第2話 釣りと葉巻
ワンポールテントが1つ、激流の川沿いに立つ。
アルミ製の折り畳みイスと同じミニテーブルがテントの隣に置いてある。
ミニテーブルには葉巻用の細長い灰皿と葉巻。
赤ずきんは煙と共に漂う甘い香りに目を細めた。
彼女の斜め前には体長160センチの大柄な狼が、川に左側を向けてお座りの姿勢で待つ。
大きな口で折り畳み式の釣り竿を銜えていた。
琥珀の左目は激流と釣り糸の行方を捉える。
「最近ハマってるね、狼さん。肉より魚の方がおいしい?」
『……』
「こんな流れの強い川でも釣れるの?」
『……』
「狼さん?」
『がふがふがぁ』
赤ずきんは分かったように頷く。
「なるほど、串焼き派かぁ。私はムニエルがいいなぁ」
狼は特に何も言わず、黙り込んだ。
釣り糸がぐいぐいと引っ張り始め、狼は鋭い琥珀の眼光で起き上がり、前脚と後ろ脚を踏ん張らせて顔を大きく振った。
軽く弾けるような音が聴こえ、赤ずきんは目を丸くさせる。狼も驚いて横に転んでしまう。
「あ」
狼の口の中で破片が飛び散り、先の釣り竿は激しく流れる川へと引きずり込まれていく。
『がぁああ! 竿がぁああ!!』
狼は器用に悲鳴を上げた。
「どこかの小屋にあったぼろ竿だからね、狼さん、仕方ないよ」
『くそっ!』
伏せて尻尾まで地面につけた狼は、惜しむように川を眺める。
赤ずきんは葉巻の火のついた先端に息を吹きかけ、煙を消す。
専用の小さな容器に入れてカバンへ。
「さ、行きますか」
赤ずきんはボルトアクションライフル銃を背負い、ダブルアクションリボルバーが収まるホルスターを腰に巻く。
狼の横顔を撫でた後、閉じた右目にリップ音をつけて口づけをする。
川沿いを歩いていると見えてきた見知らぬ町。
馬車が対向できるほどの広い橋を渡り終えた後、狼はそこで立ち止まり、お座りの姿勢で待つ。
赤ずきんは町の扉がない門をくぐり、内側に踏み込んだ。
緩い上り坂の間に家がいくつもの柱で支えられて平行に建ち並ぶ。
赤ずきんは食料品を扱う雑貨店に入った。
短い階段を軽々と上がり店の扉を開けると、窓の外を不思議そうに眺めている店主がいた。
「あ、いらっしゃいませ。外の橋にいるデカいのってお嬢さんのペット?」
口ひげをはやした店主に訊ねられ、赤ずきんは頷く。
「いえ、大切な私の相棒です。まずかったですか?」
店主は慌てて首を横に振る。
「あぁいや、人を喰わなきゃいい。ただ、もうだいぶ昔に絶滅したって聞いたんでね」
「絶滅、ですか」
「ああいう四足歩行の狼は狩人に全て駆除されたって話。そのせいで人間みたいに歩く狼ばっかり増えてね、それはそれで困ったもんですが」
赤ずきんは静かに目を細めた。
「困りごとなら私、人食い狼さんを駆除できますし、他の小さなことでもしますよ」
店主は赤ずきんの身なりに怪訝そうな表情を浮かべる。
「そんなこと言われてもねぇ、この町には狩人がいるから……お嬢さんも狩人?」
「何でも屋です。いろんな町に行って、依頼をこなしてお金を稼いでいます」
難しく唸る店主は、腕を組んでカウンターの内側を覗いて探し回る。
「そだ、狼の駆除ができるぐらい腕が立つ美人なお嬢さん。森に住んでる頑固なじいさんに食料を運んでくれないかい? 配達は狩人の仕事じゃないそうで。報酬は、そうだな、この店にある物を少し」
赤ずきんは依頼を受け、ひと月分の食料が入った箱を台車に乗せた。紐で固定して、落ちないようにする。
「じいさんが住んでいるのは、橋を渡った先の森。真っ直ぐ行けばすぐに着くから」
先程渡った橋の向こうには、森が広がっている。ほのかに白い煙が空へ。
「分かりました。それでは行ってきます」
赤ずきんは店主に手を振り、台車を押して緩やかな坂を下ると、待っていた狼が身体をゆっくり起こす。
『なんだその大荷物』
「お仕事だよ、狼さん。森にいる頑固なおじいさんに食料を渡しに行く」
『また森か』
「別に1人で行ってくるよー」
『……』
待たずに橋を渡る赤ずきんの後ろを、弱々しい足取りで追いかける。
さほど茂みのない森は、陽の光が十分に差し込む。誘導するかのようにあぜ道が作られ、少し遠くに小屋が見える。
「ここ、意外とちゃんと管理されてるね。人食い狼さんは出てこないかも」
『ニオイはあるが、近くにいない』
「その方が弾も節約できて有難い。お金かかるからね」
白い煙が煙突から空に昇っていく小屋の前に台車を置く。扉と横には小さな窓。狼はよたよたと側面の壁に隠れた。
赤ずきんが扉をノックする。返事はない。もう一度ノックするが、何も聞こえない。
「すみませーん、食料を届けきましたー!」
赤ずきんは大きめの声で呼びかける。
数秒後、扉の内側からなにかが落ちるような音が響いた。
それからまた数秒後、扉が微かに開く。
扉の隙間から細く厳つい目が睨むように赤ずきんを見下ろす。
ほのかに嗅ぎ慣れた香りが赤ずきんの鼻腔をくすぐる。
「なんで子供が?」
毛皮のベストを着た坊主頭の男性が険しい表情で顔を出した。剛毛の髭が首まで隠す。
「依頼です。食料を届けに来ました」
「……確かに店の箱と台車だな」
赤ずきんの身なりと台車をジロジロと見ながら、男性は部屋から代金を持ってくる。
隙間から覗ける室内には、たくさんの葉巻が専用の棚に保管されていた。
分厚い木箱がたくさん並び、葉巻を削るカッターや、高級なマッチが整頓して飾られている。
赤ずきんは灰皿に乗っている葉巻から漂う甘い香りに、目を細めた。
いい香り、そう呟いた。
「なんだ、ガキのくせに」
食料代を乱暴に渡してくる男性から受け取り、赤ずきんは頷いた。
「香りを堪能するのが乙なんですよ」
「は?」
眉を顰める男性。
「って、以前おじいちゃんが教えてくれました」
少し間を空けて鼻で笑った男性は、待ってろ、と零して部屋の中へ。
木箱のロックを外して一本の葉巻を取り出す。
「俺はカルロス、葉巻を作ってる。じいさんに渡してやれ、思わず吸いたくなる一品だ」
赤ずきんは目を細めて受け取る。
「ありがとうございます!」
「ふん、さぁ日が暮れる前に帰んな、もうすぐ人食い狼どもがやってくる。近くに獣の臭いもするしな」
「はい、あ、お礼にこれをあげます」
葉巻専用の小さな容器から1本の葉巻を取って、カルロスに差し出す。
「よその葉巻なんぞいらねぇ」
「いえいえ、これはおじいちゃんが作った葉巻ですよ。うっとりしちゃうぐらい甘い香りなんです」
「いらねぇ、さっさと帰れ」
カルロスに受け取る気がなくても、赤ずきんはぐいぐいと差し出す。
「吸わなくてもいいんです。まだ数本ありますし」
「……ちっ分かった分かった、変わった奴だな」
帰るつもりがない赤ずきんに、カルロスは渋々と葉巻を受け取る。
「褒めてもこれ以上出ませんよ」
「褒めてねぇ!」
カルロスは口をへの字にして、苦い表情を浮かべた。
「ったく、どけ」
荷台から食料が入った箱を小屋の中へ運んでいくカルロス。
扉が全開になり、室内がはっきり見えるようになる。
ベッドは乱雑で、シーツや布団が床に放り投げられていた。
壁掛け棚に飾られた写真立てには若い女性が2人、その間に照れくさそうに写るカルロスの集合写真。
他にも散弾銃が壁に掛けられている。
「用は済んだだろ、もう帰んな」
「失礼ですが、人食い狼さんがいる森にどうして暮らしているんですか?」
「お前にゃ関係ねぇよ。さっさと帰れ」
扉は勢いよく閉まる。
「あらら」
赤ずきんは名残惜しむわけでもなく、軽い台車を押して道を戻る。
狼は周りを見て、そっと草むらから飛び出す。
『全く、冷や冷やする……変な奴にいちいち訊くな』
「まぁまぁ好奇心ってやつだよ」
『もう子供という年齢でもないだろうに、早死にするぞ』
「肝に銘じます」
そんな会話が飛び交うなか、再び扉が強く開いた。
一層険しい表情でカルロスは散弾銃を構え、狼を狙う。
『!?』
怯んだ狼と、リボルバーを手に持ち、1発を放った赤ずきん。
散弾銃のグリップに直撃し、カルロスは衝撃で手元を狂わせて爆発したような強烈な音が森に響き渡る。
近くの木と、草むらから飛び出そうとしていた人食い狼に散弾銃の銃弾が飛び散った。
人食い狼は急所から外れ、痛みに悶えるように唸って地べたを這う。
「この野郎!!」
カルロスはナイフを抜き、人食い狼に突き立てた。
首に深く突き刺さり、人食い狼は前脚を溺れたように激しく動かす。
「苦しめ! 苦しめ! よくもよくも、俺の娘を!! 人食い狼共がぁ!!」
何度も何度も人食い狼の体にナイフを刺し、抜き、刺す。
『赤ずきん、今のうちに逃げるぞ……赤ずきん?』
衝撃波と爆裂音が辺り一帯に響く。
カルロスの体が吹き飛ぶほどの勢い、整った道は血で濡れる。
狼は音に驚いてひっくり返ってしまった。
赤ずきんはボルトアクションライフルを握り、前傾姿勢で猫背気味に、銃床を肩に当て、頬も密着させて構え、照準器越しに標的を狙ったあと。
微かに息をしている人食い狼。
狼は起き上がり、弱々しい足取りながら人食い狼に近づいた。
そして、鋭く太い牙で急所の首根っこに噛みつき、トドメを刺す。
静かに息絶えた人食い狼から牙を抜いた狼は、
『どうしたんだ、赤ずきん』
気の抜けたような表情をした赤ずきんに訊ねる。
「……ちょっとね、手が動いちゃった」
赤ずきんは脆い笑みを浮かべた。
『そうか、こいつは人食いにやられたんだろう。さぁ行くぞ』
「頑固で変な奴だったろ?」
店主は依頼を終えて戻ってきた赤ずきんにニコニコと訊く。
「はい。でも、葉巻を貰いました」
穏やかに微笑む赤ずきんの答えに、店主は驚いた。
赤ずきんは商品の棚を眺めた後、
「配達の報酬にこれください。それと、干し肉と赤ワインは買います」
棚を指す。
折り畳みイスに腰掛けて、赤ずきんはサイドテーブルに置いた灰皿に火をつけた葉巻を乗せた。
甘い香りが漂い、赤ずきんは目を細める。
先に帰っていた狼は水飛沫が上がる流れの強い川を眺めている。
「お気に召した? 狼さん」
狼の横には新しい折り畳みの釣り竿。
『……まぁ、ちょっと、な』
「よかった。それじゃあ明日の朝食は串焼きにしよう。調理はするから、お魚よろしくね、狼さん」
干し肉をナイフで薄く切り、アルミ製のコップに赤ワインを注ぐ。
狼は鼻息を出して、
『ムニエルの方が好きなんだが』
そっと零した。
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