2-④

「大門さん、スパルタすぎないっすか? 今日はまだ配属初日ですよ」

 桐生がやれやれというように溜め息をつきつつ、大門に話しかけている。もしや庇ってくれているのかと気づくも、テストという単語が僕から一切の余裕を奪っていた。

「即戦力になってほしいからね。君のときも相当スパルタにしたと記憶しているけど」

「だから配慮を求めるんじゃないですか。数日間、安眠できなかったんですから。ここにきたばかりのときは」

 大門と桐生、二人の会話を聞くうちに背筋が凍る思いとなる。それほど大門は厳しいのか。テストを間違ったらどうなるんだろう。不安を抱えながらも僕は社則と細則の接待関係部分を、記憶するまで読み込んだ。

 三十分後、大門の声が室内に響く。

「それじゃあパソコンもノートも閉じて」

 テストだ。答えられますようにと祈りつつ、言われたとおりにパソコンもノートも閉じる。

「接待を行う際の必須のルールは?」

「事前承認を受けることです」

「課長の承認金額は?」

「五万以下」

「部長は?」

「十五万以下。十五万超の場合は本部長となりますが、本部長には上限がありません」

「部長が同席した場合の承認者は?」

「五万以下なら課長、五万超なら本部長の承認が必要です」

「承認方法は?」

「接待費管理簿の記載への押印、または経費精算システムでの認証のどちらかでの承認です」

「事前に申請できなかった場合は?」

「メールでの認証依頼や電話で承認があった旨を残しますが、それが許されるのは急な接待の場合のみで、事前に日程がわかっている接待で事前承認を受けなかった場合、本部長への報告書が義務づけられます」

「よく勉強したじゃないか」

 よしよし、と、ここで大門が笑顔になる。

「合格ってことですね?」

 横で見ていた桐生が僕の代わりに聞いてくれたのに、大門が「まあね」と頷く。それは合格ってことだよなと、僕はひっそりと安堵の息を吐いた。

「三十分で細かいところまでよく覚えたよ。えらいえらい」

 大門は『まあね』だったが、桐生は手放しで褒めてくれ、嬉しくなった。

「ありがとうございます」

「さてそれじゃ、出掛けようか」

 それで礼を言ったところに、大門が声をかけてくる。時計を見ると間もなく午後六時になろうとしていた。

「夜の街に繰り出すんだよ」

 桐生がニコニコ笑いながら説明してくれる。夜の街――飲み会ということだろうか。ということはもしや、歓迎会をしてくれると?

 期待は、だが次の瞬間には裏切られることとなった。

「仕事だよ。我々の業務は説明よりはまず実践と言っただろう? いわばOJTだ」

 言いながら大門が僕を見て、バチ、とウインクしてみせる。今日もらった二発目のウインクもまた、僕には相当強烈な印象を与えた。全然、くたびれた中年じゃない。覇気のかたまりみたいなオーラが彼からは立ち上っている。着替えたわけでもぼさぼさの髪を整えたわけでもない。表情が変わるだけで一気に印象が変わるというのもすごいと感心したあと、これから『仕事』だという彼の言葉をようやく理解した。

 どういう仕事なんだろう。就業時間は間もなく終わろうとしている。初日から残業なのか? あ、就業時間中に入寮のために自宅と寮を行き来した。あれは『勤務時間』とはカウントされないのか。

 出勤簿のつけかたも一応、研修中に習ったものの、今日みたいなイレギュラーなケースは当然ながら例にもあがっていなかった。

 しかし今は出勤簿のつけかたを悩んでいる場合ではない。既に部屋を出ようとしている大門と桐生に遅れまいと鞄を手に取る。

「あ、鞄はいらない。二台目のスマホさえあればいいから」

 と、気づいた大門に言われて慌てて鞄を手放す。スマートフォンはポケットに入っていた。財布も持っている。大丈夫、と判断を下し、手ぶらで二人に続く。二人もまた手ぶらだった。荷物用エレベーターを使うのかと思っていたら、そのまま非常階段へと向かっていく。

 二人とも、上りの階段はキツいとか言っていなかっただろうか。あれもキャラを作っていたのか? 首を傾げながらも身軽な動作で階段を上っていく彼らに続き、一階のエントランスから外に出る。

 今更になるが、三条が席にいなかったことを僕は思い出していた。五時すぎに戻ったときには既にいなかったように思う。時短なのだろうか。彼女は総務三課の真の役割を知っているのか。知らないわけはないと思うが、などと考えているうちに、二人は通りを挟んだ斜め向かいのビル内へと入っていく。そのビルは地下一階と二階が商業施設になっていて、地下二階の中華料理店が彼らの目的地だった。

「ここは担々麺が美味しいんだよ」

 他に客は誰もいない店内で僕にそう言った大門は、注文を取りに来た店員に「担々麺」と告げていた。

「俺も担々麺。宗正君は?」

「あ、僕もそれじゃあ担々麺で」

 桐生に問われ、同じものを注文する。夕食を食べに来たのか? やはり歓迎会をしてくれるつもりだった? またも頭の中が疑問符だらけになっていた僕に、大門が説明してくれる。

「仕事前の腹ごしらえだよ。君の歓迎会はちゃんと開催するから。担々麺だけで終わりだと思わないように」

「あ、ありがとうございます」

 不満を持ったわけではないが、そうとられてしまったのだろうか。慌てて頭を下げた僕を見て、桐生が楽しげに笑う。

「宗正君は本当に気持ちが顔に出るよね。俺たちに対してはそれでいいけど、これからは腹芸も覚えてもらうことになるからね」

「腹芸ですか?」

『腹芸』と聞いて一番に頭に浮かんだのは、お腹に顔を描く『腹踊り』だった。

「違うから」

 口に出したわけではないのに、大門に噴き出され、どうしてわかったのかと驚く。

「演技力も磨いてもらうことになるけど、今日はまあ、いるだけでいい。目の前で何が起こっても声を上げないでいること。いいね?」

 そんな僕に大門が淡々と指示をしたところに、注文してまだ時間もさほど経っていないというのに担々麺が運ばれてきた。

「さあ、食べよう」

 大門に言われ箸を持つ。担々麺は美味しかった。昼食べた社食のラーメンがいかに不味かったかを改めて思い知らされる。

「ここ、昼は混むけど、時間をずらせば大丈夫かな。夜は残業前後に食べにくる社員が多い。この時間は穴場かな」

 食べながら桐生が説明してくれる。空いているのはそのせいかと納得しつつ食べ終えるとすぐ、大門が立ち上がった。

「行こう」

「ちょ、待ってください。まだスープ残ってるんで」

 桐生が慌てて止めるのに「遅い」と大門が彼を睨む。

「喋っているからだ」

「すみません」

 相手は自分で、桐生は説明をしてくれていた。それで詫びると大門は、やれやれ、というように溜め息を吐き僕へと視線を向けた。

「いい子だね、君は」

「子……」

 なりたてではあるが社会人だ。子供扱いされようとは思わなかった。思わず声を漏らした僕を見て、桐生が楽しそうに笑う。

「大門さんからしたら、宗正君も俺も子供ってことだよ。おかえしに『お父さん』と呼んでやったら?」

「えっ」

 そんなこと、できるはずがないと焦る僕の前では、大門が桐生を睨んでいる。

「喋る間があれば食えと言ったよな?」

「食いましたよ。さあ、行きましょう。宗正君のOJTに」

 上司相手とは思えないくだけた口調で桐生はそう言うと「はい」と伝票を大門に差し出す。

「奢りですよね、課長」

「宗正君の分は出さないでもないが、桐生君の分まで払うのはなあ」

「ちゃんと部下掌握費、使ってくださいよ」

 言い合いを始めた二人には緊張感がまるでない。しかしこれから何が起こるのかまったくわかっていない僕は、先程から緊張しまくっていた。

 桐生の押しに負けたのか、はたまた最初から奢る気だったのか、三人分の担々麺の支払いを終えた大門が「行くぞ」と声をかけてくる。

「ゴチになります」

「ご馳走様です」

 桐生が先に言わなければ、奢ってもらった礼も言いそびれるところだった。反省しながらも益々緊張を高めつつ、僕は二人に続いて店を出るとビル内の通路を進み、直結となっている地下鉄の改札口へと向かったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る