あれから彼には会っていない

草森ゆき

あれから彼には会っていない

『金賞:瀬戸口奏せとぐちかなで、銀賞:遠山浩孝とおやまひろたか


 何度も聞いた名前の並びに、飽きを通り越して憎しみも通り越して、諦めた笑い声しか出なくなった。母親には「浩孝が真面目に練習しないから」と詰られ、先生には「遠山くんは秀才だけど、でも、瀬戸口くんはね……」と口を閉ざされた。

 それが五年は続いた。高校在学中に芽が出なければ諦めると一応申し出たが、本当に一応だった。すっかり心が折れかかっていた。

 万年銀賞の理由は簡単だった。無難に教科書通り弾きこなせる俺は「秀才」で、調律された音の上に他の何かを乗せられる瀬戸口奏は「天才」で、その差は誰かに言われるまでもなく歴然だった。

 けれど高校在学中、俺は金賞を獲得した。

 理由は簡単だ。ある日突然、瀬戸口奏が姿を消していたのだ。


 繰り上がり当選のような金賞に意味なんてなかった。はっきりと感じたのは屈辱で、俺は金賞を喜ぶ母親に向かってピアノはやめると宣言した。怒り狂う様子を見ても何も感じず、猛反対を押し切り練習のすべてを放棄した。

 鍵盤に向かわなくなってから時間の経過は早かったが、心が安らぐこともなかった。俺の前を走り続けていた男を毎日毎日思い出した。遠山浩孝にとっての瀬戸口奏は、恐ろしく重い位置にいた。

 そして一度も会っていない。

 だから大学の夏休み中、偶然あいつに出会って、本当に驚いた。


「あれ……久しぶりだね、何してるの?」

 穏やかな調子で声をかけてきた瀬戸口奏は、ショッピングモール内にあるアイスクリーム屋にいた。驚きのあまり声が出ず、数秒無言で見つめあってしまった。

 瀬戸口は俺に向けて微笑んだ。鮮やかな色のアイスを片手に笑う姿は、天使の笑い声のようだと評されていたこいつのピアノを思い出させた。

「何してるって……ここにいるんだから、アイス買いにきたに決まってんだろ」

 やっと出た声は固かった。瀬戸口は同意のように頷いて、手に持ったアイスを一口舐めた。

「そりゃそうだよね、最近ほんと暑いし」

「ああ、まあ」

「あ、イスあるじゃんラッキー」

 瀬戸口はくるりと背を向け、店内の飲食ブースへと歩いて行く。急に遠ざかって慌てた。手早く注文を通してチョコミントを片手に追い掛けると、瀬戸口はどうぞと言って対面を指差した。

「まだピアノやってるの?」

 とても自然で、涼やかな問いかけだった。

「やってない、っつうか、瀬戸口ももうやってないだろ」

「あはは、まあね」

「なんでやめたんだ」

 聞いて後悔した。瀬戸口がキョトンとした後に、

「飽きちゃったしねえ」

 と羽よりも軽く言い出したからだった。


 小学校中学校の子供時代、俺の大体はピアノだった。朝にも練習夕方にも練習土日も練習と明け暮れた。はじめはシンプルだった。ピアノの音が好きだった。綺麗で、どこまでも澄んでいて、天国の音楽だと本気で思った。

 尊敬とでも言えるようなピアノへの感情が、執着とでも呼べるような瀬戸口への対抗心に変わったのは、中学校に上がってからだ。

 瀬戸口の弾く調べは本当に美しかった。真似が出来ない領域で、才能という言葉を強く意識した。俺の不幸は瀬戸口と同年代だったことだろう。そう考えて自分を慰めた日もあったが結局無意味で、何度もぶつかっては砕け散り、急に壁がなくなって、行き場のない虚しさだけが、常にまとわりついていた。

 ピアノが好きだったのか瀬戸口が憎かったのか、俺にはもうよくわからなかった。


 向かい合わせに座り、ぽつぽつと会話をした。瀬戸口は舌の上で弾けるアイスを食べているらしく、パチパチして面白い、と口の端を舐めながら感想を漏らした。

 店はそれなりに混雑している。特別暑い日だから、余計だろう。俺だって暑さにばてて、見かけたアイスクリーム屋の店舗に滑り込んだ一人だ。瀬戸口だって、きっとそうだろう。

 目の前に視線を戻す。弾けるアイスを食べ終わった瀬戸口は、美味しかったー、と誰に聞かせるでもなく声に出してから、俺と目を合わせてきた。

「でも本当に久しぶりだねえ。オレ、君のピアノけっこう好きだったよ。なんていうか、しっかりしてた。つまんなそうに弾いてたり、オレを見るなりやる気なくしてたりするやつばっかだったけど、そうじゃなかったし。君がいなかったらもっと早くやめてたな、いてもやめちゃったけどね」

 あはは、と軽く笑う瀬戸口は無邪気だった。俺は急に背筋が粟立って、ああこれ怒りか、と気がつく前に口が勝手に開いていた。

「瀬戸口、俺だって多分お前がいなかったらもっと早くやめてた、なんて言えたら良かったけどそうじゃなかった。お前はずっと俺の前にいて、居続けたまま何もなかったみたいにいなくなった。どれだけつまらなくなったか、きっとお前みたいな天才にはわからないんだろうな。瀬戸口奏の名前がなくなった一覧になんの意味があるっていうんだ? たった一回だけ獲れた金賞なんて、お情けとか便宜上とか努力賞よりもっとゴミだよ。でもだから、結局俺はピアノ自体に興味がなくなっちまってて、ダメになったんだろうけど。目標だったやつにそんな軽いこと言われると、ムカつく」

 言い切ってから、溶けてふやけたコーンを齧った。噛みすぎたガムみたいで、不味かった。

 瀬戸口は数分黙っていたが、俺が食べ切ると同時に席を立った。怒らせたかと思ったが、違った。穏やかに笑いながら、行こうかと言った瀬戸口の後ろを、引っ張られるようについて歩いた。


 家電量販店前には試演できる電子ピアノがある。瀬戸口はまっすぐそれに向かっていって、俺に待つよう指示を飛ばし、鍵盤の前に立った。俺は瀬戸口の後ろ姿を戸惑いながら見つめた。心臓が、扉を叩くようにどんどん鳴った。コンクールの演奏前よりも緊張していて、つい飲み込んだ唾は苦かった。

 鍵盤に、ふわりと指が落とされた。曲は誰でも知っているクラシックで、難易度もそう高くない、なんなら練習用の楽曲だった。どんな人間が押しても同じ音が出るはずのピアノは、瀬戸口が撫でるとやっぱり違った。天使の笑い声のようだ。そう話した審査員のうっとりとした顔を思い出す。俺も似たような顔を晒しているかもしれない。

 いつの間にか聴衆が増えていた。動画を撮っている客もいる。演奏する背中は凛と伸びていた。その姿すら様になっていて、俺は息も忘れて夢中で聴いた。美しかった。目の前には俺の追った天才が、前と変わらず立っていた。

 弾き終わると同時に拍手が起こり、瀬戸口は照れ臭そうに笑って頭を何度か下げた。それから俺を見た。軽い足取りで近付いてきて、じゃあね、と微笑みながら言った。

 立ち去ろうとする背中を、反射で引き留めた。お前今は何をしてるんだ、ピアノは二度とやらないのか、どうして今弾いてくれたんだ……また弾いてくれないか、いつでもいいから、もう一度会ってくれないか。

 すべて口に出せずにいる俺を黙って見つめていた瀬戸口は、ふと思いついた顔をして、スマートフォンを取り出した。

「そういや、連絡先も知らないんだったね。メッセージアプリの起動がめんどくさいから、電話番号だけ教えてよ」

「え、ああ、」

 露骨に狼狽えながらスマホを取り出し、番号を告げた。瀬戸口の番号も手に入れて、瀬戸口奏、と名前を入力してから顔を上げた。

 瀬戸口は笑っていた。そして朗らかに言った。


「ごめん、君の名前なんだっけ?」


 気付くと瀬戸口はもういなくなっていて、俺は人が行き交う通路の真ん中に立ち尽くしていた。

 あれから彼には、会っていない。

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