#8

 駅のロータリーでぼんやりと空を眺めていたツキミの前に車を止め、ドアを開けてやる。


「ありがと」


 助手席に座り、首に巻いていたマフラーをほどき、乱れた髪を整えるツキミ。


「お義父さんは大丈夫だった」


「ああ、大事はない。むしろ入院がいい休養になっていいんじゃないのかな」


 身だしなみを整え終えたツキミは、運転席の私を見てあることに気付く。


「あら、自分で運転してるの」


 ハンドルを握っていることに気付き、意外な顔を見せるツキミ。


「うん。そういう気分でね」


 久しぶりの運転で多少ぎこちないけれど、昔取った何とやら。ロータリーから車道に出て、家へと続くバイパスに合流する。


「さっきはごめんね。急に変なこと言って」


「うん。別に気にしてないよ」


 ツキミはそれっきり。我が子を覆現に写し、その寝顔をしげしげと眺める。

 私は緩いカーブに合わせハンドルを操り、なにも言わずにしばらく待っていた。

 なにか話したいことがあるんだろうと感じていたからだ。


 私たちの付き合いは長いのだ。


「子供のころね、お母さんがへその緒を見せてくれたことがあるの」


 十分な助走をつけて、ツキミがふわりと、独り言のように話し出した。


「桐箱に大切そうに入れてさ、もうカラカラに乾いたミイラみたいになってるのに、へその緒を撫でながら色々と教えてくれたのよ。あなたは予定日より二週間も早く陣痛が来て、初産だったのに五時間もかからずにスポンと出てきたって。二五〇〇グラムぐらいしかなかったのに、そんなに早く生まれたかったのかってお父さんと一緒に笑ったのよって」


 かつて出産は理解不能なものだった。新しき命の誕生という善い出来事でありながら、同時に死の暗い影がチラつく矛盾した存在。


 出産は得たい知れぬものだった。


「その話を聞いた時、なんだか誇らしく思ったのよ。このへその緒は私とお母さんをつないでいたへその緒なんだって。だから、」


「この子のへその緒がだれにも繋がっていないことが怖い」


 ツキミの言葉を引き継ぐ。

 それは理屈で考えれば妄言だと笑い飛ばしてしまうような問いかけ。

 だけれど、彼女の悩みの本質を貫く問いだ。


「そういう原風景はだれしもが持っているものだよね」


「原風景」


「うん。神話って言ってもいいかも。自分が親の子だって確信できるようなエピソード」


 神話の本質は説明だ。


 得たい知れぬものを意味あるものとして語りなおす処世術。たしかに現実の事象として存在するのに、直観的に納得しがたい事実を馴染み深いものとして捉えなおすために語られる物語。


 なぜヒトの命はこのように儚いのだろうか。それはアダムとイブが生命の樹の実ではなく知恵の樹の実を選んだからである。

 なぜある人々は生まれながらにして高貴であるのか。それは、神武天皇が天照大御神の来孫だからである。


 余所者が聞いたら笑い飛ばしてしまうような与太話であっても、ムラやクニ、共同体によって真実として認められた与太話は作り話ではなく神話として宗教的文脈に取り込まれる。


 出産は神話に包まれていた。


 ヒトを産む善き行いであるにも関わらず、母子の死という恐ろしいリスクを抱えた行いを受容するためには神話が語られねばならなかった。

 ヤハウェの「産めよ増えよ、地に満ち、地を支配せよ」という命令は私たちに出産が明白な使命マニフェスト・ディスティニーであることを知らしめてくれるし、イザナミがカグツチを産んで死んでしまうという物語は私たちにカミでさえも死んでしまうのだからヒトが出産で死んでしまうのも道理のひとつであると慰めを与えてくれる。


 科学は神話の曖昧模糊なつぎはぎだらけの物語を虚偽として告発したが、あとに残された得たい知れぬ事実を労わることはなかった。

 科学の進歩が宇宙の闇を照らし、生命の謎を解き明かしたところで、依然として天体に手は届かず、死はしぶとく生き残り続けている。


 科学はヒトが世界に存在すべき理由をことごとく破壊した。


 ヒトの住む地球は宇宙の中心ではなく、世界は神がヒトのために作った住処ではなく、ヒトは神が最後に作り出した神の類物ではない。


 科学が証明したのは、ヒトの神聖性の欠如だ。


 私たちは所詮ホモ・サピエンスに過ぎない。遺伝子の大河から流れ着いた一つの分枝。自らを高慢にも万物で最も賢い人と名付けただけの、遺伝子の乗り物。

 ヒトが我がものとできる身体領域は際限なく広がりつづけるが、ヒトが我がものと疑うことなく信じ込める領域は延々と減り続け、ついに出生へと及んだ。


 もはや我が子でさえ私たちの与り知らぬところで勝手に産まれてしまう。


 しかし、だからといってなにが問題なのだろう。


「ほかに、両親がよくする話はないのかい」


 坂道にあわせてアクセルを踏み、尋ねる。


 ツキミは少し考えて、

「初めて立った瞬間を見れなかった話はよくするかも。チャイルドゲージに入れて少し家事をしていたら、その合間に立ち上がっちゃったって。気づいたら音もなく立ち上がっていたからとってもびっくりしたし、とっても残念だったって」


「へえ。見たかったんだろうね、ツキミが立ち上がるところ」


「三歳のころ、デパートで迷子になった話もよくする。迷子防止にGPS付きのリストバンドを着けてたのに、手すりにくくりつけてどこかに行ってしまったって。慌てふためいて迷子センターに駆けていったら、もうそこで待っていて怒るより先に呆れたって」


 弟のおむつをひとりで勝手に替えたこと、幼稚園で仲のいい男児と将来結婚すると言い張ったこと、小学校の入学式で幼稚園に戻りたいとダダをこねたこと。

 ツキミのエピソードは尽きなかった。


「君が生まれたことが本当にうれしかったんだね」


「うん。そうだと思う」


「へその緒は愛を証明しないってセリフ覚えているかい」


 ツキミの目が泳ぐ。


「ごめんなさい。覚えてないわ」


「はじめて二人でデートした時に見た映画のセリフだよ」


「映画を見たのは覚えてるんだけど」


 バツが悪そうに言い訳するツキミ。


「でも中身は覚えていないんでしょ」


 ちょっとしたいたずら心が湧いて、非難するように言ってしまう。


「うん。緊張してたから」


「こっちの方が緊張していたと思うけどな。映画の後どうやってディナーに誘うかばかり考えてた」


「私だって同じよ。この後どうするんだろうって、アピールとかした方がいいのかなって」


「アピールって」


「映画館から出て、お腹すいたねって私が言ったの覚えていないの」


 思い出そうと記憶を探るけどまったく心当たりがない。


「ごめん。覚えていないや」


 ツキミはぷっとふき出して、「互いに覚えていないことばかりだね」と。


「でも夜景の見えるレストランでご飯を食べた後に告白したのは覚えているよね」


 閑散とした山間を走っているおかげで今日は星空がきれいだった。

 あの日も星は見えていたのだろうか。


「ええ。初めてのデートで告白されるなんて思ってなかったからびっくりしちゃった」


「自分もだよ」


「どういう意味よ。その場の勢いで告白したって言いたいの」


 ツキミは笑って、私を小突く。


「冗談、冗談。もちろん本心から告白したよ」

と言い訳して、小さく息を切ってから次の言葉を繋げた。


「へその緒は愛を象徴するかもしれないけど、愛を証明はしないと思うんだ」


「もっと分かりやすく言って」


「ツキミがへその緒の話に愛を感じたのは、お義母さんがツキミをわが子として毎日愛していたからだよ。お義母さんが大事にしまっていたのが初毛で作った筆でも七五三の写真でもツキミはそこに愛を感じたはずで、へその緒は愛を分かりやすく目に見えるものとして気付かせてくれた単なるアイテムに過ぎない」


「愛は目に見えないものだから、ってこと」


 彼女が小首をかしげ、尋ねる。


「そうだね。僕らが毎年誕生日とクリスマスにプレゼントを贈り合うのだって、同じような理屈さ」


 傾いた彼女の栗色の髪の隙間から、チラリと星形の飾りがついたチェーンピアスが覗く。

 それは、一〇年前、死ぬほど悩んで選んだ初めてのクリスマスプレゼント。


 息を吸い込み、次の言葉の準備をする。


「子どもが生まれたらふたりで一緒に抱えようよ。三キロもあるから落とさないように慎重に抱いてさ」


 祈るように私は言葉を繋ぐ。


「夜泣きしたら眠い目をこすりながらあやそう。少しでも風邪をひいたら大騒ぎして看病しよう。歩き出したら大喜びしながら動画を撮って、一緒に手をつないで散歩をしに行こう。そうして、子どもが大きくなったら家族の軌跡をこれ見よがしに自慢するんだ。最初にしゃべった言葉が何だったか、初めて歩いた場所はどこだったか、小さいころ好きだったおもちゃはどれで、嫌いな食べ物はなんだったか。耳にタコができるくらいに言い聞かせてやるんだ」


 それは迷信かもしれない。


 いくらエピソードを積み上げたところでそれは愛を証明しない。

 へその緒が愛を証明しないように、幸せな出産は恵まれた幼年期を保障しないし、恵まれた幼年期は健やかな成長を確約しない。


 すべての悪しきものを遠ざけたところで災いは向こうからやってくるのだし、悪しきものが実は本人にとって必要な大切なものなのかもしれない。子心親知らずとはよく言ったものだ。


 この私たちの一〇ヵ月の騒動だって、結局本人不在のふたり相撲だ。義胎の中の彼女は今頃呆れた顔をしているのかもしれない。


 けれどそれでも私は戯言を言い続けたい。

 嘘も百回言えば真実になってくれるのだろうと信じたい。


「そうすれば僕らの子供もだれが自分の親なのか疑いなくわかると思うんだ」


 ツキミは私の顔をじっと眺め、なにかを察したようにふっと息を吐き、

「そうかもね」

 と手を重ね、覆現の我が子を抱きしめた。

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