第27話 ヒロミと斉木

 ユイの言葉通り、事は一気に進んでいった。

 お見合いの第二ラウンドは、滞りなく終わった。

 ラウンジの入り口で、見合いの席へと向かう二人を見送るユイの目は、揺るぎのない確信に満ちていた。

 ヒロミさんは緊張しながらも、その頬は赤みを帯び、口元には微笑が浮かんでいた。対照的に、斉木さんは、一つのことを思いつめたように、顔面を硬直させていた。ユイのアドバイスに従って、本気でとどめを刺すつもりで、この場にやってきていることが、その蒼白な顔色からもうかがい知れた。

 そっと彼に近寄り、ユイはその背中に掌を添えた。ユイの方を振り向いた彼に、ユイは声には出さず、唇の形だけで、ガ・ン・バ・レ、と伝えた。こくん、と彼は小さくうなずいた。

 二人を見送った後、事務所に戻ったユイとルカは、吉報が届くことだけを信じて、そのときをひたすらに待ち続けた。ルカの淹れた紅茶、ルカスペシャルを何杯もお代わりし、二人して遅めの昼食、軽くフルーツサンドを摘まんでいたとき、事務所の電話が鳴った。

 慌てて頬張っていたサンドイッチを吞み込んでから、ユイは受話器をとった。

 斉木さんからだった。傍にヒロミさんもいるとのことだった。もうそれだけで、見合いの第二ラウンドの首尾がどうであったかが、分かろうというものだ。

 受話器を耳に当てたユイの顔は、終始笑顔だった。話を聞くばかりで、多くを語ろうとしない。もう語るべきことは、昨日全て語り尽くした、という思いが、ユイにはあった。

 「・・・うん。・・・うん」

 返事は、ただそれだけだった。暫く「うん」が続いてから、やっと違う言葉が、ユイの口をついて出た。

 「長い道のりだったね。おめでとう。幸せにね」

 すると、今度はヒロミさんが電話に出た。声が震えていた。また、ユイの「うん」が続くことになった。斉木さんのときよりも、「うん」の数が多く、続けざまに口にすることもあった。

 事務机に置かれたティッシュボックスから一枚取り出し、ユイは目に当てた。傍でその様子を見守っていたルカも鼻をすすり、同じようにティッシュボックスに手を伸ばした。ルカの耳に、斉木さんとヒロミさんの声は、よく届いてはいなかったが、それでも、共に協力し、幸せな家庭を築いていこうと決意した二人の思いは、充分に伝わっていた。

 しかも、二人を祝福する気持ちは自分一人だけのものではない。ユイとルカの祝福する気持ちは、1ミリもずれることなく、ピッタリと重なっていた。それをまたリアルタイムで実感できるだけに、ルカの二人を祝福する気持ちは、何倍にも強まった。

 ルカが手にしていたティッシュは濡れて、もうグチャグチャだった。もう一枚、ティッシュを引き抜いたとき、ユイの力強い声が響いた。

 「仮交際期間は吹っ飛ばして、今日から本交際の始まりね。結婚式の日どりや場所が決まったら、また連絡してちょうだい。・・・うん。・・・うん。そう言ってもらえるだけで、私は充分に幸せよ。あなた方と出会えて、ホントに良かった。ありがとうね」

 受話器を置いた後も、暫くの間、ユイもルカもティッシュを何枚も濡らしながら、言葉もなく、その場にい続けた。

 幸せのおすそわけ―その余韻にいつまでも浸っていたい気分だった。綿菓子のような幸せの雲に乗り、からだがプカプカと浮き上がり、どこかへ漂っていく。幸せなんだから、どこへ漂っていっても構わないはずなのに、ルカは、どこへ? と自問自答せずにはいられない。でも、分からない。

 (いつだってそうだ。私は何もわかってない。この幸せな気分が、自分をどこへ導いてくれるのかさえ、私には分かっていないのだ・・・)

 そう思ったとき、ふいに、眠っていた問いが、頭をもたげた。

 (斉木さんとヒロミさんが上手くいくと、ユイさんは、どの段階で分かったのだろう?)

 前にも聞いた問いだった。でも、そのときには、はっきりとした返答をもらえなかった記憶がある。二人が無事本交際に入った今なら、教えてくれるのではないかと、ルカには思えた。

 ルカは、意を決してその問いをユイにぶつけてみた。ユイは振り向いた。目は真っ赤だった。ルカの目をじっと見つめた。笑顔でもない。泣き顔でもない。いつも通りの真面目な顔が、そこにはあった。

 「あなたは聞いたわよね。私に勝算はあるのか? って。そのときよ」

 ルカは余りにも意外な返答に、キョトンとしてしまった。問い返す言葉さえも出てこない。

 だが、ユイはそれ以上説明を加えようとはせずに、さらに予想もしていなかった問いを、ルカにしてきた。

 「『つり橋効果』って、聞いたことない? 『恋のつり橋理論』とも言うんだけど」

 初めのキョトンが消えてもいないうちに、ルカの顔に新たなキョトンが、重なるように張りついた。

 ユイは、ちょっと天井を見あげるように、考えるしぐさを見せ、コホンッと一つ、わざとらしい咳をした後で語り出した。

 「恋愛心理学では、有名な理論なのよ。確か1970年代に、ダットンとアロンというカナダの心理学者がいてね。実証実験の結果を理論にまとめて発表したものなの」

 幸せの雲に乗り、漂い出した先には、学校の授業が待ち受けていたのかと、ルカはガックリしながらも、黙ってユイの講義を傾聴するしかなかった。

 「実験といっても、小難しいものじゃなくてね。山の中の渓谷に、二本の橋が架かっていたの。70メートルの高さに架けられたつり橋。もう渡るだけでグラグラしちゃって、おっかない代物なのよ。それとは別に、3メートルばかりの高さに架けられた、しっかりとした木の橋、グラグラしないし、誰だって平気で渡れる橋があったの。この二本の橋を使って、実験は行われたのね。

 18歳から35歳までの未婚の男性が被験者で、二手に分けて、どちらかの橋を渡らせた。両方の橋の真ん中辺りに、男なら誰だって魅力を感じるような、文句なしの美女が待ち構えていて、渡ってきた被験者にアンケートをとるという仕事をさせたのよ。でも、アンケートの中身なんて、どうでもいい。その後が肝心で、アンケートをとった後で、美女が、こう言うの。

 『もし、結果に興味があったら、連絡してください』

 そう言って、連絡先を渡すの。

 さあ、ここで、ルカに問題です。

 美女に連絡をしてきた被験者の数は、どっちの橋の方が多かったでしょうか? 」

 ルカのキョトンは続いていたが、この問いならば、なんとか答えられそうな気がした。グラグラするつり橋の方ではないか? おずおずとそう答えると、ユイはニッコリ笑って、こう言った。

 「大正解! ルカはお利口だね~ 」

 バカにされたようで、ルカは、ちょっとばかり、ムッとしたが、それでも答えられたことに安堵した。

 「じゃあ、なぜ、そう思ったの? 説明してくれる? 」

 口元には、まだ笑みが残っていたものの、ユイの目には、意地悪そうな光が宿っていた。

 何となくそう思えただけの話で、これといった理由があったわけではない。そんなことは、百も承知の上で、ユイは、情け容赦なく、二の矢を放ってきたのだ。

 ルカは押し黙ってしまった。それでも、必死になって考えた。

 高所に架けられた、不安定極まりないつり橋、おっかなびっくりわたっていった先で、突如、絶世の美女と出会い、アンケートへの協力要請とはいえ、声をかけられた。しかも、結果に興味があれば、という前提付きではあったものの、連絡してくださいと、美女の連絡先を教えられたのだ。

 恐怖を味わった後の急転回、突然訪れた快楽。連絡先を告げられたことで、もしかしたら、この美女は自分に気があるのではないか、と思ったとしてもおかしくはない・・・。

 恐怖感から一転、快楽へ。その落差の大きさが、美女への好奇心、いや、恋心を芽生えさせたのではないか?

 つっかえつっかえ、言葉を探しながら、ルカは、そんな主旨の説明を試みた。

 ユイは目を細めた。その目に宿った意地悪な光が、一段と強まったように、ルカには感じられた。まるで、自分がグラグラするつり橋を渡らされているような恐怖感を覚えた。

 ユイは口をすぼめた。

 「ブーッ! 残念でした。何を言っているのかさっぱり分かりませ~ん! 」

 目もくらむような高さのつり橋から突き落とそうとする、ユイのキツイ言葉に、ルカは思わず肩をすくめて、目をつぶってしまった。目をつぶった真っ暗闇の中で、ユイの声が響いた。

 「正解は単純明快、『錯覚』でした~! 」

 「へっ!? 」

 間抜けな声が、ルカの口をついて出た。

 「錯覚って、・・・被験者の美女への恋心が、ですか? 」

 そう自分で言っておきながら、ルカは納得しかねていた。

 「そう。なかなか物分かりがいいじゃない。やっぱりルカはお利口さんね」

 ルカが、まだ納得できていないことを見越した上で、ユイはあっさりとそう答えた。

 ルカは不満そうな表情を浮かべて、また黙りこんでしまった。その表情をユイはすくいあげるように見てから、底意地の悪い笑顔を見せて、解説を続けた。

 「被験者は美女と出会って、ドキドキしたわけじゃないよね。美女と出会う前から、グラグラするつり橋を渡ることで、ドキドキしていた。そうでしょ? 」

 ユイの確認に、ルカはうなずくしかなかった。

 「つまり、美女に恋したから、被験者はドキドキしたんじゃなくて、ドキドキしていたから、美女に恋したんだと思い込んだ。カン違いでしたってわけよ。言葉を換えて言えば、恐怖によるドキドキ感を、美女に恋したドキドキ感であると、脳が錯覚したって言ってるの。分かった? 」

 脳が錯覚した―面白い考え方のはずなのに、ルカは、ちっとも面白くなかった。人間の心がバカにされている。それどころか、自分までがバカにされているような気がして、不愉快だった。

 ユイはすましたもので、さらに説明を続けた。

 「でもね、このつり橋効果には、欠点があるの。ドキドキ感は長続きしない、ということね。恋に落ちたと錯覚しても、じきに冷めちゃうのよ。

 だから、恋の錯覚を長続きさせようと思ったら、さらに恋の炎をかきたてるような次の一手を、大至急打つ必要があるわけ。モタモタしてたら、夢から醒めるように、恋心は消えてしまう」

 何だか分からなかったが、ルカはユイに腹が立ってきた。でも、まだ言葉になっていない怒りを、直接ユイにぶつけるわけにもいかない。ウーッ! とうなり声をあげても仕方がない。

 どうしよう、どうしよう・・・と急いで考えを進めていくうちに、はたと気が付いた。

 そのことに気が付いたとき、ルカはすぐに言葉に出す気が起きなかった。ただただ目を丸くして、信じられない、という思いを込めて、ユイをにらみつけるだけだった。

 そんなルカの表情を見て、ユイはまた意地悪そうな笑みを見せて、静かな声でこう言った。

 「やっと気が付いた? 」

 その言葉がきっかけとなり、ルカはようやく口を開くことができた。

 「つり橋効果の説明が、斉木さんとヒロミさんにもあてはまると・・・? 」

 それだけを言うのが精一杯だった。ところが、ユイはためらうことなく、あっさりと答えた。

 「その通り。地震が起きたときの二人のドキドキ感は、紛れもなく、つり橋効果のせいね」

 その言葉におおい被せるようにして、ルカは言った。

 「脳の錯覚を続かせるために、地震のあった翌日に、同じ場所で、お見合いの第二ラウンドを行ったんですね? 」

 意地悪そうな笑顔を張り付けたまま、ユイはゆっくりと首を縦に振った。

 「そんなぁ~・・・ 」

 思わずルカは声に出していた。

 もし、それが本当だったら、電話口から漏れてきた斉木さんやヒロミさんの喜びの報告を聞いて、涙でティッシュを何枚も濡らした自分の反応は、何だったのだろうか? バカバカしく思えてくる。

 いや、自分なんかよりも、さらに謎なのは、ユイだ。つり橋効果による脳の錯覚に過ぎないことを知っていながら、自分と同じように涙を流していたユイの本心は、どのようなものだったのだろう?

 ルカは、全身から力がぬけていくような虚脱感と、謎だらけのユイに対する不信感とで、怒りを通り越して、どうしようもなく悲しくなってしまった。

 ユイの表情から意地悪な笑みは消えていた。いつものクールな結婚相談所の所長の顔に戻っていた。キリッと引き締まった唇が開いた。

 「あんたが落胆する気持ちはわからないでもないわ。燃えるような恋心が、脳の錯覚のせいだなんて、身もフタもない話だものね。

 でもね、恋に落ちる瞬間なんて、人それぞれで、自分自身振り返ってみても、なぜ、あのとき、あの人に恋心を抱いたのか、説明出来ないことなんて、ざらにあるものよ。なぜだか分からないけど、落ちちゃったんだから、仕方がない。そう言うしかないのが、恋なんだろうね~。

 だからさ、あの人の顔が好きとか、声やしぐさがセクシーとか、お金持ちなのがいいとか、家柄も良くって、高学歴なのが素敵とか、好きになる理由なんか、何でも良くて、ドキドキ感を脳が錯覚しちゃって、というのも、好きになる理由の一つとしてカウントしてもおかしくないのかもしれないわね。

 そうは思わない? 」

 そんなことを急に聞かれても、ルカには答えられなかった。

 それに、耳にした途端、こびりついて離れないユイの言葉があった。

 「自分自身振り返ってみても、なぜ、あのとき、あの人に恋心を抱いたのか、説明出来ないことなんて、ざらにあるものよ」

 (「自分」とは、まぎれもなく、ユイ自身のことではないのか?)

 ルカには、そう思えてならなかった。

 あれは、ユイの母親、ルミ子が事務所にやってきた日のことだった。ルカは初対面だった。にもかかわらず、ルミ子に対して、実の母親への懐かしさ、いや、それ以上の甘えたいという感情を抱いたのだった。その願いが通じたのか、ルミ子は、我が子のようにルカを優しくハグしてくれた。事実、そのとき、ルミ子は口にした。ルカは血を分けた実の娘だ、と。

 ルミ子にハグされていたところへ、ユイが帰ってきた。ホントの母娘の関係は難しい。売り言葉に買い言葉。ルミ子に向かって、ユイは挑発的な言葉を言い放った。

 ルカにとっては、初めて聞く衝撃的な告白でもあった。それだけに、今でもその言葉を、ルカは鮮明に記憶していた。

 「・・・大学を卒業したと思ったら、妻子持ちの中年男に熱を上げ、生きるの、死ぬのといった修羅場を演じた挙句に、男に逃げられて・・・。廃人同然の引き込もり生活に陥った。・・・いったい、何を考えているのやら、さっぱり分からない不肖ふしょうの娘、それが私」

 大学を出たてで、世間知らずの小娘が、妻子持ちの中年男に恋をした。一過性の恋ではない。三角関係のドロ沼の中で、生きるの死ぬのといった修羅場が演じられたと言う。結局、男はユイの前を去り、深刻な喪失感から引きこもり状態に陥った・・・。

 (そんな壮絶な恋愛経験を、ユイさんは、脳の錯覚だったと片付けるつもりなのか?)

 ルカには、とうてい理解も共感もできない。

 (文字通り、道ならぬ恋に命を懸けた自らの生き方を、あれは脳の錯覚だったとくくり、それでもなお、恋は恋だ、と言い張る・・・言い張っているのだろうか、ユイさんは? ・・・分からない・・・。

 ともかく、恋だった、と結論づけている。そう思わなければ、ユイさんという人間は壊れてしまう。そう考えているのだろうか?)

 どこまで考えても、ルカにはわからなかった。

 問いに答えようとせず、自分の世界に閉じこもってしまったルカから目をそらし、ユイは事務机に腰を下ろした。ルカに背を向けるようにして、頬杖をつき、目の前に並んだ会員ファイルに目をやっていた。

 ユイが自らの恋愛経験を口走って以来、ルカからその件について触れるようなことはなかった。むろん、ユイから話してくることもなかった。

 (今なら聞けるかもしれない・・・)

 ふと、ルカはそう思った。好奇心からではない。ユイに少しでも近づきたかったからだ。

 だが、勇気が出ない。人には触れてはならない事柄って、あるんじゃないか? ユイにとって、かつての悲惨な恋愛経験が、それにあたるのではないか?

 喉元まで言葉が出かかっているのに、そんな不安が邪魔をして、どうしても問いを発せずにいた。じりじりとしたときが流れていった。

 



 

 

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