第20話 衝突 《sideミシェル》

 ニコラスの乗る、くすんだ赤のフォード・レンジャーが尻から黒煙を一発噴き出した。今にも止まってしまいそうなエンジンから出る噴煙が、大いなる大気を汚した。赤錆色の塗装がはげ落ちた下から、元の白い車体だった頃の下地が見えている。サンセット・プラザ通りの奥まった角にある灰色の屋根の家の前に止まった。


 ニコラスがミルクを電子レンジで温めて、出来た膜をスプーンで取り除いている。カップから伝わる温もりが、薬剤を扱い酷使してきたボロボロの手にじんわりと染み渡るのを感じているかのように一口啜った。その向かい側に座っているルークとアルマが、無言で膜の行方を見守る。ミシェルを除いた三人での家族会議だ。キッチンの隅に固まり、顔を突き合わせるようにして重苦しい話しをしていた。


 この議題である当の本人、ホームレスに暴力を振るったミシェルは毛布を頭からすっぽり被って、こっそり階段で聞き耳を立てていた。血が滲んで指から剥がれそうになっている爪を噛み、階段の手すりからちらちらと覗き見ている。


 キッチンテーブルに尻を寄りかからせているルークの顔には苦悩と、痛烈な心労がくっきりと浮かび上がっていた。目の下のくまが一段と老け込んで見せている。


 まだ二十代前半のルークは、白髪がさしてきて、四十代に見えると言っても大袈裟ではない。その肩にニコラスとアルマは片手ずつ置いた。


 ルークと両親は深刻そうに見つめ合い、時折感情に任せた言葉だけが聴き取れる。だが、肝心の内容はとんと聴こえて来ない。


 上の空のまま、毛布を羽織り直し、ミシェルは元いた寝室へと足音を立てないように戻って行った。


 自分でも理由は分からないのだ。ホームレスに暴行するなんて。どうしても抑えられなかった。みんなにはおかしいと……完全に壊れてしまったと思われているのだろう。……そう。自分でもそう思えるのだ。


 だが、ミシェルはこうも思っていた。おかしいのは本当に私? それともみんなの方なのだろうか? 私はいったいどうしてしまったのだろう? あの時、暴力を振るってしまった時だ。ものすごい激痛が脳内を駆け抜け、一瞬気を失いそうになった。その後は腹の底から怒りが溢れだしてくるように感じたのだ。今までこんなことはなかった。ただ、薬の副作用の頭痛が嫌で嫌でたまらなかった。だから朝になっても、昼になっても薬は飲まなかった。何も手につかない“人形”のままでいたくなかっただけなのに。それがこんなことになるなんて夢にも思っていなかった。


 寝室に戻ったミシェルは自分が映る、電源すらついていないテレビを見つめた。


 なんて酷い顔だ……まるでゾンビではないか。ミシェルは静かに涙を流した。階下にあるキッチンから、疑惑の目を向けられながら。


 ニコラスのくぐもった声がわめいている。階下でのやり取りが収束に向かったのか、やがて静かになり、アルマの泣き声が聴こえると、ミシェルは呼応するように毛布に顔を埋めて泣いた。



 ***



 アルマ・アルバラードはもう限界なのではないだろうかと思案していた。そう思ってしまう原因は明白だし、事はもう起きてしまった。相手がホームレスなので、確率は五分五分だが、今にも警察が事情を聞きにやってくるかもしれない。隣町の大きな病院へとミシェルを連れて行き、事実に近いものを厳選して相談する。脳神経外科ないし、公明な医者に見せるべきではないだろうか? アルマは震える手で、髪をかき、残り少なくなってしまった時間でなにができるかを、最近はずっと考えていた。


 三人で話し合った時、その重苦しい解決方法を吐き出すと、ニコラスとルークは反対した。


 ニコラスがアルマの顔の前に皺の寄った手を出して制した。


んだアルマ! それだけは!」


 悲しげなニコラスの目の中に、酷く澱んだものが見え隠れしているのを感じて、アルマは口を噤んだ。


 ニコラスは首筋を撫でながらキッチンの端まで離れていくと、疲れた表情を和らげながら戻ってきてお決まりの文句を交えてアルマに言った。


「いいか? 精神科医なんぞはな、人間を薬漬けにする口実をケツから捻り出すだけの能無しどもなんだ。……それにな、ミシェルのようなな……いや、な事例はもれなく軍の精神病院に送られる。そこからは二度と出てこられなくなるんだ。もしかしたら、頭を切り開かれ、研究材料になるかもしれないんだぞ。一生そのままだ。そんなことはさせない。わたしが今まで通り薬を調節して処方する。責任をもってな。ミシェルは、わたしたちの子だ。誰にも渡すものか」


 アルマは渋々ながら納得し、ルークはその小さな丸い背中を慰めるように優しくさすった。



 ***



 次の日の朝、アルマはクローゼットから一番のお気に入りの服を選び、人生最後になるかもしれない化粧を入念に行なった。まだ眠りこけているニコラスの寝顔を見つめ、目を強く瞑る。アルマは悪くなった膝を抱えながら、くすんだ赤い色のフォード・レンジャーに乗り込んだ。


 警察に全部話そうと心に決めた。きっと、みんなは許してくれないだろう。自分も刑務所に入る事になるだろう。処刑台へと送られることになるだろう。確かに軍で研究材料にされるかもしれないが、生きていく事は最低限できる。そう望みをかけるしかない。そのための交渉をするのだ。それに、もう、アルマはに疲れ果てたのだ。


 最後に乗ることになるかもしれないこの愛しいガラクタ車を、ニコラスとアルマは気に入っていて、よくニコラスに対して言っていたのを思い出す。


「――自分たちも歳をとってガラクタ同然になったのだから、この子も一緒に歳をとって当然なのよ……」と。


 ニコラスは身体と同じように年老いていく愛車をよく磨いた。元は白かった車体を“仕事”をする際に色が目立たないよう赤く塗り替え、頻繁に点検をし、手入れをして直した。時には車の下に潜り込み、手も顔も車の血であるオイルだらけになりながら。


 アルマは『ブルーバード図書館』の前を通り過ぎ、セントラル鉄道の信号機の手前でブレーキを踏もうと足先をブレーキペダルに乗せる。


 この通りを真っ直ぐ行って右手に向かえばミシェルたちの家があるサンセット・プラザ通り。日頃から通いつけていた道だ。出頭するとなれば、向かうのは左へと曲がって道なりに行った先にある。


 車はゆっくりとスピードを緩めていたが、ある時点からアルマが踏むブレーキパッドはスカスカと手応えがなくなり、車はノロノロとした赤い亀のように進み続けていた。アルマは突然の出来事にパニックになった。ブレーキを何度も踏んだ。弱り痛む膝が悲鳴をあげる。


 指令を失った愛車はパニック状態のままのアルマを乗せて、踏切を通り過ぎた。白と赤の縞模様の遮断機にぶつかって幾分かスピードが落ちたが、車は遮断機を押し上げて線路の上で止まった。アルマは慌てて車を降りようとするが、膝が痛んで思うように動けない。


 赤いフォード・レンジャーに気付いた電車が警笛を鳴らし危険を警告する。


 アルマは軋むドアを倒れるように押し開けると、必死の思いで這い出ようともがいた。だが年季の入った足腰が言うことを聞いてくれない。ズキズキと更に痛みを増していく。お願いだから動いてと願いを込めて動かす。


 線路の先から警笛を鳴らし、ブレーキから火花と金切り声を盛大に撒き散らしながら電車が迫って来て、赤い車を跳ね飛ばした。車は真っ二つに割れて、前半分は空中で体操選手のように回転し、地面に落ちると、八十メートルも転がった。後ろ半分は火を噴きながら、遮断機を押し上げた。遮断機はへし折れて車に突き刺さったまま、十字を作って炎上した。

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