第13話 亡霊 《sideダイス》

 ダイスはデスクの正面に用意されている椅子に腰掛け、先程から身動きひとつしない刑事局長の項垂れた脳天を見つめていた。眉間のシワとこめかみだけが、鬱屈した怒りに時折ぴくぴくと脈動しているのが見て取れる。


 隣にいるロブ・ハーディングはどこか涼しい顔でオフィスを眺めている。その視線が、釣りを心から楽しみ、仕事中には見せたことのない、陽気な笑顔で魚を抱えている刑事局長の写真を見ているのが分かる。視線を戻した先にいる彼とを交互に見ているようだ。髪がくたびれて頭頂部がなくなり、髭も白くなっていて、今の彼とは似ても似つかないほど変わり果てていると思っているのだろう。


 長い瞑想から覚めたように瞑っていた目を開け、上目遣いでダイスを見つめる。必死に抑えている怒りのせいで血走っている。やがて、長い沈黙の末に局長は言った。


「ダイス……お前さんの心中が穏やかでないのは分かるが、重傷者が三人も出てしまった責任を誰かが背負わなければならん。そこだけは揺るがないんだ」


「――ですが……」


「――マスコミがっ! ……マスコミがその場面を押さえているんだ! そして! 今! その証拠をもって待ち構えている! そこだ! 見ろ!」


 ダイスは歯噛みする。拍子にガラス片で切った頬に痛みが走る。刑事局長の指さす先、ガラス面越しに見た。同じくガラス面の向こうの応接室で憎々しげにこちらを見ている体格のいいカメラマンを見た。商売道具のカメラを脇に置いている。あの美人女性レポーターと彼は何度かベッドを共にしていたのではないかと推測する。だが、それも女性レポーターの首に刺さった爆発片でもう難しいかもしれない。彼女は今、集中治療室にいる。刑事局長はブラインド・シャッターを降ろした。


「……やつらの取引に応じ、いくつかの捜査情報をくれてやらなければ、その様子が世界中に広まるんだ。ここは煮え湯を飲み込み、耐えるしかないんだ。上の連中はこの騒ぎを受けて早期の解決を望んでいる。……ダイス、お前は、四ヶ月の謹慎処分だ。交通整理じゃなかっただけマシだと思ってくれ。ロブ、良かったな、一ヶ月の謹慎処分の後、証拠品保管庫で仕事をしてもらう。現場には半年は出られないと思え。……それでも……くそっ! くそっ! くそっ! ……いや、すまん。お前たちも納得はいかんだろうな、私も納得がいかん。本部の上の連中には正直と言ってやりたいが、これで済んで良かったと思った方がいい。そして、“亡霊”――“血染め花のマリー”事件の犯人は“ハンター・ブライト”だったと報告するつもりだ。“亡霊”騒ぎもこれで解決済みとする」


 刑事局長はダイスとロブを部屋から追い出した。最後にちらりと盗み見ると、デスクの引き出しを開け、中から青色のゴム製マスクを取り出していた。それをデスクの上に起き、部屋をすべて覆えるブラインド・シャッターを閉じた。


 隔絶されたオフィスでの彼のストレス発散方法に異を唱えるものはいない。いい方法だとすら賞賛する者さえいる。彼はあの中でマスクを手に取り、大きく息を吸うだろう。その後は、見えないオフィスの中から叫び声と罵詈雑言などがゴムチューブを介して回収されきれず、辺りにこぼれている事を本人意外は知っている。もしかしたら分かっているのかもしれないが、それでも彼は叫ぶだろう。最近では奥さんと別居しているせいか、頻繁にこの儀式が行われている。そうでもしないと、後は精神病院の世話になるしかないのだ。


 想定通り、刑事局長の部屋からはくぐもった叫び声が聴こえてきた。



 ***



 地下の未解決ファイル保管室に戻ったダイスとロブは、無言で私物の整理を始めた。この保管室の本来の受け持ちである新人警官が、ほっと息を吐き出す所をダイスは見逃さなかった。


「このままでいいと思うんですか?」


 ダイスはダンボール箱に私物をしまっていく。爆弾の破片で負傷した背中の傷がまだ痛む。


「僕は納得なんていきません。あれは、奴はたぶん“血染め花のマリー”ではないんですよ?」


 ロブの言うことはもっともだし、若いせいか、なんでも自分の尺度で考えているのがうかがえる。いちいちそれに合わせてやるつもりはダイスには毛頭ない。


 確かに黒いセダンに乗って逃走していた犯人、“ハンター・ブライト”は“血染め花のマリー”ではなかった。だが、車にはいくつもの血痕があった。照合したところ、『ブラッドリー公園』での事件、“木の上の恋人たち”――つまり木に引っかかっていた、ふたりの遺体とを関連付ける事は出来たのだ。つまり、あの車で公園内を走り、ふたりの歩行者を跳ね飛ばしたまま逃走していたという事だ。これは本人の証言とも証拠とも一致する。


 “ハンター・ブライト”が言うには公園のベンチで眠っている時に、若く身なりのいい男に車の鍵をプレゼントされたという。それだけでもかなり奇妙だが、彼がレーシングカーの運転手として十五年間も輝かしい人生を歩んでいたことも知っていたらしいのだ。そして彼は言ったという。


「どうだい? もう一度、このじゃじゃ馬娘の尻を引っぱたき、ハンドルで押さえ付ける感覚を味わって見ないか?」


 初めは疑いの目を向けたハンター・ブライトだったが、食料品店『N’sエヌ・ズマート』の前で小銭をせびるぐらいしか出来なくなっていた彼には、大変魅力的な申し出に思えたと言う。乗り回さなくても、金には変えられるからとも言っていた。盗難車とも知らずに。


 逮捕時、“ハンター・ブライト”はブレーキの効かなくなっていた車を止めようと何度も壁に車体を擦り付けたらしく、『カット・アンド・ハピネス』の柱に衝突した時には、ぶつけた肋骨にヒビが入っていた。奴が痛がり上着のポケットに手を入れていたのはこれのせいだったのだ。そこに武器はなかったし、反射的に蹴って押さえつけた時には、そのヒビは骨折となった。始終苦しそうだったのはそのためだった。カメラはその様子を捉えていて、蹴った時に骨が折れたと言われればそうなってしまう。暴行の証拠になる。


 車に関しては、結論から言って、何者かの手製爆弾で吹き飛んだのは車体の底面と運転席側のシートだけだった。これは爆弾の火薬の量が少なかったためだと思われている。それでも、一般市民のひとりに爆発した破片が当たった。これは良くない。大した怪我ではないし、ダイス自身の背中にも破片が突き刺さっていた。四針ほどの怪我で済んだこと、それと頬の切り傷だけ、これは幸運だ。ロブは少々の火傷だった。不運にも女性レポーターが首に破片が刺さって重症を負った。これは特に良くない。とらされる責任の大部分はここにある。


 背中の怪我を縫ってもらった後、鑑識班が爆弾でバラバラになった例の車体の残りを調べている所へと向かった。想定通り車には細工が施されていた。アクセルは一度踏んだら元には戻らないように。そして、ひとたびキーを回せばエンジンがオーバーヒートして火を噴くまで止まらないようにしてあった。底部にあった爆弾以外は“ハンター・ブライト”の証言通りとなった。


 ここからはまだ“ハンター・ブライト”の知らない闇の部分。


 車内後部にあった証拠を後に突き付けられ、彼は“血染め花のマリー”として世間へ出る。中傷の格好の的となるだろう。


 その証拠となるのは車体の後部のトランクにあった直径三センチ程の人間のものと思わしき肉片の一部。


 彼が“血染め花のマリー”として被害者全員を轢き殺し、遺体を持ち去ったということだろうか? 過去にあった最初の事件で“マリー”本人が証言したとおり被害者たちの身体が捻れていたのも、車に轢かれたと考えれば説明はつく。遺体を持ち去れば、現場には血溜まりだけが残る。


 一見筋が通っているようにも思えるが、出来すぎている。簡単なのだ。今まで証拠は血だけしか残さなかった“血染め花のマリー”が、今回は証拠だらけで捕まえてくれと言っているようなものだ。カモネギだ。まるで……かのように。


「――これで終わりなんでしょうか? 僕は……僕はもっとあなたと仕事がしたかった」


 ダイスはうつむき何も言わなかった。やがて、コップをふたつ持ってデスクに座り、上着のポケットからウイスキーで満たされたフラスクを取り出して封を開け、液体をコップに注いだ。


「ロブ、座れ。悔しいのは俺も一緒だよ。お前とは気が合いそうにないが、一緒に仕事出来たことは光栄だった。ウェイドの奴もお前が後任で良かったと思ってくれていることを願う」


 ロブは頷いてコップを受け取った。


「献杯」


 ロブがゴクリと喉を鳴らして飲み込んだ。


「ああ、うまい酒だ。どこの酒なんですか?」


 ダイスはうつむき、秘伝のレシピをどう教えずに説明するか考えた。まだレシピを教え合う関係ではない。が、もう会うこともないかもしれないとも思う。と言うのも、刑事を辞める決心がついたからだ。謹慎明けに退職届けを出せばいい。元々辞めるつもりだったが、最後の事件として“亡霊”を追えと命令がなければとっくに辞めていただろう。あの爆発から生き延びれたのは奇跡でしかない。次はウェンディを残して死ぬかもしれないのだ。


「仕方ないな、少しだけなら教えてやる。ウイスキーと、あるものを少しブレンドしてある」


「へぇ、興味深いです。ロウソク作りと通じるところがありそうだ」


 ダイスはロブとひとしきり話しをした。それはたわいもない話しばかりだったが、ダイスにとっては、久しぶりの“まとも”な会話を交わすひと時だった。その後、分署の前で別れた。


 ダイスは道路の脇に停めた車の中でグローブボックスを見つめていた。何時間も何時間も。

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