第19話 リエと福原

 リエさんが帰った後に、後片付けをしながら、ルカは、ユイに聞いた。

 「あの文庫本、前もって仕込んであったんですよね? 」

 事務机に座って、また別の会員に記入してもらったプロフィールシートに目を通しながら、ユイはどこか不機嫌そうな声で答えた。

 「そりゃあ、そうよ。私が芥川龍之介の本を、いつもバッグに入れて、持ち歩いてるような人間だ、と思える? 小説なんて、この何年か、読んだことないわ」

 そりゃあ、そうだ、という顔をして、ルカはうなずいた。そんなルカの反応に、さらに不機嫌さを増した声で、ユイは口を開いた。

 「仕込んだ、っていう言い方は、何だか人聞きが悪いわね。私が、悪知恵の働く悪党、みたいに聞こえるじゃない。・・・ま、確かに、悪知恵というか、サル知恵というか、そう言えば言えなくもないけどさ。

 相手は、何と言っても、高校の先生でしょ? 頭が良くて、プライドも高くて。そんな人間に説教垂れて、納得させようたって無理がある、と思ってね。最後は、彼女自身で納得して、決断してもらうしか、手はない。

 正解は、もう、リエさんの頭の中にある。でも、それは頭がいいからこその理屈に過ぎなくて、心がついてきてない。そこで思いついたのが、小説の力を借りよう、というサル知恵だったわけ。頭で答えは出ていても、心がついてきてないから、足を踏み出せずにいる。ならば、背中をぐっと押してくれる、何かきっかけみたいなものがいる。小説は、心に働きかけてくる。彼女の背中を押す、きっかけの役割を果たしてくれるんじゃないかな、と思ってね」

 ルカには、分かるような、分からないような・・・ポカン、とした顔つきになっていた。その顔を見て、ユイは聞いてきた。

 「もしかして、ルカは、芥川の『鼻』を知らないとか? 」

 ルカは、正直に答えた。

 「もちろん・・・知りません」

 ふむふむ、とユイはうなずきながら、少しだけ機嫌が良くなった。

 「単純な話よ。昔、偉いお坊さんがいたんだけど、大きな鼻をぶらさげていてね、陰で人が笑っていることを知っていた。気にはしてたんだけど、プライドが高くてね、気にしていることを表には出さなかったの。ところが、ある日、弟子が鼻の治療法を聞きつけてきて、それを実践してみたわけ。すると、効果バツグンで、翌朝には鼻が人並みの大きさになっていた。ところが、周囲の人たちは、鼻が大きかったときよりも、笑い出したの。中には、お坊さんのいる前で、吹き出す者まで出る始末。それで、お坊さんは余計に傷ついちゃった。何日か経って、ある寒い夜に、急に鼻がむずがゆくなり、翌朝、目を覚ましたら、鼻は元通りの大きさに戻っていた。お坊さんは思ったの。これでもう笑う者はいなくなるだろう、って。お坊さんは晴ればれとした気分を味わった―以上、それだけの話よ」

 ルカは、ますます、ポカン、とした表情になった。

 「・・・だろうね~。ルカにはピンとこない。私だって、同じ。でも、リエさんは違うと思うの。彼女の背中を押せるのは、理屈じゃない。お坊さんが、最後に味わった、晴ればれとした気持ち、ってのが、彼女の胸に刺さると思えるの。スコーン、てね。突き抜けた後にやってくる爽快感。鼻にこだわってる限り、絶対に味わえない感覚。リエさんも無意識に、きっとそんな気分を切望しているはず。

 そんな気分になれれば、彼女にとって、お見合いなんて、どうってことない。スイスーイ、と結婚まで行っちゃうんじゃないかな、と私には思えるのよね」

 そう言って、ユイは、ニンマリと笑った。

 ユイにそう言われると、ルカにもそう思えてきた。でも、ホントはよく分からない。ボンヤリとした気分のまま、それでも、ユイさんの言う通りなんだろうな~、とルカには思えた。

 (あっ、鏡!? )

 まるで稲妻が走ったみたいに、違う疑問がルカの頭をよぎっていった。

 ユイは、おばあさんから受け継いだ手鏡を、魔法の鏡と呼んだ。

 (あれは、単なるその場限りの思いつきだったのだろうか? )

 ルカは、ユイに聞いてみたい欲望に駆られた。

 ユイは、リエさんに、この鏡に向かって、笑ってみなさい、と言った。無理にでも笑顔を浮かべれば、そのとき、鏡にはリエさんのまだ気付いていない、ホントの彼女の顔が映る、という意味だったのだ、とルカには思えた。

 (・・・ということは、ユイさんは既に実証ずみで、その鏡に、自分の顔を映して、ホントの自分の顔を見たのではないのか? )

 ユイのホントの顔―ルカは、まだ知らないと思った。

 ならば・・・と、さらにルカは考えようとしたわけでもなく、考えてしまっていた。

 (もしも、魔法の鏡に、自分の顔を映したら、どんな顔が見えるんだろうか!? )

 一瞬、見たいと思い、その直後に、見たくない、と思った。怖かった。

 (自分のホントの顔なんか・・・ )

 ルカには勇気が持てなかった。

 両親を放火で失い、両親の記憶はおろか、自分に両親というものが存在するのか、まるで実感が持てないまま、養護施設で、他人に囲まれ育ってきた。施設で、ここが自分の居場所だ、などど感じたことはなかった。誰にも心を開かなかった。社会に出てからも同じ。心を開けないから、周囲の人たちから弾かれた。自業自得。全部、自分が悪い。ひとりぼっちの心を抱えて、流れるだけの27年間の人生を送ってきた。

 (そんな自分のホントの顔なんか・・・イヤだ! )

 そう考えて、腰が引けてしまった途端、ルカはユイに聞くのをやめてしまった。

 (自分みたいな人間に、いつ、そんな勇気が持てるようになるのか、分からないけど、いつか、そんなときが訪れたら、聞いてみよう)

 と、ルカは考えた。

 ユイもルカも、それぞれが、自分の心に閉じこもるようにして、黙ってしまった。


 その日から一週間ばかりが経ち、リエさんから封筒が届いた。中には、ユイが渡した文庫本と写真が入っていた。

 「きたよー! 」

 満面の笑みを浮かべて、ユイがルカに大声で告げた。その声で事情を察したルカも嬉しくなった。でも、それ以上に、驚きの方が強かった。本当に、ユイの思いが、リエさんに届いたのだ。

 「魔法の手鏡を持っているユイさんは、ホンモノの魔女だったんだ・・・ 」

 そう、ルカは心の中でつぶやいた。

 文庫本には、一枚の便箋が挟んであった。そこには、こう記されていた。

 「この小説には、私が登場してきます。そら恐ろしいような気分で読みました、繰り返し。そして、涙が止まらなくなりました。泣けて、泣けて、泣き尽くした後に、ほんのちょっとだけ、お坊さんの気持ち、晴ればれとした心持が、私の心の中に広がってきたように思います。100パーセントではありません。でも、今の私の気持ちに正直に、お見合い写真を撮り直してみました。ご覧になって下さい。

 本当にありがとうございました。ユイさんの結婚相談所に入会できたことに、心から感謝しています。まだまだ未熟者ですが、今後ともよろしくお願いします」

 読み終わった後、ユイは、くるりと背を向けて、事務所の天井を仰ぎ見た。

 日頃はからかわれていることの多いルカは、かたき討ちの絶好のチャンスとばかりに、ユイの背中にむかって、聞いてみた。

 「泣いてるんですか? 」

 すると、ユイは、天井に視線を注いだままの姿勢で、こう言い返した。

 「バカおっしゃい! 私が泣くもんですか。次の手を考えてるのよ! 」

 ユイさん、カワイイ、と思いながら、ルカのニヤニヤは止まらない。

 それから、ルカは、同封されていた写真を手に取った。無修正だった。思わず、ルカは声を漏らした。

 「リエさんって、きれいですね」

 心からの感想だった。

 ルカに向き直ると、ユイは口を開いた。

 「そう。鼻にコンプレックスなんか持たずに、晴ればれとした気分で、ありのままのリエさんがニッコリ微笑んで写真に収まれば、たいていの男性は、イチコロよ。

 ヨシッ! そのときが来た。ド本命のお見合い相手を紹介しましょうかね。今のリエさんなら、間違いなく、お見合いは成功する。私が保証するわ」

 そう言うや否や、既に準備してあった資料の確認を、ユイはし始めた。

  

 ユイが、リエさんにとってのド本命とねらいを定めていた男性は、福原由一さん。大手製薬会社の主任研究員を務めるエリート社員。33歳だが、年収は3000万円近い。

 福原さんとユイは、事務所で一度面談していた。スーツの似合う、スラリとした体型。鼻筋が通り、二重の目が涼しい、爽やかな好青年だった。話し方は、理路整然として、いかにも賢い理系男子であったが、笑うとエクボが出来る。カワイイ。ギャップ萌えで、さすがのユイも、その笑顔に胸が、キュン、としたほどだった。

 どうして、こんな魅力的な男性が33歳で未婚なのか、不思議でならない。ユイは、ストレートにその点について聞いてみた。

 福原さんは苦笑いを浮かべながら、こう答えた。

 「大学、大学院と、ともかく研究が面白くって、薬品開発がいつの間にか趣味のようになってしまって、つい・・・ 」

 つい、か・・・。ついっていうのも罪作りだね~、と福原さんの話を聞きながら、ユイはつくづく思った。

 そんな福原さんとリエさんとの見合いは、何の支障もなく成立し、たちまちにして意気投合。出会ったその日から、結婚するのが当然であるかのような勢いで、交際は進展していった。仮交際などという様子見の期間は不必要、といった感じで、初めから本気モードのデートとなった。 

 ユイのもとへ、リエさんから連絡が入った。見合いをしてからまだ一か月も経っていない。福原さんからプロポーズされた、というのだ。リエさんの口調は弾んでいた。 

 「晴ればれとした心持ち、というのは、こういうものなんですね」

 と、リエさんはかろやかに語った。

 鼻の一件で、見合いに失敗したときの落胆ぶりが、嘘のようであった。

 二人は、もう結婚式の日取り決めと会場探しに動き出しているとも言った。

 リエさんからの報告を聞くユイの顔も、晴ればれとしているように、ルカには見えた。仕事とはいえ、他人の幸せのために奔走し、知恵を絞って、出来る限りのサポートをする。そんな努力が、結婚という形で結実する。当事者たちと同じ熱量で、我が事のように喜んでいるユイの姿に、ルカは、人としてまぶしさを感じた。

 自分もこの結婚相談所で、ユイさんと一緒に歩み続けたならば、いつか、ユイさんみたいに、他人の喜びを自分の喜びとして、喜べるようになるだろうか? 心もとない気持ちもするのだが、それでも、そんな自分を夢想することが楽しかった。かつての自分からは想像もつかない、自分の心の変化に、ルカ自身驚いていた。

 結婚なんて、自分のような人間には、無縁なことだと承知していたが、結婚とは関係なく、リエさんの味わっている、晴ればれとした心持ちを、自分も味わってみたい、とルカは願っていた。

 リエさんの電話が切れた。受話器を置いたユイの頬に、ほんのりと赤みが差していた。

 ユイの相づちの様子から、あらかたリエさんの報告内容は想像出来ていたのだが、それでも、ルカは改めて、ユイの口から聞きたかった。

 「リエさん、幸せになれそうですね」

 と、ルカから口火を切った。

 「もう充分に幸せよ。これ以上幸せになったら、あの人、昇天しちゃうよ」

 思ってもみなかった、どこかひんやりした言葉で、ユイは返答してきた。

 「昇天ですか・・・? 」

 ルカがそう聞き返すと、

 「そう、昇天。結婚の極意と言ってもいいんだけど、婚活に燃えるような愛情なんて、必要ないのよ。かえって邪魔なだけ。そんなものを求めていたら、永遠にお相手なんか見つからない。燃えるような愛情に恋い焦がれて、全身やけどの重傷を負うのが、関の山よ。結婚だけに限らないけど、何ごとも、ほどほどがいい。愛情っていう天国と地獄を、激しく往復するようなお付き合いは、体に毒よ。

 どーってことないけど、この人と一緒にいたら楽。ま、これが幸せというものかな? というゆる~いレベルが、ベストなのよね」

 ユイは真顔で答えた。

 (ユイさんって、二重人格・・・? 他人の喜びを自分のことみたいに喜べるくせに、同時にメッチャ醒めた目で、その喜びを観察している。どういう精神構造をしているんだろう・・・? ユイさんには憧れるけど、どこかついていけないところがある・・・)

 ルカは胸の内でつぶやいていた。

 すると、ユイが、ボソッと言葉を漏らした。

 「さ~て、桂川さん。どう攻めようかしら? リエさんとは真逆なんだよね~ 」

 

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