第五章『純愛の逃飛行』①

 このあたりにしよう。

 きっと、ここなら大丈夫。

 真冬の夜に満ちる冷気に、肺まで凍りつきそうだ。


 街の喧騒から遠ざかる並木道を、歩いて二十分。

 街外れの山岳に辿り着いた頃には、手足の筋肉は冷たく軋んでいた。

 それでも、今の自分には為すべきことがある。


 を叶えるためならば――今まで噛み締めてきた屈辱と苦痛を比べれば、凍てつく寒さも雪闇の孤独も、些細なことだ。


 、このあたりにしよう。

 暫くは、誰にも見つからない。

 が、今は未だその瞬間ではない。

 今のうちに、捨ててしまおう。


 山岳を少し登った道中にある、緑に隠れた小川の下り坂の前で、足を止めた。

 昼の命が眠る冬闇を舞う雪の音色に混じって、川のせせらぎは聞こえる。

 自分の背中を覆える登山鞄リュックサックを凍った地面に下ろし、手袋をはめた指で、何とかチャックを引っ張る。

 開いた鞄の中へ両手を差し込み、目的のものを掴むと、強引に引っ張り出した。


 となる『コレ』も、やはり重くて冷たい。


 しかし重要なのは、コレの中身ではない。

 鞄から出した荷物を両手で抱え上げてから、目前の凍った小川へ、思い切り・・・・・・投げ捨てた。

 小川の薄氷はガラスの破片のように砕け散り、けたましい水飛沫は瞬く間に凍りつく。

 雪風の音色と冬のせせらぎに遮られた水音は、誰の耳にも届かない。

 投げ捨てた最後の荷物が、冬水の底へ深く沈んでいくのを見届けた後は、直ぐに踵を返した。


 これで最後だ。

 ようやく終わった。

 後は時間を待つだけ。

 さすれば一つの願いは叶う。


 やっと、全員、――。


 『アンドリューって名前なの? かっこいいね』


 初めて逢った時、彼女は屈託のない微笑みで答えた。

 最初は、嫌味かお世辞ではないかと身構えた僕の心を、彼女はあっさり解した。


 『オーストラリアに留学した時に、同じアンドリューって友達に教えてもらったの。アンドリューは英語圏の名前で「」って意味があるんだよ』


 彼女だけだった。

 僕の名前を嗤わなかったのも。僕の体型を馬鹿にしなかったのも。

 彼女は、僕を蔑んだ眼で見ない唯一の他人だった。

 昔から人に揶揄われ、大嫌いだった僕の名前に意味、を与えてくれた。


 とはいえ結局、今までの僕は彼女が教えてくれた通りの勇敢な人間には、直ぐに生まれ変われなかった。

 かつて臆病だった僕には、彼女と友達になる甲斐性もなかった。

 ましてや、田辺達に嬲られている彼女を前に、呆然と立ち尽くすしかなかった。

 少なくとも、あの瞬間は、彼女に救われたというのに。

 もう、今更遅いかもしれない。

 それでも、今度は僕が彼女を救う――今度こそ。

 優しさに甘えて、帰ったらひとまず先に”祝酒”を飲もう――。


 『』の決行前、一度一緒に味わった冷たくて芳醇な余韻、甘美な陶酔の記憶に舌鼓を打った。


 *


 「ねぇ・・・・・・晴斗は本気なの・・・・・・?」

 「本気だよ。まさか、冗談であんなこと言えると思ったの?」

 「思わないけど・・・・・・ただ、まだ信じられなくて」


 十二月二十二日・日本時間:午後六時頃。

 互いにとって懐かしく、二人きりでは初めて味わう浮遊感、壁越しの風圧に当てられる中、美天は固い口を開いた。

 不安気な美天とは対照的に、晴斗は底抜けに明るい態度で応じた。

 余程機嫌は良いのか、クスクスと柔らかな笑みすら零している。


 「言っただろう? 僕は自分の気持ちだけは、偽りたくないって。たとえ、時に嘘をつかないといけないことがあっても。それとも、美天は未だ僕の気持ちを信じられない?」

 「いいえ、そうじゃなくて・・・・・・ただ、夢みたいな話で・・・・・・っ」


 見捨てられた子どものようにあどけなく見つめられると、美天は胸を切なく締め付けられた。

 晴斗のことは信じている。

 今までだって、晴斗の言葉想いを疑ったことは、一度もない。

 ただ、幸せすぎて怖くなるのだ。

 未だ自信を持てない美天の、心の課題なのだ。

 心にこびりついた過去の恐怖というシミを拭き取るまでには、もう少し時間が必要らしい。


 「美天・・・・・・一緒に窓の外を覗いてみて」


 沈鬱に俯く美天の手に自分の手を重ねた晴斗は、肩口で優しく囁く。

 晴斗に促された美天は、小さな窓へ顔を向けた。


 「ほら・・・・・・夢じゃないだろう?」

 「・・・・・・うん」


 互いの双眸に映り込む果てなき雲空・・・・・・薄紫の夜色に染まった天空世界に、美天の瞳は希望に煌き出す。


 『このまま二人で

 『え・・・・・・?』


 遡ること、約束の二十二日の三時間前――。

 いざ空港の待ち合わせ場所に着いた途端、怖気付いてしまった美天は、一度晴斗に別れを告げた。

 「何も言わなくていい」、と晴斗に優しく抱きしめてもらった夜から今日まで、やはり美天には迷いと不安が残っていた。

 散々葛藤した結果、やはり不安定な気持ちのまま旅行を楽しみ、晴斗の優しさに甘えるのは、心苦しくて耐えられないと思った。

 それに、晴斗に受け入れられたとしても、美天が田辺に脅迫されている問題は、何も解決していないのだ。


 結局あれ以降、田辺からの連絡は来ていない。


 今頃は、美天の存在を忘れるくらい、友達とのハワイ旅行を満喫しているのだろう。

 それでも、田辺から脅しと次の約束の連絡がいつ来てもおかしくない状況下で、落ち着けるはずはない。

 もしも、美天の旅行の件を知らない田辺が気まぐれに寄越した連絡を受信できなかった場合、彼は如何なる手段に出るのか怖くてたまらない。

 一方、美天の抱える複雑な問題を詳しくは未だ知らない晴斗は、大胆な提案を実行に移した。


 『大丈夫。ドイツに父さんと母さんの友達がいることは、前にも話したよね? 今度旅行でドイツに行くって言ったら、是非好きなだけ遊びに来て泊まってくれって』

 『え? いや、そういうことじゃなくて。えっと、でも』

 『今後どうするかは、それから考えればいい』


 予想外の展開に困惑する美天の手を取った晴斗は、そのままチェックインカウンターへ駆けつけ・・・・・・二人でドイツ行きの飛行機に揺らされている、今に至る。


 「晴斗・・・・・・何だかんだ流されて乗っちゃったけど・・・・・・私、宿泊道具も用意できてないよ?」


 別れを告げて、一人だけ帰るつもりだったからだ。


 「大丈夫だよ。ホテルにはアメニティも寝巻きも揃っているし、足りないものは、現地の市場で買えるから」

 「私、あまり持ち合わせていないよ?」


 旅行を断るつもりだったし、持ち金を少しでも脅迫データとの交換費用に立て替える必要があったから。


 「安心して。今回は僕のおごりだから」

 「そんな・・・・・・! 晴斗に申し訳ないよ」

 「大丈夫。この旅行のためだけに僕がいくら貯めたのか、絶対驚くよ。両親からも、が出たし」

 「で、でも・・・・・・やっぱり悪いよ」


 最近、晴斗がお手伝いという名目で父親の友達の診療所を掛け持ちしていたのは、少しでも旅行資金を稼ぐためだったことも、薄々察していた。

 それでも美天は、晴斗がここまで尽くしてくれることに、申し訳なさと罪悪感の方が優ってしまう。

 晴斗は許してくれだとはいえ、自分には他にも隠していることがある上に、彼へ未だ何も返せていないのだ。


 「それとも、美天は僕との旅行、楽しみじゃなかった?」

 「そんなことない! むしろ・・・・・・! ただ私、晴斗にもらってばかりで、何もちっとも返しきれていないのに」


 晴斗の心配を即否定する美天。

 楽しみじゃなかったわけない。

 むしろ田辺との問題で旅行の断り、そして晴斗との離別を想像するだけでも、どれほど胸を引き裂かれたか。


 「なら、こうしようよ」


 美天の真剣な返事に、晴斗は無邪気な瞳で覗き込みながら語りかける。

 愛しい幼子の小さくかけがえのない願いを叶えてやる親のように、優しい口調で。


 「これから美天は、僕と一緒にドイツのクリスマスを心ゆくまで楽しんで、たくさん笑うんだ・・・・・・和国のことは一切忘れて」

 「忘れる・・・・・・?」

 「そう。ただ、目の前の僕とドイツの地のことで、胸をいっぱいにするんだ。それが、唯一美天が僕に返せるもの」


 神の祝福と人々の喜びに煌めくクリスマスのドイツ、雪化粧された美しい街並みを、晴斗と伴に歩き渡る。

 忌まわしき過去も嫌な記憶も、自分を苦しめる存在のことも、何もかも和国に置いて――まさに、夢の楽園さながら甘美な想像に魅了されるも束の間。


 「そ、そんなことでいいの?」

 

 美天は拍子抜けした表情で、問わずにはいられない。

 晴斗の提案では、ただ美天自身が楽しむだけではないか、と。

 すると晴斗は「分かってないなあ」、と言いたげに少々呆れた眼差しを優しさに緩めながら答えた。


 「そんなことじゃないよ。美天じゃないと、だめだ。どれほど楽しくて美しい場所を巡っても、隣に君がいないと意味がない」


 ああ、どうしてあなたは、そんなにも・・・・・・。


「世間も噂も関係ない。僕には、。世間体や憶測だけで態度を変える人間なんか、いらないよ」


 飛行機の窓を共に眺めながら耳許で囁かれる。

 どうして、あなたはいつも・・・・・・。


 「僕には、美天さえいればいい」


 最も望む言葉ばかりくれるのか。

 そんなにも自分を・・・・・・あなた無しでは生きていけない駄目人間にしたいのか。


 「ありがとう・・・・・・晴斗。私・・・・・・私」


 本当は、自分も晴斗と同じ気持ちを伝えたかった。

 けれど、想いを返したくても、言葉が胸に詰まってしまう。

 ただ感謝を述べるのが精一杯な自分に、虚しさに襲われそうになるが、晴斗は繋がれたままの手に優しく力を込めた。

 晴斗の微笑みは、美天だけを見つめていた。

 「君の想いは理解っている」、と見透かすような優しい眼差しで。

 二人の瞳は外の雲景色ではなく、窓越しに見える互いのみを見つめていた。


 *


 午後十一時五十分頃。

 若者向けの良さげなマンション・グロリオサから、山方面を歩いてわずか数分。

 グロリオサとは対極の、築三十年激安を売りにした古いボロアパートに、一人寂しく帰る。

 古いガス式の水道や焜炉こんろ、カビや錆汚れのこびりついた薄気味悪い台所と浴室、前の住民が置いていった壊れたブラウン管テレビ。

 かの有名な某恐怖映画に登場する幽霊屋敷と似た、旧時代の部屋に住み慣れる日は来ないだろう。

 都会に住みながらも貧しく惨めな生活を強いられてきたのは、のせいだ。


 しかし、これでようやく、あの男に支配されるだけの無価値な人生から解放されるのだ・・・・・・自分もも。


 現代の電気製品店に並ぶことはない、旧時代のガスストーブの火を灯す。

 部屋が暖まるのを待つ間に、これまた旧時代の年季が入った小さな冷蔵庫から、開封済みの酒瓶を取り出した。

 旧時代ボロアパートの居間に不相応な上物のワインを、透明なグラスへ注ぐ。

 百合島名物の高級な百合ワイン、「白百合」だ。

 今までの自分には無縁だった高級洋酒は、のお気に入りの銘柄らしい。

 『計画』完遂の前祝いに、二人で一杯ずつ嗜んだ。

 余った分はお礼に全てくれる、と瓶ごと譲ってくれた。

 今ここにはいない相棒兼同志を想いながら、先に一人祝いをする。


 「『偽りの人生』に。『新たな人生』に乾杯――」


 前祝いに相棒が唱えていた台詞を一人零すと、百合ワインを一気にあおった。

 白百合の上品な香りが溶けた芳醇な苦味は、喉と鼻腔を熱く満たしていった。


 *


 「すっごく綺麗だったねぇ、晴斗っ。まるで、夢の世界に来たみたい」

 「ああ。僕も夢のように楽しかったよ。まだ初日なのに・・・・・・君と一緒だからかな」


 ドイツの街中にある観光客向けホテルの部屋で、美天は夢心地な表情で余韻に浸る。

 久しく見ていなかった美天の明るい笑顔に、晴斗も満足そうに微笑む。

 ドイツ時間の夜・六時頃に到着した二人は、空港からホテル行きのバスに乗った。

 今回の旅行ツアーは、基本的に自由行動であり、ツアーガイドは空港や宿泊所、観光地等への送迎に限定されている。

 空港で乗ったツアーバスは、ホテルへ向かう道中にある街夜の観光地へ寄り道させてくれる、ありがたい観光プランを提供してくれた。


 冬のドイツの風物詩――クリスマスマーケットの夜を訪れた二人は、夢心地だった。

 冬夜の世界を温める光り輝くクリスマス・イルミネーションに、慣れないドイツの寒気すら忘れて息を呑んだ。

 幻想的で愛らしいオーナメントで飾られた、天高きモミの木の大きさに、驚嘆した。

 クリスマスツリーを囲うように並ぶ屋台を、一つずつじっくり巡った。

 彩りに輝く愛らしい天使やサンタ、動物などの合成樹脂プラスチックや木彫りのクリスマスオーナメント、精巧に作られたキリスト生誕ディスプレイ・クリッペは、記念に二人で気に入ったものを一つずつ買ってもらった。

 一通り巡った頃には、手足の冷たさと空腹を思い出した。

 フルーツとシナモンの甘く芳醇な温葡萄酒グリューワインで、体は温まった。


 香草ハーブ香辛料スパイスがきいたヴルストウィンナーや、サクほくの香ばしいポメスポテトでお腹を満たした。

 ワインを飲んだマグカップは、記念に集めることにした。

 お土産には、ハチミツとシナモン、オレンジピールが詰まった甘くスパイシーなレープクーヘンハートケーキ、ナッツやドライフルーツ、洋酒の芳しい甘いクリスマスケーキシュトレンも買った。


 「でも大丈夫? 疲れたなら、もう休もうか。お風呂も沸かしといたから」

 「そうだね・・・・・・ありがとう」


 美しく濃密な観光をたった二時間で満喫し、到着したホテルのチェックインを済ませた。

 しかし、美天は疲れで眠気が湧くどころか、むしろ興奮で寝付けない。

 微笑む晴斗からも、疲労や眠気の気配は未だ見られない。

 普段にないほど二人の心を浮き立たせているものは、ドイツのクリスマスの魔法だけではない。


 「・・・・・・ねぇ、晴斗・・・・・・もう眠った・・・・・・?」

 「いいや、まだだよ・・・・・・美天も、眠れないのかい・・・・・・?」


 互いが軽く風呂と着替えを済ませて、直ぐに寝台に入ってから一時間。

 やはり目が冴えてしまっているせいか、二人共に未だ意識はあった。

 布団を頭まで被った美天が緊張しているのに、晴斗は直ぐに分かった。

 同じ部屋で二人きりの寝泊りは、初めてなのだ。

 しかし、美天の声がまたいつになく儚げに聞こえる理由は、もう一つある。


 「ねぇ、晴斗・・・・・・飛行機で交わしたあの約束は・・・・・・眠っている間も有効、なのかな」

 「どうだろうね・・・・・・睡眠と夢は、無意識の領域に当たると言われているから・・・・・・」

 「じゃあ・・・・・・今から言うことは全て、


 夢に浮かされているように呟く美天の言葉へ、晴斗は静かに耳を傾けた。

 笑顔の下に抱いてきた、美天にとって恐ろしくも切実な願いに、晴斗は気付いていた。


 「私ね・・・・・・大学時代に・・・・・・同じサークルの人達に


 美天は過去の事実を、ありのまま打ち明け始めた。

 同級生の田辺を振ったことを理由に本人、彼と仲の良い友人や先輩の怒りを買ったこと。

 夏季試験の最終日の夜、嘘の打ち上げ会のメールでサークル室へ呼び出され、準備室で体の自由を奪われたこと。

 後は・・・・・・男どもの邪欲を掃き溜める人形のようにひたすら犯され、いかに嬲られたか。


 他人事のように淡々とした響きから、美天が心を一時的に凍らせていることは、晴斗にも伝わってきた。

 晴斗は、透明な眼差しを美天から逸らさないまま黙っていた。

 晴斗が何も答えなくても、美天の唇は止まらない。

 晴斗の沈黙は優しく、話に耳を傾けてくれていたのが、不思議と仄闇越しにも感じられた。


 「最初は怖くて嫌で混乱していて・・・・・・一生懸命抵抗したけど、ダメだったなあ。力じゃ敵わないし、カッターまで向けられたらね。服と一緒に皮膚も軽く切られた」


 

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