいないからね」

 大門も僕を気遣ってくれているようだ。

「今日は解散にしよう。桐生君、彼、送ってあげて」

「わかりました。それじゃまた明日」

 桐生は大門に頭を下げると、立ち上がりながら僕の腕を掴んできた。

「立てるか?」

「立てます。あの」

 送ってもらうのは申し訳ないのでは。まだギリギリ電車が動いているのではないだろうか。自力で帰ると言おうとしたが、桐生は僕の腕を離さなかった。

「遠慮はいらないって。慣れてきたらドライバー役は替わってもらうことになるしね。あ、免許持ってるよね?」

「持ってます。車は両親と共有なんですが」

 とはいえ父も母もほとんど車は使わない。ほぼ自分の車と言っていいのだがと言葉を足そうとすると、大門に笑われてしまった。

「本当に君は真面目だな。とにかく今日は頭を空っぽにして休むこと。明日から本格始動になるからね」

「そういうこと。遠慮はいらないよ。言っただろ? 体育会系の上下関係は苦手って」

 帰ろう、と桐生に促され、玄関へと向かう。大門は玄関先まで見送ってくれた。

「しつこいようだけど、他言無用だよ。相談するなら僕たち限定で。三条さんにしてもいいけど、お金とられる可能性大だから気をつけて」

「えっ」

 有料? と驚いたせいで思わず声を漏らしたが、大門と桐生が顔を見合わせ笑ったのを見て、からかわれたのだと気づいた。

 多分、これも気遣いなんだろう。いっぱいいっぱいの僕を見かねたに違いないと、二人に「すみません」と頭を下げる。

 それに対する二人の返しはなく、「また明日」と笑顔で送ってくれた大門に頭を下げると、桐生と共に地下駐車場へと向かったのだった。

「寮はなかなか楽しいよ。部屋にシャワーはついているけど、大浴場に行くのがお勧めだ。ああ、あと、食事は申告制なんだ。朝食は全員分用意されているけど、夕食は出る前にエントランスのボードにマグネットを貼っておく。原始的だけどこれが一番面倒がなくていいらしいよ」

「詳しいですね」

「この間まで住んでいたからね」

 感心した僕に桐生はそう言い、肩を竦めた。

「ルールで三年しかいられないだろう? 仕方なく今年から部屋を借りたんだけど、寮って本当に楽だったと実感してるよ」

「そうなんですね」

 そういえば桐生は四年目と言っていた。そんなに寮生活は快適なのか。自宅から通うつもりだったので、同期が寮の話題で盛り上がっているときも横でなんとなく話を聞いていただけだった。そういや皆、楽しそうだったなと思い出していた僕を、続く桐生の言葉が現実に引き戻す。

「寮は情報収集の場として最適だからね。とはいえ、今日は何も考えずに寝るといい。力むと疑われちゃうから。いい感じに脱力するといいんだけど、その辺のノウハウは明日にでも教えるよ」

「あ……りがとうございます。よろしくお願いします」

 そうだ。呑気に寮生活の楽しさを想像している場合じゃなかった。これも業務の一環なのだ。一気に緊張を高めていた僕の横で、桐生がやれやれというように溜め息をつく。

「だから。リラックスすること。頭は空っぽに、だからね? そんな必死の形相で帰ったら、何事かと皆の注目を集めちゃうよ」

「あ……気をつけます」

 そんな顔をしていただろうか。しかし心は確かに『決死の覚悟』を固めていた。いけない、と息を吐き出し、リラックス、と心の中で呟く。

「音楽でも聴く?」

 リラックス効果を狙ってくれたのか、会話はここで終わった。桐生の選曲はジャズで、意外なような気がしながらも、聴いたことはあるが曲名はわからない曲に耳を傾けているうちに、車は寮に到着した。

「それじゃ、また明日」

「ありがとうございました」

 桐生の車の尾灯が見えなくなるまで見送ったあと、建物内に入る。一階のエントランスの奥はロビーのようになっているのだが、そこに座りパソコンを膝の上で開いているのが僕のよく知る人物と気づき、思わず声をかけた。

「真木先輩!」

「え? あれ? 義人、お前、寮だっけ?」

 不思議そうな顔で問い掛けてきたのは、大学のテニスサークルの先輩にして僕がこの会社に入るきっかけ――というか最大の動機となった、大尊敬する人だった。

 真木和実。テニスは体育会テニス部の部員より強かった。日焼けした肌に白い歯が爽やかで、整った容貌と優しい性格ゆえ女子人気は非常に高く、モテまくっていたが、高校時代から付き合っている彼女一筋で浮いた噂の一つもない真面目なところがまたモテていた。女子だけでなく、面倒見のよさとさりげない気遣いのおかげで、先輩後輩、男女を問わず人気があった。僕も面倒を見てもらった一人だ。青年海外協力隊に誘ってくれたのも彼だし、僕が『インフラの整っていない国に貢献したい』という夢を抱くようになったのも、真木が同じ夢を抱いていたからだ。

 志望動機をパクったわけではない。目を輝かせながら、恵まれない国への社会貢献を語っていた真木に心酔――という言葉はちょっと気持ち悪いが、とにかく、彼と同じ夢を追いたいと願っているのだ。

 贈賄の不祥事が公表された際、心配したのは自分の入社より真木のことだった。連絡を取って話を聞いたときに、真木は、

「世間の信用を取り戻すのは至難の業だけど、自分たちにできることをするしかないんだ」

 と言っていて、信念の籠もった強い光を持つ眼差しを前に僕は、やはりここに入社しようと心を決めたのだった。

 そうだ、真木は学生時代から東京で一人暮らしをしていた。実家は確か北海道だった記憶がある。

「はい。急遽入寮が決まりました。仕事の関係で」

 自然と声が弾む。同期も勿論心強いが、真木が寮にいるとなると倍、心強い。何より嬉しい、と自然と笑顔になっていた。

「仕事? あ、配属見たよ。総務三課だったよな」

 と、ここで真木が心配そうな顔になる。

「驚いたよ。何かの間違いだと思うんだけど、研修中に何かあったりしたか?」

「あ、いえ。ないと思います」

「地下三階で、備品を管理したりする部署だよな、三課って。今年はどの部署も新人が足りないというのに、どうしてそんなところに配属になったのか……」

 ドキ、と鼓動が高鳴る。真木の顔を見れば親身になってくれているのがわかるだけに、うっかり三課について真実を説明しそうになるが、当然、許されるはずもない。

「人事の同期に聞いてみるよ。何か誤解があったに違いないからね。それとも何か新しいプロジェクトでも立ち上がっているのかな? 仕事についての説明はあった? どんな業務を担当することになるのかな?」

「あったというか……その……」

 グイグイ来るのは多分、それだけ心配してくれているからだ。そんな優しさを無下にするのは本当に心が痛んだが、そうするしかないことは誰より自分が一番よくわかっていた。

「ありがとうございます。確かに希望した配属先ではないですが、まずは頑張ってみます」

 なんとかそう言い、真木に頭を下げる。

「義人は頑張り屋だから、その分、心配だけど、外野が色々言うことじゃないよな」

 突き放すような言い方になってしまったからか、真木が反省したようなことを言い出したことで、僕の胸の中に罪悪感が広がっていく。しかし、フォローはできないのだと、つらく思いながらも僕は、せめて感謝の気持ちだけは伝えたいと何度も頭を下げた。

「ありがとうございます。本当に嬉しいです」

「愚痴ならいくらでも聞くから。そうだ、近いうちに飲みに行こう。約束してたもんな」

「ありがとうございます……」

 本当に優しい。しかし一緒に飲みになんて行ったら、酔った勢いで喋ってしまうのではないかと心配になる。

 多忙を理由に断るしかないのか。三課については誰にも喋ってはならないと言われたとき、それがこうもつらいものだと全く理解していなかった。

 家族とは別に仲が悪いわけではないものの、仕事の話をするつもりはもともとなかった。同期にも誤魔化せる気がしていた。学生時代からの友人はいないし、二週間の研修を一緒に過ごしはしたが、隠し事をしたくないと思うほど打ち解けてはいない。

 唯一、嘘をつきたくないという相手がいることを、なぜ、僕は思いつかなかったんだろう。信じがたい、そう、ドラマのような展開に驚くばかりだったからだろうか。それとも無意識のうちに、嘘をつきたくないという希望が先に立っていたからか。

 これから真木と、どうやって付き合っていけばいいのだろう。同じ寮で嬉しいはずが、とんでもなく憂鬱になっている。

 信頼できる先輩との今後の付き合い方に関して頭を抱えてしまっていたが、この先、更に頭を抱える出来事がその真木との間に起こることなど、未来を見通す力のない僕にわかろうはずもなかった。

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