地の底の鏡面

狂フラフープ

地の底の鏡面

 土の下に鏡がある。

 曲がりくねった洞の奥、奥の奥に鏡がある。

 寸毫の光も通さぬ闇の中、見る者をしかと映し。

 二度と離さぬ鏡がある。


  *


「ぼうず、何か面白いものでも見えるか」

 峠の道端で、うずくまった子どもに声を掛けたのは、その振る舞いがあまりに子供らしくなかったからだ。

 見たところ年は十程、遊びたい盛りに違いない。だが遠くからははしゃぐ子らの声が聞こえていても、その子は視界の一点を見つめて動かない。

 こちらの問いにただ小さく首を横に振り、子はまた同じ方向へと視線を向ける。釣られた視線の先、深山の裾に黒々と口を開ける大きな洞がある。


「――あの、その子に何か」

 しばらく隣に腰掛けていると、声を掛けてきたのは年の離れた姉だろうか。

「いや、この子がちと良くないものを見ているのでね。あまり目を離さない方が良い。いずれ魅入られて、帰れなくなる」

「……あの」

 腰を上げて立ち去ろうとするのを、娘が呼び止めた。

「あれが、わかるんですか」

「ああ。いくらかは。少し邪魔しようか」

 若い娘らしからぬ荒れた手が小さな手を取ると、弟は素直に従った。



 村の外れ、敷居を跨ぐとき思い出したように娘はくら、と名乗った。

 手を引いて連れ帰った子どもは、朔という名らしい。今は部屋の隅にうずくまり、黙って何かを見つめている。

 畳に胡坐し、出された白湯を啜ると、娘はゆっくりと話を始める。

「あの子は――朔は父と母の帰りを待っているんです」

 村の出の父が街で学者の家の娘を娶り、娘と生まれたばかりの息子を連れてこの村へ帰ったのが、八年ほど前。ちょうどくらが今の弟ほどの年の頃だったという。

 一家はこの場所に居を構え、はじめは村の子らに学問を教えながら、ふたりで虚の洞なる場所を調べていたのだそうだ。

「虚の洞、というのが、あれか」

 話に水を差せば、くらは俯くように肯定する。

 古くからの禁足地で、村の者は決して足を踏み入れることが無いのだそうだ。

「父と母は、あの洞に幾度か踏み込み、最後には帰りませんでした」

 村のどの家よりも侘しく、男手の無さを差し引いても貧しい家の有様にもそれで納得がいった。たとえ子に罪が無くとも禁を破った家の者を表立って助けることも出来ぬというのだろう。それでも一応、ふたりきりの家族はどうにか生きて行けるようだった。


 洞は、入って少し進めば地底湖に突き当たって行き止まりになるが、地底湖は月に一度だけ水位が下がり、奥へと続く道を現すのだという。

「水が引いた洞窟を深く降りて行った先の地面に、鏡があるのだそうです。鏡は異界と繋がっていて、灯りもないのに、覗いた者の姿を映すのだと」

「それで、姿見を伏せているのか。鏡が恐ろしくて」

 奥の部屋をちらと窺う。くらは少しためらったが、結局小さく首肯した。

「気にすることはない。鏡の向こうに世界などない。あれはただ、跳ね返った光がそう見えているだけだ」

「……あの、でも」

「だから、光もないのに姿を映す鏡というものがあるならば、それは本当に別の世界に通じているのかもしれん」

 洞の水が引く周期については、父母が残した記録が残っていた。

 振れはある。だが月齢とつき合わせ、洞から水が引く大まかな時期が予測出来た。

「近いな。たぶん数日の内だ。あの子は縛って納屋にでも閉じ込めておいた方が良いかもわからん」

「あの、でもそれは、」

「それが嫌なら、決して目を離さないことだ。できるな?」

 くらが頷く。目を向けた朔は、やはり何も言わずにうずくまっていた。


 降り出した通り雨が雨脚を強め、行く手を霧のように細かく閉ざした。

 麓の街まで降りられないほどではないが、よく滑る山道を無理に進むよりはと、しばらくくらの両親の残した資料を読み込んで過ごさせてもらう。

 昼を過ぎても雨は続き、くらが様子を見に来たとき、家の中に弟の姿が無いことに気が付いた。

「朔はどうした」

「朔なら、きっといつもの峠にでも、」

 振り返って家の外へ目を向けるくらの肩を掴んだ。驚いた眼がこちらを見る。

「なぜ目を離した」

「なぜって、だって、雨が降って、」

 だから洞の水が引くことはないと思って、とくらは目を丸くする。

 だが記録には、雨の最中に水が引いた記述がある。慰めも叱責も後回しに必要なものを搔き集め、雨の中くらの手を引いて家を出た。

 いつもの峠にも朔の姿はない。虚の洞へ続く道を早足で辿る。

 誰も入れぬように洞の入り口に施された封印が、ちょうど子供一人通れる程度に

緩んでいた。

「朔!」

 くらの呼び掛ける声に応えはなく、代わりに、奥へ奥へと続いているようなこだまが返ってくる。少し先で行き止まりであればこんな音はしないだろう、とすぐに理解できる音だ。

 膝から崩れたくらの手が顔を覆い、隙間から悔恨の声が漏れる。

「泣くのは後にしろ」

 洞の封を押し退けて、その先へと踏み入った。ためらいながらくらもすぐに続く。

 奥への道を、持ってきた灯火がぼんやりと照らす。下がり、上がり、くねって続く。濡れた岩壁はひどく冷たく、刺すように冷たい水溜まりが足を取る。身体をねじ込むような狭い道を抜ける。振り返っても、表からの陽光は欠片も感じない。

 まるで、何かの体内へ降りていくように感じる。

 ひどく巨大で、冷たい生き物の腹の中へ。


 ふと、揺らぐ灯火の照り返しが、前方からするりと消えた。

 この先に広い空間が後方のくらを手で制し、先を窺う。逸るくらが後ろから無理にでも前に出ようとする。

「見るな」

 咄嗟にその目を塞いだ。 

「朔!」

 くらが悲痛な叫びを上げて、目を塞ぐこちらの手に掴みかかる。

「朔が居たんでしょう?! 朔に……! 朔に、何があったんですか!」

「違う! 鏡をだ。鏡を見てはいけない」

 覆う手の平を剥がそうとする指が動きを止めて、虚空に迷う。

「朔がいた。だが、鏡がある。落ち着け。君が魅入られなければ、まだ取り返せる。目を強く瞑り、決して下を見るな」

 足の下に、滑らかな鏡面が広がっている。それは水鏡のように見えて、踏みつけても少しも揺らぎはしない。

 暗がりに朔が立っている。

 足元の鏡面の向こうに、こちらにいない朔が逆しまに立っている。

「あの、あなたは……」

「この身体は鏡に映らない」


 正直な話をしよう。期待しなかったと言えば噓になる。

 己の目にも、鏡にも映らぬ自らの身を、この世ならざる鏡面が映し出してくれるのではないかと期待した。

 だが、常の鏡がそうであるように、鏡の向こう、自分の居る場所には誰も居ない。


 境を隔てて、ふたつの世界がある。

 そのどちらも真にひとつの完全な世界だとすれば、本物の世界とは、自分の居る世界に他なるまい。

 鏡の向こうをあるべき世界と認識すれば、世界はそれで固定される。

 朔の世界は、そうやって固定されている。

 父と母の居ない世界を間違った世界であると、そう考える振り切れぬ思いが、世界の境を越えさせてしまう。

 ひとりが鏡に取られれば、後の者が続くのは簡単だ。

 当然に隣に居るはずの人間が居なくなり、その者が鏡の向こうに立っていれば、人はそれを咄嗟にどう考えるか。

 自分の側を正しいと、欠片の疑念もなく信じ続けられる者がいるとすれば。

 それは鏡に映らぬ者くらいのものだ。


 鏡面の向こう。朔は姉の袖を引き、彼にとっての世界の奥、彼から見た洞窟の外へと引き返そうとしている。

「くら。弟に、鏡を見るように伝えろ」

 居ない者の言葉を聞くことは出来ない。鏡の向こうの音は届かない。鏡面の向こうに働きかけるには、彼方と此方、そのどちらにも居るものが必要となる。

「朔? 朔、居るのね。お願い、鏡を見て」

 そして朔は、鏡に己の姿が映らないことに気が付いた。

 鏡の中に、鏡にしか映っていない人間の姿を見た。姉の喉元に、小刀を突き付ける者の姿を。

 鏡の向こうの存在に、触れることは出来ない。

 鏡に取られた人間を取り返すには、己の意思で、境を越えさせるほかに手段はない。

 鏡に魅入られたものが、右や左で世界の正しさを認識することは出来ない。その認識すら、鏡の中では入れ替わる。

 必要なのは、世界の正誤をかなぐり捨てて、境の向こうに手を伸ばさせることだ。

 少年の顔が驚愕と恐れに染まる。

「なあ朔。父さんと母さんを、助けたかったんだろう」

 届かぬことを承知で、鏡の向こうの少年に語り掛ける。

「何も出来ない自分が、悔しかったんだろう」

 今にも泣き出しそうな怯えの中に、振り絞ったかすかな勇気が見え隠れする。

 姉を助けたいと願え。

 ただ、手を伸ばせばいい。それで境は越えられる。


 人の意思こそが、おぼろげな世界を確定させる。


  *


「悪いがこの子が目を覚ます前に、失礼させてもらうよ」

 気を失った朔をくらに返して、軽々に別れを告げた。

 無論くらは引き留めたが、そうもいかぬと、急ぎ別れを済ませて出立する。

 彼女の目に自分がどう映っているかは知らないが、それはあくまで彼女の目に映る姿に過ぎない。きっと目を覚ました朔の目には、自分は恐ろしい化け物にでも見えるだろう。

 山道を下りながらふと思い当って、振り返る。

 ああ、と。

 自分を見送るくらの熱のこもった視線の意味をようやく理解した。すぐにころころと変わるせいで、どうにも自分はその辺りの機微に疎いきらいがある。


「そうか。今度は男だったか、おれは」

 おれ。そう、おれだ。

 次に誰かに会うまでは、おれはおれで居られるのだ。


 鼻唄でも歌いながら、おれは上機嫌で道を行く。

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