第10話 マリナと阪田

 自己紹介もそこそこに、マリナさんは目を輝かせて、こう切り出した。

 「T大卒って、すごいですね。日本の芸大ではトップですもの。しかも、楽器の王様、ピアノを専攻されるなんて、それだけでも尊敬しちゃいます」

 37歳とはとても思えない、まるで少女のような口ぶりだった。

 コーヒーで喉を潤してから、阪田さんは答えた。

 「全然、尊敬だなんて、とんでもありません。ボクはピアノを始めるのが遅かったせいで、運良くT大に入学できたものの、在学中には、劣等感ばかり味わってきました。上には上がいる、って言いますが・・・。T大に入学したことを後悔するぐらい、情けない毎日を過ごしていました」

 そんな自虐的な返答を遮るように、マリナさんは口を挟んだ。

 「でも、どんなに劣等感を味わったにしても、途中で投げ出さず、努力を続けられたんですもの。それだけで立派です。・・・何が洋一さんを支えたんですか? 」

 マリナさんは興味深々だった。それは単なる好奇心からではなかった。バイオリニストの夢を追う彼女自身の問題でもあったからだ。

 やや間をおいてから、阪田さんは一言、

 「ショパン、ですね」

 と答えた。マリナさんはその先を語ってほしい、とキラキラ光る目で促していた。

 「大学に入って間もなくのことでした。受験を切り抜けた解放感もあって、フワフワした気分で毎日を送っていました。そんなとき、ある教室からピアノの音色が聞こえたんです。素晴らしい演奏でした。ただただその演奏を聴きたい一心で、ボクは教室に入っていきました。きっと教授が弾いているんだろうと、決めつけていたんですが、弾いていたのは女子学生でした。

 彼女が一心不乱に鍵盤に向かってたんです。うつむき加減の横顔が、ホントに美しかった。

 お見合いの席で、口にすべきではないんですが・・・たちまちにして、恋をしました。彼女の奏でるピアノの音色と、彼女の美しさが一つになって、ボクの心をわしづかみにしたんです。

 その曲がショパンの『ピアノ協奏曲第一番』でした。それまでのボクにとっては、好きな作曲家の一人に過ぎませんでした。でも、このとき、ボクにとってショパンは、特別な存在になってしまったんです」

 手にしたハンカチをもてあそびながら、マリナさんは抑え気味の声で聞いた。

 「その方とは、どうなったんです? 」

 阪田さんは、答えた。

 「それっきりです・・・。

 演奏の途中で男性が姿を現したんです。彼女の傍に寄り、何か声をかけました。すると、パタリ、と演奏を止めて、その男性の腕に、自分の腕を絡ませて、出て行ってしまったんです。心底嬉しそうな顔でした。ボクだけが教室に取り残されました。ボクの恋はそれで終わり・・・。

 不思議なんですが、それ以後、キャンパス内で彼女と出会ったことがないんです。広いキャンパスですから、そんなこともあるか、と思えるんですが、何だか神隠しにでもあったみたいで・・・。彼女は幻だったんだろうか、とさえ考えたほどです。彼女が消えてしまったことで、かえって、ショパンの『ピアノ協奏曲第一番』が、ボクにとっては永遠の曲になってしまったようで・・・。呪われたんですかね? 」

 阪田さんの顔を見つめながら、マリナさんはこう言った。

 「神隠しにあったその女性に、嫉妬しても始まりませんけど、それほどの影響を洋一さんに与えた彼女が、気になって仕方ありません」

 恥じ入るような笑みを浮かべ、阪田さんが慌てたように言った。

 「ホント、この場にはふさわしくない話でしたね。ゴメンナサイ。遠い昔の出来事です。でも、ボクの大学での4年間はショパン一色になってしまいました。

 5年に一度、ショパン国際ピアノコンクールへの出場を目標に、ボクなりにピアノの腕を磨いたつもりだったんですが、まるで歯が立ちませんでした。最終審査は、ピアノ協奏曲の第一番か第二番を選ばないといけないのですが、ほとんどが、第一番を弾くんです。だから、いっそうボクにとって、この曲は別格になってしまったんです」

 ひとしきりショパンについて、阪田さんが熱弁した後で、今度はマリナさんの番になった。

 「洋一さんのようなロマンティックなエピソードがあればいいんですけど・・・私の場合はパガニーニなんです。

 高校生の頃、音楽塾に通っていたんですけど、その教室で、パガニーニの自筆譜のコピーを見たのが初めての出会いでした。譜面が音符で真っ黒に見えたんです。これをバイオリン1挺で弾くのか、と思っただけで恐怖を覚えました。

 この作曲家は、狂ってるんじゃないの? 

 そんなことさえ考えました。そこで、私は指導していただいていた先生に聞いたんです。

 『私にも、この曲が弾けるようになりますか? 』

 って。そうしたら、先生はこう言われたんです。

 『パガニーニか・・・。猛レッスンを続ければ、形になると思うけど。私はあまり好きじゃないな。「24の奇想曲」、その中でも一番有名な曲が、「第24番イ短調」なんだけど。ともかく難しい。曲を聴けばわかるけど、ホントに1挺のバイオリンで弾いてるの? と疑わしくなるほどに複雑この上ない。

 自分はこんなにもすごいテクニックを持っているんだぞ、とひけらかせたいだけじゃないか? と邪推したくなる。確かに超絶技巧の連続であることは分かるんだけど、1曲聴いただけで、げんなりしちゃうんだよね。ちょっとイヤミじゃないか? と反発すら覚える・・・』

 先生が、これほど悪口を言ったことは、後にも先にもありません。だからかもしれませんが、パガニーニという作曲家と『24の奇想曲』が、強烈に私の胸に刻まれてしまったんです」

 そう言うと、聞いていた阪田さんは目を輝かせて、うんうん、とうなずいた。その共感ぶりに、マリナさんも楽しそうに笑った。

 「早速CDを買って、聴きました。先生の言われたことも、間違いではない、とは思いましたが、その魔的な魅力に、私はたちまちにして虜になってしまいました。

 パガニーニを知ってしまった・・・

 そう言うしかない決定的な出会いを感じたんです。

 イタリア留学したのも、彼の世界にどっぷりひたりたい、との願いからでした。イタリアのお国柄にもすっかり魅了されてしまいました。街なかで、あんなにもたくさんの男性から声をかけられたのも、生まれて初めての体験でしたし・・・」

 そう言って、マリナさんはケラケラと笑った。阪田さんもつられたように、楽しそうに笑っていた。

 見合いの二時間は、そんな具合に、互いの音楽話をすることで盛り上がり、終始なごやかな雰囲気で、瞬く間に流れていった。

 この人となら、楽しい家庭を築けそう―

 阪田さんもマリナさんも、そう感じたに違いない。そのはずだった・・・。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る