800字程度のチャレンジ

七辻雨鷹

『こころ』の思い出


 「先生」は自分のしたことの責任として死ぬ勇気があって素晴らしいと思いました。


 高校二年の夏休みの課題は夏目漱石の『こころ』を読んで感想を書くこと。九月に返却されたプリントには一箇所だけ赤が入っていた。


 死ぬ勇気より生きる勇気が欲しいですね。


 身体の真ん中に大きな楔を打ち込まれたようで、誰にも表情を見られないように俯いたまま席についた。心臓が体全部を支配しているかのように自分の鼓動が聞こえた。


 それから二週間ほど、居心地の悪さなんてなかったようにあまりに呆気なく『こころ』の授業は進んでいった。あの書き込みは気のせいだったのかもしれない、先生も特に深く考えずに書いたのかもしれないと思い始めた最後の授業、残り三十分で先生は重そうに口を開いた。


 昔、教え子が自殺してしまったことがあった。その生徒は『こころ』の感想でKや先生の死ぬ選択を偉いと書いていた。もしかしたら、自分の授業のせいで死んでしまったのかもしれない。だから、君たちには生きろ、と伝えたい。(語り手と重なってくるので、慎重に先生自身に語らせたい)


 漢詩を吟じたり、独り芝居を打ったり、笑ってばかりの先生の声がいつもと違って聞こえた。先生はすぐにいつものようにおどけて見せたが、私は授業が終わってしばらく誰とも口を利かなかった。当時の私の家庭環境はあまりに劣悪で、毎日毎日死にたくてたまらなかった。しかし、先生にそれがわかってしまううちは、高校に在籍しているうちは止そうと堅く決心したのだった。(大事なところで力強いが、もっと丁寧に書いてもよい)


 それなのに先生は死んでしまった。バスを途中に降りるみたいに、居なくなってしまった。


 自由登校になった三年の一月の末、同級生から訃報を聞いた。あの言葉が忘れられなくて、私はお通夜に駆けつけた。そこで、先生が長く大腸ガンと戦っていたこと、二学期一杯で教壇を離れていたことを知った。


 あのプリントに赤を入れたとき、先生はガンと戦っていた。


 「あなたが死にたい今日は生きたい人が生きられなかった明日」なんて言葉は嫌いだ。それでも時々私は先生のことを思い出す。もう何年も経って、先生はきっと夢枕に立ってくれることはないだろうが、私はまだ生きていると伝えたい。私は先生に託された明日を生きている。



テーマ「忘れられない言葉」

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800字程度のチャレンジ 七辻雨鷹 @u-nanatsuji

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