こっぱん 〜若き母の笑ってはいけない奮闘記と余談〜

八壁ゆかり

こっぱん 〜若き母の笑ってはいけない奮闘記〜

 その日も弥生やよいは大切な愛娘・百合香ゆりかと二人きりで夕食を終えた。弥生の夫で百合香の父である慎悟しんごは、最近仕事で出張が多い。


——それも覚悟して結婚したんだし、私ひとりでも百合香を守ってみせる!


 弥生は燃えていた。百合香はまだ四歳だ。多感な時期に寂しい思いをさせたくないと、弥生は自分の時間をほとんどとらずに百合香と共に過ごしていた。最近ではスマホ育児なんてものもあるが、弥生は自分の母がそうしてくれたように、直にふれあい、体温を感じられる子育てをしたいと希求していた。



 だが、料理中だけは問題だった。

 まさかIHでもないキッチンで四歳児を背負って火を使うわけにもいかず、カウンターキッチンから常に見える同室に百合香を玩具やビデオゲームなどと共に座らせ、万が一「ママー!」と突進してきても刃物や火が直撃しないよう簡易な柵までDIYで用意し、万全を期していた。


 魚料理を食べ終え、百合香が目をとろんとさせて、ホットカーペットを敷いたフローリングにこてんと横になった。野菜スープも飲みきっていたから、身体が温まって眠くなったのかな、と弥生は考え、ほんの少しの間、スマートフォンでお気に入りの若手俳優に関するニュースを読んだ。



 異変に気付いたのは、弥生の『推し』が来期の朝ドラに出演する可能性が高いとし、弥生が内心で興奮している時だった。

 百合香の息が荒く、何だか身体をもぞもぞと動かしている。心なしか顔も赤い。


「百合香? どうしたの?」


 最初はそう声をかけて顔を覗いた弥生だったが、百合香が腹を小さな手で搔きむしり始めたので、その手をどけて表面を見てみると、弥生は悲鳴を上げた。

 

——どうしよう、どうしよう! もう小児科開いてないし……救急車?! でももし受け入れ先がなかったら——?!


 弥生の思考回路は音速を超えるスピードでぐるぐると回転しパニック状態に陥ったが、一瞬冷静になったカンマ0.7秒の間に、「#7119」という数列を思い出した。救急車を呼ぶべきか、救急外来に行くべきか相談できる救急安心センター事業の番号だ。


 弥生はすぐさまスマホから若手俳優のニュース記事を閉じ、すぐに「#7119」にダイアルした。


 対応してくれたのは、初老と思われる男性だった。彼は冷静に弥生に状況の説明を要求した。

「よ、四歳の女の子です! お腹と両腕に、あの、その——!」

「冷静になってください、呼吸に問題はありませんか?」 

「あ、えと、苦しそうですが息はちゃんとしています。で、でもお腹が酷いんです! あの、夕食のカレイが原因かもしれません、素人判断ですけど——とにかく物凄いことになっていて——!」

「お母さん、落ち着きましょう。物凄いこと、というのは、具体的には?」



「こっぱんです!! お腹も両手もこっぱんだらけなんです!!!」



 電話口の向こうで、男性職員は首をひねっていた。


——こっぱん? コットンパンツの略だろう。


 言い忘れていたが、弥生と百合香が住んでいるのは東京都二十三区内だが、弥生は岡山と鳥取の県境の生まれ育ちであった。


「もしもし?! 聞いてます?! こっぱんがとにかくぎょうさんあって、部分的にほろせ、ほろせにもなっとって! もう真っ赤になっとる所もあって、その、肌がぼこぼこ腫れとって、こっぱんがどんどん合体して——!!」


——肌が赤くなる理由は様々だし、コットンパンツが合体、というのはよく分からない。ほろせ、ってなんか酒のあてみたいな名前だな。

 

 必死に訴える弥生をよそに、謎の言語を浴びせ続けられている男性職員はやや現実逃避に走った。ちなみに彼は神奈川県生まれ東京育ちであった。


「こっぱんはやっぱり皮膚科ですよね?! 住所はさっきお伝えしましたがこの辺りで今すぐ見ていただける所はありませんか?! もう、この子凄く苦しそうで——!」


「ええと……こっぱんというのは、何かの略称でしょうか?」

「はぁ?! こっぱんはこっぱんですよ! 何言っとるんですか! なんでこっぱんもほろせも分からん人がこんな仕事しとるんですか?!」


 とにかく弥生は百合香が心配なだけなのだ。この案内員に恨みがあるわけではない。ただ、自分が伝えたいことが伝わらない、自分が二十余年間日常的に使ってきた言葉が通じない、という理解しがたい現状に腹を立てると同時に、おそらくは自分が作った魚料理が原因であろうことが何となく分かってきたからこそそんな自分がふがいなく、同時に罪悪感にも駆られ、八つ当たりのような態度を取ってしまっているのだ。


「ええと、お子さんは嘔吐や下痢はしていますか?」

「はっ?! 話聞いてました?! こっぱんや言うとるやないですか! 吐いたり下したりはしとりません!」


——こういう時、若者だったらスマートフォンで『こっぱん』を検索、じゃない、『ググって』、意味を調べるのだろうな。


 案内員はやや疲れた遠い目で、自らの老いを感じながらそう考えた。

 それにしてもこの女性は物凄い剣幕だ。まあ当然だろう。まだ四歳の愛娘が『こっぱん』なる病魔に蝕まれているのだ、どんな驚異か想像も付かないが、可及的速やかに病状を確認して然るべき医療機関を紹介しよう、方言で怒鳴られるのってなんか恐いし、と、受話器を握り直した。


「先ほど食べたものが原因だったかもしれないとおっしゃっていましたよね? 魚を食べて蕁麻疹がでているということですか?」



「じんましん!!!」



 天啓であった。

 弥生はついにこの初老の案内員、今年で五十一歳になるはら和紀かずのりと、『蕁麻疹』、このひとことで幼気いたいけな四歳児の置かれている悲劇を共有し、通じ合うことができたのだ。


 原は、近場の救急外来を三カ所案内し、弥生は涙を流さんばかりに感謝して通話を終えた。

 その後弥生は、運転免許は持っているがこの精神状態ではまともに運転できないと判断し、タクシーを呼んで最も近い病院に百合香を連れて行って、適切な処理を受けた百合香はすぐに回復した。


 そして翌日、夫の慎悟が帰ってくると、

「百合香のこっぱん、大変だったんだよ!」

 と報告した。

 ちなみに慎悟は千葉県の生まれ育ちで、就職と共に上京してきた。


「こっぱんってなに?」


 洗濯物の入った袋を手渡しながら、あまりにも自然に、さも当然と言わんばかりのナチュラルさで慎悟が聞いてきたので、弥生はまたも呆然としてしまった。


「え、え、じゃあ慎悟ちゃん、ほろせって分かる?」

「ほろせ? なんかお酒のあてみたいだね」


 永遠に底に辿り着くことのない崖から突き落とされたような気分だった。

 弥生はすぐさまリヴィングのパソコンを立ち上げ、『こっぱん』で検索した。するとトップに出てきたのは『コットンパンツの略』であった。


「——えっ」


 弥生が短く低い声をあげると、


「弥生ちゃん、もしかしてこれのこと?」


 と、後ろから慎悟がスマートフォンを見せてきた。そこには不気味に腫れた蕁麻疹の画像がいくつもあり、それこそまさしく弥生の知っている『こっぱん』そのものであった。


「そう! それ!」

「弥生にこんなものが……。一応LINEで救急外来に行って大丈夫だったとは聞いてたけど、確かにこれを見たら俺もパニクるだろうなぁ……」


 深く頷く慎悟の態度に安堵する弥生であったが、慎悟のスマートフォンをよくよく見てみると、検索ボックスには以下の文字列が並んでいた。


『岡山 方言 こっぱん 意味』



   ◇



「な、何だこれは?!」


 喫驚の声をあげたのは他でもない、自宅のデスクトップパソコンの前に座っていた原和紀(五十一歳)であった。

 どうしても弥生が連呼していた『こっぱん』なるものが頭に引っかかっていた彼は、終業後一人暮らしのマンションに帰宅し、パソコンで『蕁麻疹 こっぱん』で『ググって』、画像を見たのであった。


「こ、こんな恐ろしい蕁麻疹が四歳の女の子に発症していたというのか……! あの若い母親の剣幕も今なら理解できる——!」


 続いて原は『ほろせ』で『ググって』みた。


「なっ! なんと痛々しい!!」


 肌のほとんどの部分が真っ赤になり、画像によっては皮膚に凹凸までできている。かゆみを伴うものらしく、指で引っ掻いている写真も多々見受けられた。


「なんということだ——! こんなものをあてに酒が飲めるわけがない! 俺は方言をなめていた……! どうやら岡山の言葉らしいが、いくら二十三区内在住であろうと出身地は様々だ。あの母親のようにパニック状態に陥ったら『蕁麻疹』という言葉さえ忘れて使い慣れた方言しか出てこない可能性も十二分にある!」


 そこで原は缶ビールを一口ぐびりと飲んだ。

 

「これは——対策を講じる必要性がある」


 そして翌日から、原和紀は医療用語の方言を学習し始め、周囲から変わり者として見られるようになった。

 しかし彼は気にしなかった。

 すべては病人怪我人のためである。

 この大義の前に、自分に貼られるレッテルなど何でもないことだ。


 そして二年後、原はいつの間にか担当地区のみならず別エリアからも方言で何を言っているか分からない受信が入った際に、相談員として仲介に入る立場となった。

 周囲からの目線も手のひら返しとなり、上司から表彰状も幾度となく受け取った。

 だが原は慢心しなかった。

 思い出すのだ、あの時の若き母——弥生の悲痛な叫びを。


『こっぱん』


 そう、全てはこのひとつの単語から始まったのだった。

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