#9

 私たちは三八週前に受精卵を義胎へと送り込んだ手術室で出産の時を待っていた。


「緊張されていますか」


 心臓の手術の時も私たちを心配してくれた看護師が、そう尋ねてくれた。


「ええ」


 私は短く答え、ツキミは声も出ずこくこくと頷く。

 以前この分娩室に来た時は、宇宙服のようなヘルメットとガウンをしていたけれど、今日は薄手の半そでの手術着。

 出産と共に義胎は役目を終えるから感染対策の重装備をしなくてもいいという理屈なのだけれど、視界をヘルメットで覆うこともなく、なんの防護も施さずに手術室で、ものものしい義胎と対面していると、なんとなく恐ろしさのようなものが湧きあがってしまう。


「初めての出来事ですからね。赤ちゃんもきっと緊張していますよ」


 看護師が冗談を言って和ませようとするけれど、重圧で萎縮した私たちは愛想笑いをするので精一杯。


「タイムアウトお願いします」


 医師の明瞭な声が手術室に響く。

 五番と書かれたピンク色のパネルが観音開きで開き、中から黒色の筒がせり上がってくる。その筒がまたまた観音開きで開き、中の人工子宮が露わになる。

 そういえば、人工子宮の実物を自分の目で見るのは初めてだ。着床の時も手術の時も、私が見たのは覆現のモノクロの人工子宮。


 医師が人工子宮を支えていた人工腹膜の枕を脇に除け、人工子宮全体が見えるようにする。

 分厚いゴム鞠のようだ。ペールオレンジの表面はてかてかと光沢があり、表面に走る赤い毛細血管はまるで刺繡の文様。


「赤ちゃんが入ってるようには思えないね」


 ツキミがそう言い、私もうなずくと、

「触ってみると分かりますよ」

 と、医師が言い、人工子宮の下の方を触れるよう促す。


 恐る恐る表面に手を置くと、分厚い筋肉の下に固いものが触れた。


「頭ですか」と聞くと、医師がにっこり笑う。


「子宮を切開します」


 医師が電気メスで先ほど触れた部位の少し下を横一文字に切り広げていく。分厚い筋肉がメスで徐々に切り開かれ、傷口は電気メスの熱によって塞がれる。切られた筋肉は助手ロボットの六本の手によって引っ張られ、脇へと寄せられる。


 しばらく地道な作業が続き、一瞬では切れないものなのだな、なんてぼんやりとした感想が頭に浮かんだ頃、突如切り口から乳白色の液が溢れ出した。


 羊水だ。


 子宮の切り口にかすかに浮かんだ血は湧き出る乳糜で洗われ、白いもやがかった液体の中から青白い肌が見えた。


 医師が切開部から手を子宮内に入れ、「出しますよ」と言った。


 「よいしょ、よいしょ」と医師が掛け声をかけながら、看護師が操作する助手ロボットと歩調を合わせ、体を前後に揺らす。


 子宮から赤子が出てくるのが早いか、「おぎゃあ」と泣くほうが早かったか、スポンと形容するのがぴったりの素早さで赤子が世界へと飛び出してくる。


 看護師にガーゼを差し出され、元気に泣きわめく顔をやさしく拭いてやる。

 羊水でべちゃべちゃになった顔がきれいになると、今度はツキミに剪刀が差し出される。


「へその緒を切ってあげてくださいな」


 差し出されたハサミを恐る恐る受け取ったツキミは、緊張した様子で何度も看護師に確認を取りながらクランプで挟まれた臍帯を切る。

 臍帯が切り離されると、看護師がぱちぱちと拍手をしてくれる。


「出てくるより先に泣いてましたね。とっても元気なお子さんですよ」


 重いからしっかり抱いてあげてくださいとのアドバイスと共に、赤ちゃんが医師からツキミへと手渡される。

 ツキミは赤子をアドバイス通りしっかりと抱きかかえる。


「おもたいわ」


「三〇〇〇グラムもあるからね」


「いいえ。そうじゃないわ。あったかくて、おもいの」


 自分の心音を聞かせるように、赤子を胸の間にしっかりと抱き、ツキミは呟く。


「ほら、あなたも」


 そう言われ、赤子を受け取る。


 抱いた途端に、ツキミの言わんとすることが分かった。

 これまでもこの子は覆現で何度も抱いてきた。義胎にいる彼女の顔のシワも見分けがつくほどの詳細な解像度で、一グラム単位の精度でその体重を感じることができた。


 けれど、それは作り物に過ぎなかった。


 視線を動かし、レイヤーをオフにしてしまえば消えてしまう、かりそめの幻想。

 手を放しても落ちる心配もなく、きつく抱きしめても潰れる恐れのない、ただのシミュレーション。


 ああ、彼女は生きているんだなと、今更ながらに実感した。

 重みを持ち、温かみを帯びた、生きるヒトなのだ、と。


 今、私が手を滑らせてしまえば、この温かみは消えてしまうかもしれないという恐ろしさ。


 私の両手に掛かる命の温かみと重さは、覆現では再現できない。


「お子さんの名前はこれから決められるんですか」


「実はもう決めてるんですよ」


 看護師の質問にツキミが恥ずかしそうに答える。


「私たち、ふたりの名前を合わせると満月になるんですよ。ですからそこから取った名前を」


 満月の呼び名のひとつに望月というものがある。


 藤原道長がこの世は私のために存在する望月のように完璧な世界だと詠った望月だ。

 藤の花のように天皇の外戚としての地位を保ち続け、他の藤原氏をも押しのけて繁栄を極めた藤原北家の全盛期は彼の息子、頼通の代で終わりを迎える。

 外戚という嫁いだ娘に息子が産まれる可能性に依存した地位は、出生の不確実さによって終わりを迎えてしまった。


 望月は一日と持たずに欠けてしまう。


 私たちは彼女に望月のような完璧な世界を与えることはできないし、たとえ奇跡が起きてそのような完璧が与えられたとしても、奇跡が永続する奇跡までは起こり得ない。

 けれど永続する完璧な幸せを与えることはできなくても、それを望むことはできる。

 私たち両親は我が子に満ち足りた幼年期を過ごしてほしいと望むし、健やかに育ってほしいと望む。

 たとえそれが適わぬ夢だと科学的に証明されたとしても、私たちは願い続けるし、彼女にも望みを持って生きてほしいと祈り続ける。


 祈りも望みもその本質は、願いが叶うことではなく、願うことそのものであると、私たちは信じている。


「ノゾミ。産まれてきてくれてありがとう」


 その呼びかけに、ノゾミが笑い顔を返してくれた。そのような気がした。

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