#31

「今回も強みが出ててよかったよ。また来月もよろしく」


 プロデューサーは今月も上機嫌だった。

 次のスケジュールを擦り合わせ、他の番組にも出てみないかという誘いに玉虫色の答えを返す。


 通話を切った後、もう一件、私との通話を求めるリクエストがあるのに気づく。

 発信元は討論を交わしたあのジャーナリストの女性だ。


「先ほどはありがとうございました。素人の疑問にも快く答えてくださって」


 緊張した心持で、通話リクエストを返すと、呼び出し音が一度なり終える前には、あの妙な色気をまとった彼女の姿が、覆現の仮想空間に現れた。


「いえいえ。今日お話しした中では一番鋭い問答でしたよ」


「最年少特任講師に褒められると嬉しいですね」


 これまで何度も投げかけられた型どおりの誉め言葉にも心が浮ついてしまうのは彼女の色気のせいだろうか。


「出演者へのお礼の連絡ですかね。丁寧にもありがとうございます」


 女性とのコミュニケーションでは、しばらく前に大失敗したばかりだ。初対面の出演相手に変なことを口走らないよう自分を戒め、型どおりの言葉を返す。


「それもあるんですが、私が今本職の方で取り組んでいる特集記事で、鷹野先生に取材をさせていただきたいと考えていまして。アポのメールは昨晩送ったんですが、せっかくお会いできたので。直接お願いしてしまおうかと」


 確認すると、たしかにメールが届いていた。


「ああ、すまないね。私の研究について話を伺いたい、と」


「ええ。今取り組んでいる特集記事で鷹野特任講師の研究について扱いたくて」


「研究についての取材なら大歓迎だよ」


「本当ですか」


 これは本音だった。


 一〇歳で出場した国際数学オリンピックで銀メダルを獲得して以来、数多くの取材を受けてきたが、マスコミの関心の的となるのはいつも決まって私の奇異な身体的障碍だった。

 煩わしかった親の干渉も低俗なマスコミの取材をシャットアウトする場面においては大変頼もしかったぐらいだ。


 研究そのものに興味を持ってくれる取材相手、おまけに好みの女性となれば、大歓迎だ。


 スケジュールを確認し、今日の動かせない予定は午後の講義だけなことを確認する。


「これから三時間は空いているから、もしよかったら今からその取材を受けてもかまわないですよ」


「え、いいんですか」


 彼女の喜色満面の笑みにまたしても感情を揺さぶられる。


「じゃあまずは私が博士課程で取り組んだ人体発生における神経リモデリング技術の改善の説明からしようか。共有していいかな」


 こういう時は自分の得意分野に話をさっさと持っていくのが吉だ。


 学生向けの資料を共有しながら、今の私は学生に講義を垂れる大学教員なのだと言い聞かせる。


「反回神経というものを知っているかな」


「ええ。迷走神経の枝で、声帯やその周囲を支配しているのに、わざわざもっと下の方、右では鎖骨下動脈、左では大動脈弓の下を潜って首を下から上に、文字通り反回して走っている神経ですよね」


「よく知っているね」


 知らないと返答が来るものだと思い込んでいたものだからちょっと驚いた。思わず褒めてしまったけれど、おべっかではない。


「で、反回神経がこんなに遠回りするのは、人体発生のせいなんですよね」


「もしかしてこの資料見たことあるのかい」


 彼女のおかしみを押し隠したような笑みを見て感づいた。


「ええ。先生のホームページで」


「なら、そう言ってくれよ」


「ちゃんと勉強してきたんだと自慢したくて」


 照れ笑いを前に、それ以上なにかを言う気が失せてしまった。


「人体発生、つまり受精卵という一つの細胞が六〇兆個の細胞が緻密に組み合わされた人体へと発生する過程で、その形は大きく変化する。心臓もそのひとつで当初はもっと頭側に生じた心臓は尾側、胸腔内へと下降し、この心臓の下降によって元々後に咽頭の一部となる第六鰓弓に分布する反回神経も下に引きずられて行く」


「その結果、反回神経の走行は複雑になり、大動脈や肺、食道などの腫瘍や手術によって障害される可能性も高いと」


 彼女の的確な説明にうなずく。


「もし反回神経の分岐部をもっと上にずらすことができれば、反回神経麻痺によって嗄声や嚥下困難に苦しむ患者も減る。反回神経の奇妙な走行の原因は反回神経と大動脈、鎖骨下神経が絡まっていることにあるのだから、どちらかを切って、絡まりを解消してからまた結び付ければいいわけだ」


「ゴルディアスの結び目と一緒ですね」


「そうだ。神経リモデリング技術は脊髄損傷の治療などで既に実用化されていたが、これを人為的な操作なく生体内in vivoで行うことは難しかった。私の研究の先進性は神経リモデリングのスイッチを作ったこと。つまり、動脈と神経が接したらその圧力を契機として反回神経が血管の上に迂回路を作り、迂回路が出来たら古い神経はアポトーシスで消えてなくなることで、人為的な神経リモデリングを人体発生という自然の中に埋め込んだことだね」


「なるほど。ありがとうございます。いい復習になりました」


 彼女は私の講釈を今どき珍しく手元の紙に書きつけてから、尋ねた。


「では鷹野先生の今後の研究の展望についてお聞きしたいのですが」


「まだ思案段階だけれど、前心臓を作れないか考えている」


「前心臓、ですか」


 聞き覚えのない言葉に彼女が首を傾げる。


「知らなくて当然さ。私の造語だから。前腎、中腎というものは知っているかな」


「えっと、ヒトの発生過程で腎臓よりも前に生じるものでしたっけ」


 ヒューマノイドの表情筋を動かし驚きの顔を作って見せる。

 本当によく勉強している。


「ああ。ヒトの腎臓、発生学では後腎と呼ばれるものだな、は血液を濾して尿をつくる組織、ネフロンが一〇〇万個以上存在する大変精巧な臓器だ。この後腎が発生し機能し始めるまでの間は中腎が胎児の尿のろ過の役割を担い、その後は一部が男性の生殖器の一部となるほかは大半がアポトーシスによって消滅する」


「ええ。調べた時はなんて無駄なことをするんだろうと思いました」


「ヒトは生まれる前から自身を構成する細胞を生かさないといけないからね。精密で作るのに時間がかかる後腎が完成するまでは簡単な出来合いの中腎で繋ぐわけだ」


「心臓は違いますよね」


「心臓は血管の一部、一本の管がねじれるようにして二房二室の心臓が形成されていくが、脈管系が発達し始める発生第三週からずっと全身の細胞に酸素を豊富に含んだ血流を送り届ける。けれども、出生より前と後では酸素を受け取る場所が胎盤と肺と大きく違うため、出生前の循環系には門脈と下大静脈との間に静脈管、心房に卵円孔、大動脈と肺動脈の間に動脈管、みっつのバイパスが開通していて、出生後に塞がれる」


 彼女はペンを置き、知識をおさらいする様に細かくうなずく。


「もし、例えばへその緒の一部が、心臓と同じような機能を持った臓器となったらどうだろう。前心臓が全身の血流を作り出している間に、人体に本来あるべき部位に発生した心臓がじっくりと形成されるようになったらどうだろう」


「先ほど仰っていた反回神経の問題は解決されますね」


「ええ。しかもそれだけではない。心臓に先天性の疾患があった場合でも、前心臓によって循環能が保たれている内であれば胎児治療も容易になるし、一本の管から心臓を形成しなければならないという発生上の制約が取り払われることでより優れた心臓をデザインすることも可能かもしれない」


「より優れた心臓というと、私たちみながフルマラソンを容易に走りきることができるようになる、といったことですか」


「そのような超人を想定しなくとも、単に予備能が増大するだけでも恩恵は大きい。誕生以前から死まで絶え間なく拍動し続ける心臓は、どれだけ大切に扱っても加齢とともに衰える。多くのがんが根治可能になった現代であっても心不全の治療は難しいものだし、緩和ケアに消費される医療資源も増大する一方だ」


 いのちの語源が息吹であるように、生きることと息をすることは深く結びついている。


 心臓の機能低下は他の臓器の機能低下を招き、他の臓器の機能を保つための治療が結果的に心臓の機能低下を引き起こす。


 心臓は命を保つ肝心要であり、だからこそ私の次の研究目標として相応しかった。


 彼女は私の半ばSF的な展望に真剣なまなざしでじっと聞き入り、発言が終わった後も何かを書きつけたり、ボトルの水を飲んだり、しばらく沈黙を貫いた。


「不愉快な質問かもしれませんが、先生の研究はヒトの形を変えてしまうものだと批判されがちだと思うのですが、それについてはどのようにお考えなのでしょうか」


 反芻を終えたのか、おもむろに口を開いた彼女が問う。


「そのような批判が生じることは承知しています。ですが、私の研究は人間を全く違う生き物に作り替えることを目的としていません。人間の発生過程でやむなく生じる不自然な領域を正しているだけです」


「人間の誕生が不自然だとでも仰りたいのですか」


 その質問にすぐには答えず、静かに彼女の手元を指さす。


「例えば、あなたが持っている透明なドリンクボトル。よく見ると縦に一本、小さな段差が走っているはずです。それはパーティングラインと呼ばれる、ボトル成形時に金型を二つに分割することで残ってしまう段差です。金型を用いて成形を行う物品には必ず出来る一種のアーティファクトです。あなたはそのパーティングラインがボトルがボトルであるために必須の要素だと思いますか」


「いいえ」


 突然話が飛んで困惑しながらも、彼女は首を振って否定する。


「そうでしょう。ボトルの価値を決める条件は、内部にどれだけ飲料を貯められるか、飲み物の温度をどの程度保つことができるか、飲み口の肌触りがいいかであって、表面に残る小さな段差の有無は関係ありません。パーティングラインは金型成形の副産物であって、ボトルに必須の条件ではありません」


 何度もしているたとえ話だ。私は多少饒舌になりながらも話を回す。


「反回神経の奇妙な走行、腎臓が三度造り替えられること、心臓が一本の管からねじ曲がって造られ、出生後にふたつのバイパスが閉じられること。私はこれらの事象を、ヒトがヒトであるための必須の条件ではなく、パーティングラインと同じような、受精卵というただ一つの細胞から六〇兆個の細胞が緻密に組み合わされた人体へと発生する過程で生じざるを得ない技術的副産物だと思います。私の研究によって反回神経の分岐部がより上にずれたヒトが生まれたとしてもその人はヒトです。肌の色がヒトの価値を決めないように、神経や脈管の走行はヒトがヒトである必要条件ではありません」


「神経や脈管の走行はヒトがヒトである必要条件ではない、そういうわけですね」


「プラトンの雄鶏の逸話と同じですよ。外形的にヒトを定義したところで、そんなものは無意味です」


「人間を二本足で歩く羽のない動物だと定義したら羽をむしられたニワトリも人間になってしまう、というわけですね」


 私がいささか衒学的に引いたプラトンの逸話にも、彼女は的確に応答する。

 笑みで返そうとするけれど、彼女はそのまま言葉を続けた。


「鷹野先生の研究はまだ臨床応用には至っていませんが、家族性腺腫性ポリポーシスの原因であるAPC遺伝子の変異をワイルドタイプに置換する遺伝子治療など、すでに標準治療に導入された遺伝子医療も多くあります。家族妊娠と社会妊娠の間でこれらの遺伝子医療を施される率に差があることはご存じですか」


 ガイドラインでは妊娠前に遺伝子検査を行い、リスク疾患がある場合配偶子治療を行うことがグレードAで推奨されている。

 国が親代わりとなる社会妊娠では無作為に選ばれた配偶子は必ずこの処理がなされるが、家族妊娠では私の両親やあの狂人の両親のように妊娠前の遺伝子検査を行わない家庭も存在する。


「ええ、もちろん」


「人間の外形的な定義が無意味であることは分かります。ですが私たちは無意味な差異にも意味を見出してしまう生き物です。肌の色がヒトの価値を決めなくとも、差別が生じるように。義胎で生まれてきた人々と子宮から産まれてきた人々の形に差異が生じることは両者を言い訳しがたく別つことになるのではないでしょうか」


 その言葉をぶつけられた瞬間、内心に非合理な怒りが生じた。


 子宮から産まれながらにして、他者と言い訳しがたく別たれている存在だっているのだ、と叫びたい衝動に駆られる。


 もしこれが生身の体であれば酷く歪んだ顔を見せつけることになってしまっただろう。


「そうでなくとも、差異は生じる」


 生々しい怒りを覆現やヒューマノイドの身体で濾して、絞り出すように言葉を吐いた。


「他にも差異はあるのだから、新しい差異が生じても仕方ない、と」


 その質問が挑発などではない、単に考えを引き出すための受け答えに過ぎないことは当然分かっていたはずなのに、私の肉体に降り積もっていた妬みの感情が掻き立てられる。


「私は、家族妊娠で生まれ出ること、それが幸せを意味するとは思えないのです」


 言い切ってしまってから、猛烈な恥を覚えた。


 なんとも文脈から外れた内心の吐露だろう。


 テクノロジーがヒトを変えなくとも、笑ってしまうくらいにありえない偶然の悪戯によって他者から救いようないほどに疎外されてしまうこともあるのだと。

 貴方の目の前にいる私は単なるヒューマノイド、インターフェイスに過ぎず、私の魂は暗い寝室、ベッドの上に鎮座する肉塊に閉じ込められているのだと。


 彼女に、それを知ってほしかった。


 他者に理解してほしいという願望。

 それは、あまりに婉曲な好意の暴露だ。


 余りに感傷的な言葉に彼女がどんな反応を示すのか、恐る恐る様子を伺う。


「本音で語ってくださりありがとうございます」


 内心の動揺とは裏腹に、彼女の反応は簡素なものだった。


 過剰に意識していただけで、他人からすればなんてことはない単なる一見解に過ぎなかったのだろうか。

 安堵するような肩透かしを食らったような、煮え切らないモヤモヤが湧きあがる。


「最後の本音は記事にはいたしませんので」


 付け加えるような一言をウィンクと共に。


 彼女の可愛らしいアイコンタクトは、貴方の内心を察していますよ、という符牒のように思えて、無性に救われたような気分に襲われた。


「テクノロジーが変える愛情の在り方、でしたっけ」


 心中の喜びが恥ずかしくて、ごまかすように尋ねる。


「ええ。挑戦的なテーマですが、編集長がやってみろと後押ししてくださって」


「しかし本当に変わるんですかね」


「鷹野さんはそうは思わない」


 彼女は若干首を傾げ、横目でまるで挑発する様に尋ねる。


「さあ。恋愛にはあまり興味がないものですから」


 私の虚勢を見透かしたように彼女はニコリと笑みを浮かべ、


「男の最大の喜びは、敵を打ち負かし、これを眼前よりはらい、その持てるものを奪い、その身寄りの者の顔を涙にぬらし、その馬に乗り、その妻や娘をおのれの腕に抱くことである」


 唐突にそう言った。


「チンギス・ハンの言葉ですね」


 正確には歴史家の記述だけれども、そのような行いが当然のもの、美徳とされた時代が確かにあった。


「現代社会はテムジンの考えよりもイエスの考えに近しいものでしょう。我々の社会は、殺人も強奪も不貞も虚偽も認めない、敵を打ち負かすのではなく和解する、富を奪い合うのではなく、互助によってより多くの富を分かち合う、そのような振る舞いをただしいとする社会に生きています」


「そうでしょうね」


「ですが、私たちの社会を構成する人々はそうではありません。チンギス・ハン、もしくはその親族に由来すると思わるY染色体を持つ人々は一千万以上。一方、イエス・キリストに由来するY染色体は聖書の記述を信じる限り〇でしょう。ミーム淘汰の場においてはイエス・キリストはチンギス・ハンに完勝しましたが、遺伝子淘汰の場においてはチンギス・ハンが圧倒的な勝利を収めたわけです」


「善き隣人として振る舞っている男たちも夜には狼になる、と」


「女だってそうですよ。優しい人が好きだって言っておきながら、本当に好きになるのは自分を不安にさせるような誠実性のかけらもない変な男ばかりなんですから」


 まったく嫌になってしまいますよ、と呆れたように手を上にあげてお手上げのポーズ。


 彼女もそんな人が好きなのだろうか、と見当違いの邪念が頭をよぎる。


「サピエンスが生物史に登場してから十五万年。私たちの社会はずいぶんと清潔なものになりましたが、結局私たちの性的嗜好は十五万年前、まだヒトの社会が一〇〇人にも満たない大きな家族の緩やかなまとまりだった時代から変わっていない。キリストの説く建前の道徳の下、チンギス・ハン流の不実を密かにやり遂げる人々がより多くの生殖の権利を得る。かつて野蛮な雄叫びのみが鳴り響いていたヒトの世は、野蛮な叫びと穏やかな調べが入り交じった不協和音、アンハーモニーな世界に変わりました」


 私たちに殺人や強奪、不貞、虚偽に対する選好が備わっているとすれば、それは淘汰の産物、私たちの自由で個人的な異性選好の結果だ。


 私たちはみな優しい人が好き、穏やかな人が好きとうそぶきながら、それとは点で逆の暴力的で、激情的なファタールに惑わされる。


「それが、義胎妊娠で変わると」


「正確に言うと社会妊娠ですかね」


 社会妊娠がこの世界をキリストや仏陀が説く調和のとれたハーモニーの世界に変えると語る彼女の様は、本心からそれを信じているように思えた。


「かつて社会は家族でした。ミツバチの社会は女王バチを母とするひとつの大きな家族ですし、オオカミの群れは母系で繋がったいくつかの家族の群れ。遺伝子の乗り物たる生物にとって遺伝子を共有する家族の生殖を助けることは、自らの生殖と同じように価値を持つ。血のつながりによって、私たちは他者を出し抜く利己性だけでなく他者を助ける利他性も備えるよう進化しました。扶助に値するかは期待値の勘定によるものであって、社会の大きさは血の濃さに依存したものでした」


 巣で喚く雛に甲斐甲斐しく餌を届ける燕も、自らの生存を度外視して外敵へと片道切符の攻撃を仕掛ける兵隊アリも、その根本の動機は自らを作り上げた遺伝子への奉仕だ。


 遺伝子の長い長い腕によって、親鳥は自らの遺伝子の半分を引き継いだ我が子を愛情を持って育み、働きアリは自らの遺伝子的クローンである女王アリの生殖を支えるため命を賭しても巣を守る。


「けれどもヒトの社会はその限界を超えて大きくなりました。集住と馴化によってヒトの生存に必要な土地面積は縮小し、ヒトの群れはダンパー数を超え膨張しました。直観的に理解できないほどに肥大した共同体をまとめるための要として、サピエンスは幻想を利用しました。神話。なぜ世界はこのような様で存在するのか。なぜ我々はこのような様で存在するのか。得たい知れぬものを意味あるものとして語りなおすため、私たちはアナロジーを用いました。万物の創造者は父なる神と呼びならわされ、オセアニアに君臨する偉大な指導者はビッグ・ブラザーと崇め奉られる。世俗化された現代でさえ、国父、母国、同胞、と私たちは国家をまるで家族のようなものとして見なします」


 遺伝子の腕は長くとも、その動きは緩慢だ。

 洞穴人から現代人へ移り変わる速さは瞬く間で、私たちは遺伝子ではなく、知性によって変化に適応した。


「社会にとって家族はアーキですが、同時に自らを蝕みかねない厄介な不発弾です。オスマントルコを衰退させたのは十字軍ではなく我が子に職を継がせようというイェニチェリたちの親心でした。五賢帝の時代は最後の五賢帝が我が子に帝位を譲り終わりを迎えました。多くの人々が家族を弱めようとし、イエスはヒトは等しく神の子であると訴え、則天武后は科挙によって血縁主義を破壊しようとし、ポルポトは親と子を引き離すことで分かりやすく家族を破壊しようとしましたけれども、どれも根本的解決には至りませんでした」


「社会はヒトを産めない。ヒトを産めるのはヒトだけだった」


 イエスを神を父に持つキリストであると主張するキリスト教徒でさえ、彼がマリアという母から生まれた人間であることは否定できなかった。


「しかし今なら私たちは言えます。『家族などというものは存在しない。あるのは個人とそして社会だけだ』と」


 サッチャーのもじりだ。


 公助を前提とし、責任を社会で希釈しようとする国民への批判として、彼女は社会に頼る前に自分自身や家族で助け合えと主張した。


「ヒトは試験管から作ることができます。家族なしでヒトは生まれます。家族の役割が人口再生産であるなら、すでに家族は存在意義を失った。そして社会妊娠で生まれてくる子どもたちを形作る遺伝子は個々人の一五万年前から変わらない古臭い性的嗜好などではなく、社会において高い生産性を発揮することが期待されるか否かで選別されるようになる」


 市民の子は幼き頃から煙突掃除人として働くこともなく、親の宗教的信念に従って輸血を拒否されて死ぬこともなく、アクセス可能な教育資源に差をつけられることもなく、ただしく育てられている。


 なぜなら、彼らは成長し大人となって社会を持続可能に保つことが期待されているから。


 ただしく育つことが是であるなら、ただしく生まれること、相応しい遺伝子を持って生まれることも是ではないか。


「まるで孤児連盟が唱える社会論みたいだね」


 血まみれのこぶしを振りかざし自分のような恵まれない弱者は淘汰されるべきだと叫んだあの狂人の姿を思い起こす。


「まあ近しい問題を扱っているとは思います。テロリズムには賛同しませんけれどね」


 彼女は苦笑し、

「あのような運動が多くの賛同を受け、実際に行動に移す人々まで現れているのは事実です。彼らの行動を非難するのと同じぐらいに、彼らが内面化している理論に精通することも重要だと、私は思いますね」

 と自分を正当化するようにそう言った。


「孤児連盟が目指しているのは『すばらしい新世界』だろう。すべての人々が義胎妊娠・社会妊娠で生まれる世界。正直言ってテロリズムに訴えなくても世代を経ていけば自然とそうなると思うのだけれどね」


 私はそう思ったからこそこの遺伝子工学の道に進んだのだし、その予想は今のところ的中している。


「本当にそうですか」


 けれども彼女はまるで見落としに自分で気づくよう諭す教師のように、私に尋ねた。


「子を作るインセンティブのほとんどは破壊しつくされました。もはや子どもは親が好きに扱える所有物ではなく、ただしく育て上げるためにべらぼうな費用を要求する負債と化してしまいました。子を育てるよろこびなんて、曖昧な贅沢のために人生の過半をささげる人々は減り続けるでしょう」


「ああ、そうだな」


 子を産むのはハイリスクローリターンの賭けとなってしまった。


「しかし、一部の人々は違います。親から子に引き継がれるのは遺伝子だけではありません。資産や金銭には換算できなくとも地位を築くのに欠かせないもの。人脈や教養、社会関係資本、文化資本といったものも親から子へ。家族の間で引き継がれていきます」


 彼女は私を真っすぐ見据え言葉を連ねる。


 貴方もそうでしょうと暗示する様に。


「彼らは我が子を育てるべきであるという価値観を保存し続けるでしょうし、そのメリットも十分に保持しています。より豊かな人々は子を持ち、そうでない人々は子を持たない。今はこの差異が格差と見なされていますが、より世代が進み親の不在を当然視する人々が成人となったとき、彼らは自分が親になることを幸福だと見なすでしょうか」


「そうなったらどうなるんだ」


「世界は二種類の人種で分けられることになります。つまり、過去から未来へと続く家系の系譜に連なる人々と親も持たず刹那的にただ生産される人々」


 まるで一九八四年のような荒唐無稽な話だと一笑に帰することはできなかった。


「本当にそんな世界が来るとして、私たちはどうすべきだと思う」


 私は家系に連なる者だろうな、と内心思いつつ、彼女に問う。


 彼女は一度口を開き、何かを考え直したように口元を手で揉んでから、私の問いに答えた。


「私はジャーナリストですからね。これから来るかもしれない未来を憂いつつ警鐘を鳴らすしかありません」


 なんとなしに、これは作った答えだな、と察する。


「興味深い話を聞かせてくれてありがとう」


 覆現での対話の利点は、気軽に相手に握手を求められることだ。


「私もありがとうございました。また取材をお願してもよろしいでしょうか」


 仮想空間の中で、私の掌に彼女の掌が覆い被さる。


 これが覆現ではなく、生のリアルの世界であればいいのにと切実に思う。


 無論その世界でも私の掌はヒューマノイドの炭素繊維強化プラスチックで構成された造り物であるのだけれど。


「もちろん歓迎だよ」


 同意の言葉を返しながら、そういえば彼女の名をちゃんと呼んでいなかったことを思い出した。


 覆現が示す彼女の氏名には姓がなく名だけだった。

 親の姓を受け継がず、無姓を選択したのだろう。


 女性を下の名で呼ぶのはなんとなくためらわれたけれど、ここまで深い会話を交わしたのだ。名のひとつくらい呼ばなければ不自然だろう。


「これからもよろしく頼むよ。アイさん」

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