第12話 ノイズ 《sideダイス》

 クラウン・ヴィクトリアに備え付けられている無線がけたたましく鳴り響く。音が割れ、ノイズ混じりの声がする。


『逃走車両、ナンバー不明。黒のセダンが四十九号線を北上しています。警察車両が追跡中。繰り返す――』


「ロブ! 早く乗れ!」


『ブラッドリー公園』の入り口に面する通りを黒い車両が横切るのが見えた。一瞬見えたそれは、半身を失ったナンバープレート。それに、特殊なフィルムがウインドウガラスに貼ってあるのか車内はほとんど見えない。微かに人影は見えるが、それ以上は望めなかった。過ぎ去る影に舌打ちする。


「くそっ!」


 エンジンをかけ、ブレーキとクラッチをガツンと強く踏みつけて、叩きつけるようにギヤを入れた。


 同時にロブ・ハーディングがコーヒーカップを両手に持ったまま走り出す。拍子にひとつが手を離れて地面に落ちた。残ったカップ片手に、慌てて乗り込むのを見るや、アクセルを踏み込んだ。滑るタイヤが地面にくっきりと跡を残し発進する。


 凶暴な雄牛のように暴れるシートに、尻を押し付けているロブの手から、黒い液体が零れ落ちて、白いシャツに茶色い染みを残す。ロブはしかめっ面になって窓からカップを投げ捨てた。前方の車両を睨みつける。


 ダイスがハンドルの横にあるスイッチを入れると、警察車両らしく警光灯が輝き始める。ギヤを一段階跳ね上げながら言った。


「見たか?」


「ええ、あちらへ向かいました」


「それもだが、フロントバンパーだ! 破損していて血痕がついていた! ナンバープレートも半分ない! 奴が“血染め花のマリー”だ!」


 無線が再び追い立てるように言った。


『各車両応援を! 黒のセダンが北部方面へと逃走中! 付近の車両は至急——』


 ダイスが無線をとって負けじと追い立てた。


「誰でもいい! 四十九号線の北を今すぐ封鎖するんだ!」


 怒鳴るダイスが無線から手を離すと同時にハンドルを回した。クラウン・ヴィクトリアの車体が大きく傾いて消火栓を跳ね飛ばし、その場に間欠泉を作り上げる。


 その後ろから追っていた一台の警察車両が間欠泉に濡れながら後に続き、黒いワンボックスカーが数秒後に駆け抜けていく。


 黒いセダンが細い路地に入り込み、車体を擦りながらオープンカフェの屋外に設置されているパラソルごとテーブルや椅子を次々と跳ね飛ばしていく。


 異変に気づいた店員が、利用客に大声で逃げるよう促し、暴走車両がその場に突っ込んでいったのは、辛うじてオープンカフェにいた人々がその場から離れた直後のことだった。


 ダイスの愛車であるクラウン・ヴィクトリアがその後を追ってオープンカフェを通り過ぎると、溜まった鬱憤を晴らすように利用客の罵声が続いた。フロントガラスに紙コップがばしゃりと飛び散る。フロントワイパーで跳ね除ける。


 さらに後続の警察車両が走り抜けると、風圧で道路に転がり出たパラソルが、踏みしだかれていて力なく横たわっていた。



 ***



 暴走車両がつきすぎた勢いそのままに、フラフラとおぼつかなくなってくると、十字路を曲がり損ね、散髪屋『カット・アンド・ハピネス』に突っ込んでいった。


 ガラス張りの正面を突き破り店内に頭を埋めた状態で止まっているのが、粉塵の中に見える。


 店外に『改装中』と表記された貼り紙が力なく地面にずり落ちる。


 すぐにダイスのクラウン・ヴィクトリアが道路脇に停まり、逃走ルートのひとつを塞いだ。


 目を走らせる。店内は表の看板どおり改装中で、剥がされたままの壁の傍には作業台が設けられ、切断されたばかりの木板が壁に立て掛けられたままだ。作業途中に見えるが、昼時のためか誰もいない。


 滑るように店内へと走り込み、背後から折れた木板を踏みしだく音が聴こえる。ロブが拳銃を構え、後に続いているのだと気配で分かる。


 外では追いついた警察車両が大通りへと繋がる道を塞ぎ、両手を広げて野次馬を下がらせている。


 “ニュース44フォーティーフォー”のステッカーが貼られた、黒いワンボックスカーが止まると、中からカメラを担いだ大男と女性レポーターが飛び出してきて報道を開始する。


 警官が走り寄って止めるが、エサとなる特ダネにありついたハイエナのようにカメラを回し続けた。


 店内は崩壊した壁の粉塵が立ち込め、黒いセダンはコンクリート柱に頭を押し付けたまま、ぐいぐいと空転させ、すり減り続けるタイヤでゴムを煙にし続けている。ゴムの焼けた嫌な匂いが周辺に立ち込めていた。ひしゃげたフロント部ではエンジンが動いているのが不思議なくらいだ。


 なんて往生際の悪いやつだ。これ以上は逃げ道などどこにもないように思える。だが、逃げ道がないなら、死にものぐるいで反撃に転じられても不思議ではない。追い詰められたネズミがそうであるように、最後の命をかけた噛みつきが待っている。


 ダイスは緊張した面持ちでにじり寄った。


 握りしめる拳銃が、手汗で滑りはしないかと心配になる。


「投降しろ! 包囲されてるぞ!」


 ダイスが黒いセダンの運転席側に回り込み、ロブがサポートする様に反対側の助手席側へと回り込む。


 どうやらロブの野郎に後ろからケツを撃たれるかもしれないという心配は減った。


 ダイスが車のドアノブに手をかけて開けると、すぐに拳銃を構えた。中にいる男は黒い小柄な身体をふたつに折り、腹を押さえて苦しそうに呻いていた。衣服はボロボロで、まるで何日も洗っていないかのような臭いを放っている。フロントガラスにぶつけた頭から血を流し、なにかを手探りで探すようにうごめかせている。


「手を上げて外へ出るんだ! ゆっくりとだ! 変な気は起こすんじゃないぞ!」


 ダイスが拳銃を見えるように突き出しているのを見ると、呻く男は不思議と笑顔を見せて車外へ足を踏み出した。


「待て! 先に手を上げるんだ! ゆっくりとだ!」


 呻く男は、何も喋らず、何故か薄汚れた上着を何度も指さしている。暗がりのせいか次第に黒い男の顔が青ざめていくように見える。


 男が運転席からダイス目掛けて飛び出した。それを避け、銃を構える。男が上着の中に手を入れようとすると、ダイスはその背中に蹴りを入れて倒し、這いつくばらせた。更に押さえつけるように膝で背中に乗りかかった。変な音が聞こえた気がする。


「おい! 手を上げていろ! そのまま伸ばしてろ! 動くんじゃないぞ!」


 ダイスが銃を頭に突きつけたまま、男の背中を膝で押さえつけ続ける。ロブが走り寄って手錠をかけようとする。


「遅い! なにしてたんだ!」


 ロブが手錠をかけ終えて、ダイスが膝を離すと、男は苦しそうに喘ぎ始めた。


「た……た……す……」


 ボソボソと妙な訛りで喘ぐ男に、ロブが暗記している被疑者の権利を言い聞かせ始めると、ダイスは男が乗っていた暴走車両へと走って向かった。運転手である男はもうそこにはいないし、他に乗車している人物はいなかった。だが、車はタイヤから噴煙をあげ続けている。


 ダイスは警戒しながら開いたままの運転席に回り込み、銃を構えて一瞬だけ覗き込む。


 そこにはやはり誰もいない。あり得ないことだが、まさかと思い、運転席に手を伸ばし何もない空間を撫でた。

透明人間なんてものがいるわけない、こんなマヌケな素振りを誰も見てなければいいと願った。


 ダイスが胸を撫で下ろし、ブレーキを踏んで車のキーを回そうとするが、何かでロックされたかのように動かない。それにブレーキはなんの抵抗もなくスカスカと動くだけだ。踏み込まれ、エンジンを唸らせ続けているアクセルペダルを引っ張りあげようとするが、元には戻らない。


 次第に車体が、なにか見えないものに押されているかのように横滑りを始めた。


 車が柱から外れれば、ひとりでに走って逃げだしそうだぞとダイスは思った。そうなればこの先にある家屋を突き破り、被害は広がるだけだろう。


 ダイスはドアの外側からハンドルをぐっと固定するように押さえ、拳銃をアクセルペダルへと向ける。


 跳弾の心配もあったが背に腹はかえられない。


 ダイスは息を吸い、拳銃の引き金を引いた。弾丸をこれでもかと浴びせる。


 何度目かの炸裂音の後に、拳銃の引き金がカチカチと残弾ゼロを知らせた。耳は閉鎖空間での残響音からキーンと唸っている。それでも未だにエンジンは唸りを上げていて、今にも再び暴れ出しそうだ。


 ダイスは脚を伸ばし、銃痕だらけのアクセルペダルを蹴りつけた。


 何度目かの蹴りでガチリと金属音が聞こえ、穴だらけのアクセルペダルは身体を揺り起こした。


 猛り狂っていたエンジンはゆっくりと鎮まり、やがて通常のアイドリングを続ける。


 ダイスが止めていた息を吐き出し、キーを回す。やはりキーは回らなかった。アクセルペダル同様、なにか引っかかっているのだろうかと疑う。ガソリンの残量を示す針がメーターのかなり下、なにもないところを指し示している。もうすぐガソリンが尽きる。


 正面に回ったダイスの懐中電灯が、黒いセダンを照らしだす。柱にぶつかり、ひしゃげたまま押し付けられていたフロント部分の両脇にそれはあった。まるでそこにトマトをふたつ投げつけたような跡がクッキリと残り、不自然にベッコリとへこんでいる。“大当たり”だ。“木の上の恋人たち”と呼んでいる被害者たちの犯人はこいつで間違いないだろう。この車があの無惨な恋人たちを轢いた。その時に木の上に引っかかってしまったのだと、不意に理解した。一連の事件もこいつがやったという証拠さえあれば、この“亡霊”野郎を一生刑務所にぶち込んでおける。大手柄を胸に、晴れて警察も辞められるのだ。


 ロブが運転手の腕を握りしめてボディチェックをしている。上着のポケットを探る手を止め、何も持っていないと首を振ってみせる。


 ロブの眼前で、男は目を大きく見開き、犬のように舌をだし、ゼェゼェと喘ぎ続けている。


 ダイスはその様子を見て薬物の摂取を疑った。


「連れて行け。薬物検査も頼む。それと…‥尋問は俺が直接する」


 警官に両脇を抱えられた男は、脚を引きずられるように連れていかれた。


 見物人から離れた場所で、報道を続けていた女性レポーターと屈強な肉体のカメラマンは、警官が抱える男の方へと向かっていった。撮影を止めるように言う警官を押し退け、かわし、その様子を撮影している。


 男はカメラのレンズに気がつくと、引き攣った笑みを浮かべた。


 男は引っ立てられながら、カメラに向かって何事か言い訳を述べていた。


 見送るダイスの元に、ロブが緊張した面持ちでやってくる。アイドリングを続ける車を見下ろしながら言った。


「いったいどうなってるんです? これは」


「……なにかの仕掛けだろうな。キーが回らない。だが、なんのためだ?」


 やがてエンジンが疲れたかのようにその鼓動を止める。尽きかけていたガソリンがなくなったのだと分かる。


 ロブは眉を寄せ、不思議そうな顔で耳を車体に寄せる。


「……なにか、聴こえませんか?」


「銃声のせいで耳がイカれた。よく聞こえない。もう一度言ってくれ」


 ロブが手のひらを向けて静かに待ってと合図している。


 ロブは耳を傾け、音の元を探るように頭を上下させていく。やがて、顔をビクンと跳ね上げた。


 ダイスがロブの指差す先をしゃがんで覗き込んだ。


 見た先で、運転席の真下にくっついているものが、赤い小さな光を灯している。耳鳴りが治まってきていて、戻ってきた聴力が異音を捉える。まるで時計の針が音を刻むような音。


 ダイスは目を見開き、叫んだ。


「逃げ――」


 ダイスは間抜けな顔で凍りついているロブの背中を引っ張り上げて走った。


 その場から離れた直後、それは起こった。黒いセダンは下から押し上げられる衝撃で、車体がひしゃげる音と一気にかき乱れる空気とが合わさって、悲鳴のような音をあげた。そのすぐ後に爆風が過ぎ去り爆発音が鳴り響いた。

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