第53話 なんだか違う世界に来たみたいだな

 屋根も、手すりすらもない。真っ平らな、半円状のテラス。それが真っ赤に染まっていた。血の色みたいだな、と俺は思った。


 見ると、切り立った崖には、驚いたことに人が鈴なりになっている。多くは獣人だが、中には帝国人の姿も見えた。


「驚いたな……」


 どうやって辿り着いたものか。いやはや大したものだ。はるか下からは二つの急流がぶつかり合う音が響いている。彼らは怖くはないのだろうか。更によく見ると、獣人が帝国人を支えている光景まで見える。


 背後にある二連祭壇画の扉が、乱暴に開かれる音で我に返った。


 振り向くと、逆賊仮面がいた。


「もう逃げ場はないぞ!」


 逆賊仮面が剣の切っ先をこちらに向け、見得を切った。夕日に照らされたその仮面から、彼女の目が見えた。


「やはり、いい目をしているな。ターク族特有の綺麗な緑色だ」


「……!」


「結局、こういう形でしか出会えなかったわけか……。しかし、再び相見えることができて、余は嬉しいぞ」


 その子は、剣先を逸らせたかと思うと、おもむろに仮面を外した。


「……良い顔をしている。覚悟のある顔だ」


「……御覚悟」


 そうだった。覚悟をするのは私の方だった。少し笑ってしまった。ちょっと気恥ずかしかった。


 仮面を外した逆賊は、再び剣先をこちらに向け、突っ込んできた。


 しかし剣は私の体ではなく、脇をすり抜け、寝間着を裂いた。


 後ろに倒れる瞬間、みんなの顔が見えたような気がした。勝利の喜びに満ちている。帝国人と獣人、双方の憎悪の対象となった悪王は今、滅びる。後はこのターク族の子が、何とかしてくれるだろう。


「礼を言うぞ」


 体が、露台を越え、飛沫の中へと落下していく。


「うおおおおお!」


 騎士は剣を突き刺したそのままの勢いで、私の体を抱くように突っ込んできた。


「おぬし……!」


「獣人は、親離れしなくちゃいけないんでね」


 川の交差が近づき、一際大きく、風が吠えた。



   ◇   ◇   ◇



 目が覚めた時に水に浸かってた、なんて経験はあるだろうか? 俺はある。


 二度あることは三度あるというが、残念ながらその三度目が起きてしまった。本当にたまらん。それはそれはもう、本当に、本当に焦る。しかも俺は泳げない(俺が泳げないことは内緒にしといてください)。


 泳げない人間が、意識を回復したら水の中でした、というだけでも焦るのには充分なのに、その上、幼馴染の女子が目の前にいて、しかもどうやら彼女に意識がないことがわかったら、それはもうブッたまげる以外の選択肢があろうか。


「ひー、ゴポッ、ひー、ゴポッ、」


 我ながらひたすら情けないだけの悲鳴を上げつつ、盛大にブッたまげた。ブッたまげつつも何とかしなくてはならないと思った俺を誉めてください。


 優紀を抱き寄せ、何とかで泳ごうとしたら(よく考えれば無茶である)、膝が地面に着いた。幸いにしてその水は浅かったようである。


 意識のない優紀を何とか抱え上げつつ(重かった。ゴリ子と言えど、曲がりなりにもレイディなので、このことは内緒だ)、ここが海か湖か池か川かプールかドブか、よくわからないので、先ずは立ち上がった。


 そこは川であった。幸いにして岸の方だった。俺は何とか岸まで歩き、そこで優紀を下ろし、大の字に横たわった。疲れが、それこそ波のように押し寄せてきた。


 荒く息をしながらも、優紀がいるってことは多分元の世界に帰って来られたんだろう。そう判断でき、一つ安心している妙に冷静な自分がいた。さすがである。


 すると、その優紀が横で「ウーン」という声を上げた。意識を取り戻したか、と見ると、目が合った。「大丈夫か?」と声をかけたいのは山々だったが、息が上がって声を出せない。


「お前か……?」


 優紀の方が先に声を出した。そして、俺の顔をまじまじと見た。


「そういやお前、そんな顔だったな」


 優紀はそう言って、笑った。


 なんと失礼な! 「そんな」顔で悪かったな。昔から「こんな」顔だよ! 俺は(多分)お前を助けてやったんだぞ! 命の恩人に向かって、なんと無礼千万な。幼馴染とはいえ、親しき仲にももうちょっと礼儀有ってもいいだろう。


 すると、優紀は肘で自分の体を支え、倒れた俺に覆いかぶさり、ちょっと俺の目を見つめた後(正直言おう。トキメいた)、俺を抱きしめ、頬ずりをした。


「え……!」


 水に濡れて、体は冷えていたのに、全身に一気に血が巡っていくのが自分でもよくわかった。


 そしてまた、優紀は仰向けに倒れて、寝てしまった。


 な、な、な、なんなんだ、なんなんだ一体!


 あまりのことに頭の中が真っ白になり(少し白髪も生えたかもしれない)、俺の思考は停止した。


 しかしそこは冷静沈着で鳴らす俺だ。すぐに我に返り、そして気付いた。


 レティエヌか?


 まだあっちの世界の記憶があるのかもしれない。


「おい……、おい……! レティエヌ? レティエヌなのか?」


 体を揺するが、目を開けない。


「おい……。あれ? おい……!」


 反応がない。やばいかも。尚も体を揺する。


「おい……、おい! レティエヌ!」


 すると、薄っすら、目が開いた。


「……生きてるか?」


「うん、生きてるよ。当たり前でしょ……」


 俺とレティエヌの計画では、俺が帝妃としてめちゃくちゃやって、困り果てた帝国人と獣人が一致団結して俺を倒そうとして、でもホントに倒されんの嫌だから、レティエヌが俺を倒すフリして移隠の儀をして、俺だけこっちに戻る、という手はずだった。


 ただ最後の方、帝妃の意識が表に出てきたから、俺の意識の方は曖昧になっちゃったんだけど……。しかしどうやら、この様子だとレティエヌはこっちに来ちまったらしい。


「なんでお前、こっち来ちゃったんだよ……」


「あんたが泳げないって言うから……」


 ところが、レティエヌはそんなことを言った。なんだか、質問と答えが食い違ってる。


「え……?」


「荻窪田泳げないから、助けに行ってあげたんでショオ」


 あぁ、そうか。


 俺を「荻窪田」って呼ぶってことは、もうこいつはレティエヌじゃないんだな。というより、レティエヌは優紀の奥深くに潜っていったんだな。


 そう思うと、淋しいが、目の前には優紀がいる。今度は圧倒的に優紀を感じる。久しぶりだなあ、お前。


 なんだかよくわからないが、レティエヌはこっちに来ることを選んだらしい。


 正直言おう。それは俺にとっては嬉しくはある。しかし、フレーナさんとタイガーマスク(名前忘れた)には申し訳なさもある。まぁ、別に俺が申し訳なく思う必要はないかもしれないが、言い出しっぺは俺なので、やっぱり申し訳ない。


 ただ、レティエヌは優紀の奥底に入っていってしまう。レティエヌとは、これからもずっと一緒だけど、もう、レティエヌとは話せない。多分、さっきのは最後の挨拶だったんだろう。


「何……、泣いてんの?」


「泣いてない……。川の水だ……」


「そんなに異世界行けなかったのが悔しいの?」


「俺、……異世界行ったんだよ」


「うん、……わかった」


「そうか……」


 やっぱり、こいつにも、まだ異世界の記憶はあるのだろうか。


「病院行こう。色々と」


「いや、そうじゃなくて。俺たちホントに……」


「おーい」


 遠くの方から声が聞こえてきた。振り向くと、綺羅星と原先生、それに葉月さんがこっちに向かって駆けてくるのが見えた。


「あ……」


 優紀が空を見た。


 頬にポツリと当たるものがあった。と、思う間に、雨が降って来た。なんだかその雨はやけに温かく感じた。


 そしてその雨の隙間から、光が差した。日が昇って来た。雨雲の間から、ほんの短い間だったけど、太陽が顔を見せた。


 雨が日の光を受けながら落ちてくる。葉も岩も濡れた世界は、全てが輝いているように見えた。なんだか違う世界に来たみたいだな、と思った。


 さて、母ちゃんが起きる前に帰らないと。

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